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中山町誌

桑原 探底 (くわばら たんてい)

 師は天保八年(一八三七)一二月二八日石見国那賀郡向野村の古山与助の弟として生まれた。石見国津和野町永太院七世堅壌黄中禅師に就いて入室伝法、明治二年松山市東雲町毘沙門より大興寺一五世住職として就任、同寺二〇年数々の業績を残して明治二二年下関市長府町功山寺(長府毛利藩菩提寺)三五世天先主黄禅師の後任に就任、かつ門司市慈雲寺開山となり、明治三八年一二月一三日同寺で遷化、時に六九才であった。
 大興寺住職となった師は寺門の興隆、教化伝道に力を尽す一方、本村が山間の一小村落でごく少数の人が寺子屋で村名・人名を学んでいるに過ぎない状態を何とかしたいと考えていた。漢学の造詣深く泰西の学問の必要性を痛感する師は、地方の青年を率いて大いに読書を奨励したので、師に就いて学ぶ者が多くなり、地方の形勢が一変したということである。
 明治五年学制の発布後、教育の重要性を説く師は奮励率先、明治六年六月一日、自ら一校を起こし臨泉小学校と名づけ校長となった。
 学校とはいっても旧藩主所有の里正役所を仮用したもので設備も不完全で寺子屋に等しく、子女の教育に幾多の困難も多かったようである。しかしながら教育の成果は少しずつではあるがあらわれ始め、当時北は郡中、南は内子間に唯一の小学校として面目を成し、遂に鞏固不抜の基礎を作り上げた。創立当時中山、出淵村より集まる生徒三〇名に対して、無等級無試験で読書・習字・作文を教えていたが、生徒の増加につれ明治七年移転、明治八年職員を一名増加、算術の教授を始めた。明治一二年増築、明治一七年長沢・平沢分教場を施設出張教授に当たるなど、明治二〇年三月下関転住により退職するまで、学校経営に全力を傾注した。
 大正一二年六月一日中山尋常高等小学校教育後援会は開校五〇年記念に師の碑を建立しその偉業を称えた。
 師は性温厚高潔、大柄な体格で高僧刈り、独身生活を送り、布施を自分で開いて見た事は一度もなかったという。