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中山町誌

玉井 浩三 (たまい こうぞう)

 氏は明治二年(一八六九)三月二五日温泉郡北条町豊田家の次男に生まれた。松山中学校に学び、明治二七年泉町玉井家の養子となり、明治三二年養父の後をうけて郵便局長を継ぎ地方通信事務に尽瘁した。大正八年八月一六日推されて中山村長となり、昭和一〇年一一月二八日まで、四期一六年間連続してその職に就き地方自治及び産業の発展に力を尽くした。
 まず、野中小学校を現在地に移転新築して児童及び父兄の便を図り、大正一一年中山小学校教育後援会を結成、昭和三年同校中央二階建校舎を新築、旧校舎を移転し特別教室とした。農村不況の対策にも腐心し匡救事業として、串~中山線、池田~中山線、平村線、坪井線、父二峰~中山線等の道路開通に力を注ぎ、鉄道誘致にも熱意を見せ河上代議士を通じて運動し、大正一五年鉄道参与官、昭和二年鉄道大臣を迎えるまでに至ったが実現をみなかった。大正一四年四月一日町制を実施後、初の町長となった。農会幹事として地方産業の発展にも意を注ぎ、暇を見て弁当持参で町内を巡回して適地に栗の増殖を奨励し、農会技術員を大阪へ派遣し、栗の共同販売を強力に推進、特産品のハッタイ粉の企業化を計画、それを試作させたりもした。
 氏は雪のような白髪と美髭の持ち主で上京した時「その髭を売ってくれ」とせがまれ困ったという。書をよくし、俳句・謡曲・茶道・骨董・マージャン・玉突きと趣味広く、来客好きで、その趣味を通じて人々が絶えず出入りし、画家、書家などで長期滞在する者も珍しくなかったが、嫌な顔を見せた事はなかった。子供の躾は厳しく、ぞんざいな口調や立ってものを言うような不作法を固く禁じ、自分も礼儀作法を重んじた。
 家業の酒屋は家人に任せきりで、社会公共の仕事に没頭し、中山町発展の土台を培い、昭和一四(一九三九)年一〇月二七日、七一才をもって死亡した。