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中山町誌

仙波 雅子 (せんば まさこ)

 明治三七年(一九〇四)二月二九日、広田村曹洞宗秀禅寺住職林道貫の長女として生まれた。
 生来、聡明闊達で進取の気性に富み、自らの意志で丸亀高等女学校に進学した。同校卒業後二ケ月間、広田村高市小学校の教員として勤務したが、大正一三年(一九二四)三月退職し、同年八月中山町盛景寺住職仙波文翁と結婚し入寺した。
 翌一四年四月より約四年間、韓国郡山市妙心寺派開教所で文翁和尚と共に布教師として勤めたことがある。帰国後は、戦中、戦後を通じ町内の婦女子に和裁や華道を奉仕的に教えた。
 彼女の奉仕に関する逸話は多く、恵まれない家庭の子女を住み込ませ、その学資を支弁したり、率先して里子を受け入れたり気立てのやさしい婦人であった。また、中山町に来客があると寺へ招いて接待に努めたこともしばしばあった。
 寛大で包容力があり、意志表示も明確で、事の次第では、男女を問わず叱りつけるなど温かさと厳しさを兼ね備えた女性であった。
 戦後の公的な経歴では、中山婦人会長五年、中山町議会議員を通算四年、盛景寺境外地の提供と中山婦人会立中山保育園の設立、中山保育園長一五年(この間同園を中山町立保育園移管に尽力)、民生児童委員一八年、愛媛県保護司一八年などがある。
 このように、本町の教育・福祉・行政に多大の業績を残し、昭和四九年(一九七四)七〇歳の生涯を閉じた。同年八月には勲六等宝冠章受章。