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双海町誌

第二節 異常気象と災害

 大洲藩の記録によると、一三三一(元弘元)年から一八六八(明治元)年までに風水害は二四五回発生している。これを月別にみると、三分の一が八・九月に集中していることが分かる。これは、夏から秋に多い台風から数多くの被害を受けていたと考えられる。また、干ばつは二九回と記録されていて、やはり夏に発生したと考えられるが、その被害状況は明らかではない。
 明治以降も八・九月の台風は、稲の出穂期と重なり、大きな被害につながっていた。そのため平成になると、八月中に収穫の時期を迎える早場米が主流となる。ところが、それに並行するかのように、七月に台風が上陸するという異常気象が発生するようになった。


一 水害と干ばつ・異常低温

 享保の長雨
 江戸時代、双海地域が最も多大な被害を受けたのは、一七三二(享保十七)年であった。五月より九月まで霖雨・淫雨といわれた長雨が続き、「ウンカ」(害虫)が大発生したことにより、作物はまったく実りを得なかった。住民は山野の野草やその根まで食べ、ついにはすべての青物が食べ尽くされたという。高野川村では数十人が餓死したという、想像を絶する記録が残っている。上灘・高岸・大久保・串村の人々の惨状も、記録はないが同一のものと思われる。しかし大洲藩庁は蔵門を開かなかった。この年の飢饉は関西一帯にも及んだと伝えられている。

 明治六年の暴風雨
 一八七三(明治六)年九月、双海地域に来襲した暴風雨で河川に甚大な被害を受けた。上灘川の上流が五四箇所決壊し、川のなかに土砂が山をなしたと記録されている。

 明治十七年の大津波
 一八八四(明治十七)年、大津波が発生し、海岸一体の岸壁や家屋を押し流す大惨事となった。

 明治十九年の暴風雨
 一八八六(明治十九)年八月、暴風雨により各河川の堤防が決壊し、人家や田畑が流出するなど被害は甚大であった。そのため、一時は住民の力では復旧不可能とまでいわれ、経済的に最大の危機を迎えた。下灘村の被害の一例をあげる。
 ・流出家屋     一二戸
 ・半壊家屋     一三戸
 ・流出荒廃田   一三ヘクタール
 ・流出堤防  四七〇〇メートル
 この復旧工事完成には二〇年という歳月を費やし、明治四十年ごろからようやく田畑の耕作が可能になったようである。

 昭和八年の大津波
 一九三三(昭和八)年九月、愛媛県の海岸一帯を襲う津波が発生した。双海地域においても、多数の流出家屋をもたらし、護岸は壊滅に近い状態であった。県下一円の被害が甚大であるとして、昭和天皇からの見舞い金が、双海地域を含めた各市町村に下賜された。下灘村の被害の一例をあげる。
 ・流出家屋   一二戸
 ・半壊家屋   二一戸
 ・護岸の破損 七七七メートル

 昭和十八年の長雨・豪雨
 一九四三(昭和十八)年の夏季(六月・七月・八月)は、六〇日近くも降雨があった。その間、七月二十一日から四日間豪雨が続き、農作物などの被害は深刻であった。
 更に各河川の護岸などは決壊して、海岸道路や鉄道及び河川沿いの道路は長期間不通になった。
(松山市の降雨量 七月二十一日 五九・七ミリ、二十二日 一六五・二ミリ、二十三日 二一五・二ミリ、二十四日 九八・三ミリ、四日間計五三八・三ミリ、当年間降雨量二〇四〇・四ミリ)
 ・流出家屋 一五戸
 ・半壊家屋 一一戸
 ・その他の建物流出
  畜牛市場建物 二棟
  下灘第二国民学校 二階建て二棟
  倉庫 一棟
 ・水田の流出  一・五ヘクタール
 ・堤防の崩壊 三〇六〇メートル
 ・山林崩壊   三・五ヘクタール
 ・県道橋流出    一箇所
 下灘小学校が保管している「富貴小学校誌」によると下灘第二国民学校(当時)が流出するまで四日間の様子を次のとおり生々しく伝えている。
   水害による流失状況
昭和十八年七月二十一日午后六時ごろ夕立来る。少時の後、雨は止みたるも夜半よりの降雨は脚強し 翌二十二日は児童全部豪雨の中を勇敢にも登校せり然れども降雨猶激しく出水刻々と増加午前九時、通学路の危険を慮り児童を帰宅せしむ。
そのころ一大音響と共に運動場の一部約二坪決潰し河水頻りに運動場を浸蝕す。雨猶止まず午后十時半ごろ豪音と共に新校舎のコンクリート壁下の石垣(高さ三間半、長さ七間幅二間)決潰、残り三間大亀裂を生ず。近隣の人々多数参集徹夜警戒に當る。
翌二十三日 学校は出水のため児童の出席の模様なし。終日豪雨止まさる為河水増加。為に警防団出動警戒す。
七月二十四日 降雨依然として止ます。午前十時ごろ学校近隣の民家二棟倒壊流失河水は運動場まて上昇し運動場には数條の亀裂を生したり午后二時ごろ旧校舎(二階建四教室、教員住宅風呂場)浸水濁流もの凄し、新校舎の土台際まて川沿ひに決潰すれ共校舎未だ無事。
豪雨中勅語謄本はしめ重要書類全部安全地域に運び出す。午后五時半ごろより雨止み空も明く警戒の人々も一時安堵の胸をなて下ろし、河水も減退の模様なし
然るに午后六時ごろ川上の松尾部落の一大地崩れにより自然に生したるダムの堤決潰し水高六米に近き濁流瞬く間に奔流し来り近隣の人家三戸六棟、校舎二棟、運動場もろ共轟然たる音響と共に倒潰流失埋没。川底より十米の高さにある国有鉄道線路を突破し荒波打寄する伊豫灘海岸まで突出さる。警戒中の老若男女、職員辛じて脱出に成功。人命に被害なきを得たり。
其の情景言語に絶するの惨状。礎石の一部。奉安殿を残す以外何物もなく第二国民学校のありし地所とも思はれず。 (原文)

 昭和二十九年の強風
 一九五四(昭和二十九)年九月二十五・二十六日、台風一五号が上陸し、松山気象台で三二メートル以上の強風を記録した。海岸では八〇センチ以上の気象潮が起こり、最高の潮位が記録された。それは松山港検潮儀設置以来の記録となったと報道されている。
 ・破損漁船   二二隻
 ・流出非住家屋  五戸
 ・半壊家屋   一二戸
 ・護岸の破損 二八五メートル

 昭和四十年の豪雨
 一九六五(昭和四十)年九月十三日から十七日まで、台風二三号による豪雨が本町の各所に被害を出した。雨量は二三六ミリを記録した。被害箇所のうち、町事業の農道関係などは次のとおりであった。
 ・農道…本村・東越・両谷A・両谷B・替前・高野川灘山・両谷西谷・本郷松戸・上古谷・本郷柳・石ノ久保・閏住下り松・日喰下十郎・日喰・奥東・壺神
 ・農地…富貴浜・小網・富貴第一・第二・石ノ久保
 ・水路…本郷・上古谷・久保第一・本谷
 ・他……本郷光久保頭首工・奥東第二頭首工

 昭和四十二年の大干ばつ
 一九六七(昭和四十二)年夏、西日本全体を大干ばつが襲った。七月九日に九三・五ミリの雨があってから、十月五日までの実に八七日間、ほとんど降雨がなかったのである。地表は乾燥し、畑作はもちろん水耕・果樹園芸にまで被害が及んだ。その被害と、対策としての国庫補助申請金額は次のとおりである(双海町産業経済課調べ)。
  ・農作物の被害
  水稲     一〇二四万円
  サツマイモ  一○四八万四〇〇〇円
  クリ      一八〇万円
  カキ       八五万五〇〇〇円
  ミカン  一億三四五〇万円
  樹体被害 一億三五二〇万円
  合計   二億九三〇七万九〇〇〇円
  ・応急対策事業
  さく井     一八一万六〇〇〇円
  水路     二一九七万三〇〇〇円
  その他    一七五九万五〇〇〇円
  揚水機    六〇二七万五〇〇〇円

  原動機    二一七八万六〇〇〇円
  その他       三万九〇〇〇円
  借入揚水機    一四万二〇〇〇円
  借入原動機     九万三〇〇〇円
  合計   一億二三七一万九〇〇〇円
 これは国庫補助申請のための金額であるが、これに県費補助申請の七〇八・九万円、雑費五五・九万円を加えると、一億三一三六・七万円が支出されたことになる。更に、六十余日にわたる昼夜兼行の灌水作業労賃を加えると、莫大な金額になった。

 昭和四十五年の豪雨
 一九七〇(昭和四十五)年八月二十一日、南太平洋で発生した台風一〇号が北上して、午前十時四十分ごろに本町を通過した。このとき松山地方気象台では、中心気圧九七〇・九ミリバール、雨量は一二五ミリを計測した。なお町内の山間部では約三二〇ミリの雨量といわれた。高潮で豊田港と上灘港付近に被害を受け、上灘川は支流を合わせ、二〇か所以上が決壊した。特に富岡川と豊田川は惨状を極め、道路・水田ともに一面河原と化した。同日、双海町役場に「双海町災害対策本部」を設置し、町長以下全職員が復旧工事の測量や、国と県への申請処理に忙殺された。町議会議員も本町全域にわたり現地を視察し、会議を重ね、政府への陳情などに当たった。
 一九七七(昭和五十二)年二月、三二年ぶりといわれるほどの異常低温が発生した。超一級といわれたシベリア寒気団の南下で、本町は二月十五日の夕方から降雪があり、海岸端にも約五センチの積雪を見た。この雪は通称「下雪」といわれ、特に下灘地区は一面銀世界になった。氷点以下の気温は十六日以降十八日の朝まで続き、その間は海岸道路面も積雪が凍結したままであった。
 通常であれば、降雪はあってもその日のうちに溶ける海岸道路だけに、チェーンなしの車が接触・追突事故を起こしたり、立ち往生したりして、交通渋滞が続出した。
 この記録は、終戦の年の一九四五(昭和二十)年一月二十八日の松山気象台の記録(本町の記録はない)によるマイナス六・四度以来、三二年ぶりの記録という。町内の池はほとんど凍り、各地で水道管が破裂して一時断水した。なかには、自動車のエンジンが寒さのために割れるものもあったと伝えられる。
 もちろん、この凍結でバスや汽車は一部運休し、奥地部の各集落では五日前後孤立状態が続いた。

 昭和五十七年の集中豪雨
 一九八二(昭和五十七)年七月中旬から下旬にかけて、九州中北部に停滞した梅雨前線の影響で七月十二日に四二ミリの降雨以来、十三日・三九ミリ、十四日・四六ミリ、十五・十六・十七日と小雨が続き、十八日にも五一ミリの降雨があり、十分地盤が緩んでいた。そこへ二十三日に三一ミリの降雨があり、翌二十四日に九八ミリの集中豪雨があった。十二時に水防本部を役場に設置して、消防団員が出動して警戒に当たった。午後は雨足もやわらぎ、大災害の心配もなくなったので十七時に解散した。
 しかし、町道奥大栄線で通称「石こけ場」の山留工が大幅に崩落(以後、県営で抜本的な治山工事を施工)した。その他、土砂崩れ等が多数あったが、人的災害はなかった。

 平成五年の異常低温と長雨
 一九九三(平成五)年は記録的な長雨となり、冷夏になった。五月二十九日に一〇ミリの降雨があり、気象庁は四国地方が梅雨入りしたと宣言した。六月中に四五五・五ミリの降雨があり、七月二十七日には台風五号が上陸して六九・六ミリの集中豪雨があった。その後、梅雨前線も北上したので気象庁は梅雨明けを同二十九日に宣言した。
 しかし、八月に入っても雨天と曇天が続き、九月一日になって気象庁は「今年は梅雨明けが決められない」として、七月二十九日の梅雨明け宣言を撤回するほどの異常さであった。六月の降雨は四五五・五ミリ、七月は四四二ミリ、八月は一六九・五ミリ、九月は三二〇・四ミリ、四か月合計一三八七・四ミリで、一年間の平均雨量を超えた降雨量であった。多雨・日照不足・冷夏で野菜が不足し、高騰した。ミカンの糖度も低下し、価格に影響した。
 異常気象の原因は、赤道付近を東から西に吹く貿易風が弱まり、通常は西に流される温かい海水がペルー沖にたまって発生する「エルニーニョ現象」によるといわれた。
〈長雨による直接被害状況〉
 ・町道  一七か所   六〇〇〇万円
 ・農地   七か所    六七四万円
 ・農道等 二四か所   三四六〇万円
 ・林道   三か所   三八二三万円
  合計  五一か所 一億三九五七万円

 平成六年の異常渇水
 一九九四(平成六)年度は年間を通じて降雨量の少ない年であった(次ページ参照)。すべての月で例年の月平均雨量を下回った。特に春以降は少なく、七月二十五日(五二ミリ)・二十六日(一五ミリ)から九月二十八日(四九ミリ)までの二か月間は、雨らしい雨がなかった。更に七月には台風が暖かい空気を持ち込み、八月に入っても太平洋高気圧の勢力が強く、九月中旬を過ぎても連日のかんかん照りが続いた。
 町内の多くの水道施設では時間給水とし、果樹園では給水車での散水などを続けた。山林も西に面した杉・ヒノキ林に立ち枯れが発生した。
 この年の総雨量は七八八・五ミリであり、一九七四(昭和四十九)年度から二〇〇三(平成十五)年度までの三〇年間の年平均雨量一三三八ミリと比較しても、約半分の総雨量であった。

 平成十年の台風一〇号水害
 一九九八(平成十)年十月十七日、雨台風といわれた台風一〇号により、本町の各地で水害が発生した。
 二四ページの表のとおり、九月中・下旬で合計一九〇ミリの降雨に続き、十月初旬に八〇ミリの雨量があり、地盤が緩んでいるところへ、十月十六日に四四・五ミリ、十七日に一三一・五ミリの降雨があった。更に二五ページの表のとおり、十七日の一三一・五ミリの降雨のうち、十八時~十九時に二六・五ミリ、十九時~二十時に一八・五ミリ、二十時~二十一時に三九・五ミリ、二十一時~二十二時に二七ミリという四時間で実に一一一・五ミリの激しい集中豪雨を記録した。
 これらの激しい降雨によって、林道カヤマ線が崩壊して、下方の岡集落の水源地が壊滅したほか、本郷簡易水道の水源地三か所のうち、二箇所は土砂で埋没、一箇所は決壊という、全滅的ともいえる被害状況となった。
 本町全域では、農地農業用施設災害九七件、林道施設災害一三件、公共土木施設災害五三件の合計一六三件で被害総額四億八〇〇〇万円に達した。水道施設や道路の崩土砂除去など、緊急を要するものは町単独で対処したが、多くは次年度以降に国庫補助事業として復旧した。

 平成十六年の梅雨前線災害
 二〇〇四(平成十六)年六月二十七日十時三十分から十一時三十分の一時間で五二ミリの豪雨があった。更に翌二十八日○時~一時で一四・五ミリ、一時~二時で四六ミリの豪雨があり、城之下地区ほか農地二八箇所、農業施設二三箇所、河川四箇所、道路一八箇所が被害を受け、城之下地区以外で被害額二億一〇〇〇万円になった。
 特に城之下地区は裏の本尊山北面が中腹から筋状に崩壊し、その土石流がJR線とその下方の墓地や民家を破壊した。
 双海町は二十八日二時三十三分、災害対策本部を役場に設置、三時十分、城之下地区のうち一〇世帯に対し避難勧告を出し、灘町にある老人憩いの家への避難が行われた。
 JR線は線路上など上部の崩土を除去し、山手擁壁上部に防御壁を設置して、六月三十日午後から、二日ぶりに運転を再開した。
 その後も散発的に降雨があったので避難は続けられたが、七月九日十二時に災害対策本部を解散、同時に避難勧告も解除した。

二 地   震
 双海地域が震源地となった地震は現在のところ記録はない。近隣の地で起こり、大きな揺れを記録したものを挙げると次のとおりである。

 一六四九(慶安二)年三月十七日
 ・マグニチュード七・〇
 ・震源地 伊予灘
 伊予、安芸、松山城・宇和島城石垣崩壊

 一六八五(貞享二)年十二月二十九日
 ・マグニチュード五・九
 ・震源地 不明
 松山城破損、道後温泉湧出止まる

 一七四九(寛永二)年五月二十五日
 ・マグニチュード六・七
 ・震源地 愛媛県南予地方
  宇和島城破損

 安政南海地震
 ・一八五四(安政元)年十二月二十四日
 ・マグニチュード八・四
 ・震源地 豊後水道
 古記によると、十一月五日(旧暦)初震が起こり、以降七日間揺れ続けたとあり、双海地域の様子を次のとおり伝えている。

「大震災あり、十一月五日を初日とし大小動揺間断なく、沈静までの日数七日間。其の間激動して山を崩し、樹木を倒し、飛鳥地に落ち、地盤は亀裂し、泥水噴出数十尺も暴騰散乱し、人畜被害多し。
 特に避難者は堅固の土地に、板又は竹を組み居を造り、古老の本災鎮静祈願に神の詠歌を動く毎に(コーコー)と連唱せしと言う」
空を飛ぶ鳥が地震のため地に落ちたとは、木々が揺れ動き枝に止まりかねて地面に伏せたのであろう。

 一八五六(安政三)年
 ・マグニチュード不明
 古記によると、双海地域沖の海面各所に潮や泥水が噴出したとある。そのころから海岸一帯が陥没(地盤沈下)し各井戸に塩水を含有せりと伝えている。

 一九〇三(明治三十六)年三月二十一日
 ・マグニチュード六・二
 ・震源地 伊予灘
 強震部は伊予・安芸・豊後一帯で、大洲町近辺では器物の倒壊や山頂からの岩石の崩落により道路を塞ぐ場所があった。引き続き数回の余震がみられた。

 芸予地震
 ・一九〇五(明治三十八)年六月二日
 ・マグニチュード(一回目)七・二 (二回目)六・〇
 ・震源地 安芸灘
 同日昼夜に二回の大きな振れを観測した。
 被害は松山市・温泉・越智・伊予各郡にわたり家屋全壊七戸、半壊五八戸、破損二三一戸、建造物の崩壊一六箇所、傷者一七人、溝渠破損一三箇所、塀・石垣破損一三六箇所、電線切断二〇箇所、煙突倒壊七本、橋りょう破損二箇所、堤防・道路破損一五三箇所。
 梅津寺~高浜間県道に七二・八メートル、宇和島堀端通り学校前の路面も三六メートルにわたり亀裂を生じた。

 一九〇六(明治三十九)年五月二十二日
 ・マグニチュード六・五
 ・震源地 伊予灘
 安芸、伊予の海岸地区で時計が止まり、水が溢れ出る。家屋は激しく揺れたが倒壊などの被害はなかった。

一九二七(昭和二)年三月七日
 ・マグニチュード七・三
 ・震源地 奥丹後若狭湾付近
 東予地方にかなり強く家屋の揺れがあり、屋外に飛び出す人がいるほどであった。南予地方は微震であった。

 一九三七(昭和十二)年二月二十七日
 ・マグニチュード五・九
 ・震源地 安芸灘
 松山市武徳殿のガラスが破損し、三津浜缶詰会社の煙突が倒壊した。

 昭和南海地震
  ・一九四六(昭和二十一)年十二月二十一日
  ・マグニチュード八・〇
  ・震源地 紀伊半島沖
 宇摩郡、新居郡で激しい揺れを感じた。双海地域の海岸線は地盤沈下四〇から五〇センチに及ぶ。
 宇和島での津波の第一波は二十一日五時二十分、最大波高(全振幅)は同日七時十二分に二三四センチを記録。
 「道後温泉湧出停止七〇日間」        『松山市史』より
 「愛媛県の被害は死者二六、負傷者三二、住家全壊一五五、非住家全壊一四七、家屋浸水三二〇、道路損壊五六、橋梁損壊八、堤防損壊六七」   (内務省警保局公安第一課による)

 日向灘地震
 ・一九六八(昭和四十三)年四月一日
 ・発生時 九時四十二分
 ・マグニチュード七・五(震度 松山・宇和島四)
 ・震源地 日向灘(北緯三二度一七分 東経一三二度三〇分 深さ四〇キロ地点)
 松山市でブロック塀が倒壊し二人負傷、西宇和郡三崎町では石灯籠が倒れ一人負傷、県内各地で家屋の被害、地割れなどがあった。約四万二〇〇〇戸が停電、四国の国鉄は全線をストップ、ダイヤは大幅に乱れた。宇和海沿岸に津波警報を発表、最大波高(全振幅)は松山一一センチ宇和島四七センチを記録。西宇和郡三瓶町で一・七メートルの高潮の報道もあった。
   「建物損壊二九八六棟、被害額一億六〇〇〇万円」
                  (愛媛県消防防災課による)
  負傷者 三人
  国鉄列車運休 十時五分から十二時十五分まで
  道路亀裂、護岸、家屋壁ひび割れ多数
  四月一日十六時十四分余震あり
   宇和島 震度三 松山 〃二  大洲 〃一 今治 〃一

 一九六八(昭和四十三)年八月六日
 ・発生時 一時十七分
 ・マグニチュード六・六 (震度 宇和島五 松山四)
 ・震源地 豊後水道(北緯三三度一八分 東経一三二度二三分 深さ四〇キロ地点)
 宇和島測候所開設以来初めての震度五を観測。県内各地で負傷者が発生、建物被害、地割れなどが多発した。停電約一一万戸、
宇和島市の石油タンクのパイプが破損し重油約一七〇キロリットルが海上に流出した。国鉄は予讃線松山以西を中心に被害が続出、不通になった予讃線大洲ー平野間は八月十日に復旧した。
 「負傷者一八人、建物損壊一万一二九六棟、被害額宇和島を中心に九億一〇〇〇万円」        (愛媛県消防防災課による)
 停電 宇和島・八幡浜・松山   一一万七、八六七戸
    双海町・伊予市・松前町・中山町 一、八〇〇戸
         計   一一万九、六六七戸
                 (うち双海町七五戸)

 芸予地震
 ・発生時 二〇〇一(平成十三)年三月二十四日十五時二十七分
 ・マグニチュード 六・七
 ・震源地 安芸灘(北緯三四度七分二秒 東経一三二度四一分五秒 深さ五一キロ)
 愛媛県では松山を含む一九の観測点で震度五強を観測、松山で震度五を観測したのは一九〇五年の芸予地震以来。

 「愛媛県では人的被害は死者一人、重傷七人、軽傷六八人、物的被害は住家全壊二棟、半壊四〇棟、一部損壊一万一一九六棟、非住家その他三棟、田畑埋没五ヘクタール、文教施設二七三箇所、病院二八箇所、道路五六箇所、河川八箇所、港湾一三箇所、鉄道不通一箇所、水道断水四二五戸、停電六八三六戸におよんだ。被害総額は六〇億六九八〇万三千円、なお最大時一一世帯三〇人に避難勧告、今治市に災害救助法が適用された」     (消防庁による)
 本町では震度五弱という本町始まって以来の大地震が発生した。また、その後も二十四日から二十六日で体感し得た余震が数回あった。震源地付近での計測では余震三三八回と記録されている。
 双海町は災害対策本部を役場に設置し、消防団員も一三七人が出勤して被害の調査と対策に当たった。本町では電話が一時不通となったほかは、停電も人的被害も発生しなかったため、災害対策本部は二十五日午後五時に解散した。
 被害概要
 ・風呂場全壊 一箇所(裏山の崖崩れによる)
 ・玉垣倒壊  一 〃 (本郷・三島神社)
 ・墓石倒壊  二 〃 (高野川)
 ・水道破損  二 〃 (下浜)
 その他、本町全域では次のとおりであった。
 ・石垣などの破損 一六箇所
 ・屋根瓦の落下   四棟
 ・壁崩壊      一棟
 ・屋敷の亀裂   一一箇所
 ・町・県道の崩土・落石などで一時通行止め 三箇所
 届け出がなく確認されていないが、屋根瓦のずれや、壁の亀裂は多数の家屋で発生したようだ。

昭和四二年度雨量表

昭和四二年度雨量表


台風一〇号被害状況調

台風一〇号被害状況調


西日本の昭和52年2月16日朝の最低気温の分布図

西日本の昭和52年2月16日朝の最低気温の分布図


昭和五七年七月一六日・一八日・二三日・二四日の時間別雨量

昭和五七年七月一六日・一八日・二三日・二四日の時間別雨量


松山地方気象台の降水量(平成6年)

松山地方気象台の降水量(平成6年)


平成六年別雨量集計表

平成六年別雨量集計表


平成一〇年度総雨量集計表

平成一〇年度総雨量集計表


平成一〇年一〇月一六日・一七日の時間雨量

平成一〇年一〇月一六日・一七日の時間雨量