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中山町誌

山岡 栄 (やまおか さかえ)

 氏は明治三五年(一九〇二)一〇月二三日中山町大字出淵に生まれた。伊予実業学校卒業後は中山青年団の指導、農事改良等に力を尽くし、やがて伊予郡連合青年団長となってますます青年指導に尽力した。もちろん徳望手腕共に高く、特に選ばれて昭和御大典には地方施饌に招かれ記念章を賜った。
 昭和五年四月大志を抱いて台湾に渡り、農林国民学校に奉職し日夜子弟の教導に専心した。教育愛に燃え一人一人の生徒に熱情を傾け指導に当たった氏の薫化は、日浅いにも拘わらず父兄の信望子弟の敬慕を一身に集めていた。
 五月九日朝来の豪雨で、食水か渓は烈しく増水して、同渓中の島に架けた橋は流失した。その時帰途についた生徒達が進退に窮して刻々と危険が迫っている事を聞き、氏は同僚と共に直ちに現場へ駆けつけた。眼前の濁水に呑まれようとする生徒の危急を見た氏は我を忘れて濁流に飛び込み単身救助に向かった。
 しかし、この時、水は既に五尺以上に増水して奔流は渦を巻いていた。いかに水泳に長じている氏もこれには抗し得ないで間もなく激流に足元をさらわれて水中に転倒し、濁流に呑まれ救助の暇もなく遂に水中に没した。
 やがて氏の死体は同所から二・五キロの下流に打ち上げられた。享年二九才。この壮烈な行動は鬼神も泣かしめるものがあった。この教育精神に燃えた行動と責任感の強いこととは誠に教育者の鑑であって、悲報が伝わると台湾島民挙げてこの壮烈な死を悼んだといわれる。台湾教育会総裁より表彰状を贈られ、校葬の栄に浴した。
 昭和一〇年三月伊予郡連合青年団、中山青年団が主催となって盛景寺前に殉職記念碑を建て、氏の犠牲的教育愛を永く称えている。