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中山町誌

松本 萬蔵 (まつもと まんぞう)

 氏は明治一〇年(一八七七)一二月一一日大字佐礼谷安別当に生まれた。
 明治三九年六月四日収入役に就任、明治四四年四月二六日旧佐礼谷村村長となり、以来六回村長に当選、村政に携わった。昭和一〇年一二月一七日第六回目の任期満了と同時に、再三の勤めを辞退したが、村行政の事務の円滑な処理の必要を痛感した氏は、進んで一介の書記として奉職、昭和一九年八月一六日、昭和一九年度第一回追加更正予算成立に尽力したのを最後に、病を受けて登庁をやめるまで実に四〇年間、一〇年一日の如く一日の病気欠勤もなく精励した。
 氏が佐礼谷村のために尽くした功績は数え切れない程であるが、特に里道の改修、村基本財産林の購入、部落有財産の統一、勤倹貯蓄の奨励、電燈の導入、隔離病舎の移転改築、自給肥料増産の実践奨励、夜学会常会の運営指導等に力を尽くした。産業経済にも熱意を見せ有限責任佐礼谷村信用購買販売組合を大正一二年二月二〇日設立し組合長としてその運営に当たった。
 氏は多芸多趣味で、犂雪と号し俳句会「むささび会」を発起し句会を開き後進を指導した(むささび会は今日なお、氏の徳を偲びながら毎月例会が開かれている)。平成四年三月には真光寺境内に句碑が建立された。華・茶の道にも達し、書画骨董の鑑賞、浄瑠璃にも深い造詣があり、割烹に長じ殊に河豚の料理は得意であった。座談が上手で話題続出聞く人を飽かせないばかりか、浄瑠璃の言葉を引用した座談は深い感銘を与えた。興至ると自作の名所づくしを口ずさみ、堆肥の作り方の技術にすぐれ遠近より多数の見学者があったという事にも氏の人柄が偲ばれる。
 明治三九年安別当に夜学を起こしてから六八才の生涯を終わるまで、終生村を思い公務に一身を捧げた氏こそ郷土の恩人として忘れることの出来ない人物といえよう。
 昭和二〇年没、享年六八歳。