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中山町誌

森平 萬治郎 (もりひら まんじろう)

 明治三年(一八七〇)一〇月一日伊予郡中山村六〇三番戸で父徳平母夕ケの長男として生まれ、若年で父を失い家業の農林業を継ぎ、勤勉節約を信条として家運の隆昌に努めた。
 明治三二年平村区長に就任、同四〇年三月一二日から大正六年三月一一日まで三期、同一四年三月一一日から昭和一二年三月一〇日まで三期と前後二二年間町村会議員として町村政に参画、幾多の重要課題の解決に活躍した。
 特に昭和初期不況によって町民が困窮を極めた時、匡救事業を起こし、委員長として率先して部落道を改修、特に起点中山川への架橋は、弟(金五郎)と協同し私財を投じて建設、地区住民は「森平橋」と称し感謝している。
 また産業経済の発展に意を注ぎ、明治四四年保証責任中山信用購買販売利用組合の設立者となり、非常勤理事として経営に尽力した。しかし同組合の不良売掛の増大と貸付金回収不能に加えて、第一次世界大戦後の不況から、運営が危機に陥るに及んだ。
 大正一二年輿望を担って組合長に就任し再建に着手した。組合設立以来の理事として経営に精通する氏は、直ちに不良債権の整理を断行、また貯金の払戻しの円滑化を図るため私財を提供する等、鋭意経営改善に努力した結果、昭和二年には組合運営も安定の度を加えてきた。そこで再建第二弾として事業内容の改善をねらい、生産指導と農林産物の共同販売を計画、技術員を大阪に派遣して栗の共同販売事業を始め、米国へも輸出するなど中山栗の声価を高めた。これと並行して木炭加工共同販売事業も実績を挙げ、昭和一二年には経営規模の増大に伴い倉庫の増設の必要に迫られるまでに発展を見た。
 こうして組合躍進の基盤を確立し、昭和一四年四月引退するまで組合長在職一六年間の業績は枚挙にいとまがない。
 氏は、資性温厚、常に「身辺の整理整頓、社会人としては誠意ある言行一致」を信条としていたが、身をもってこれを実践した人といえる。
 昭和二七年一一月二三日没、享年八一歳。