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双海町誌

第一節 日本の地質概要

一 日本列島の誕生
 日本列島が誕生した経緯については様々な学説があるが、一般に有力とされているのは、古生代ベルム紀(二億五〇〇〇万年前~二億九〇〇〇万年前)から中生代三畳紀(二億年前~二億五〇○○万年前)にかけての大規模な造山運動によって海底が隆起し、現在の山口県の日本海側あたりから海面上に露出して陸地が形成されていったとする説である。
 そうした活動が続くことで、日本列島の形がほぼ整ったのは、約二五〇万年前の新世代第四紀の初めごろだといわれている。

二 秩父古生層
 日本列島の山地の多くの部分を占める北上、足尾、関東、赤石、美濃、飛騨、紀伊、四国、九州諸山地の岩石の大部分は、いずれも古生代に生成し、秩父地方の岩石に似ているため、秩父古生層と呼ばれている。約三億年前、古生代終わりごろの石炭紀、ベルム紀にできたもので、石灰岩を含むことが多い。
 古生代の終わりごろは、活発な造山運動が続いた時期で、地下の深いところでは深成岩がつくられ、また広い地域にわたり岩石が様々な作用を受けて変成岩に変わった。

三 フォッサマグナと中央構造線
 中生代白亜紀から新世代暁新世にかけて、日本の地形と地質には大きな変動が生じた。その変動が生み出した最大のものは、中部日本を縦断するフォッサマグナと、西南日本を南北に区切る中央構造線である。
(1) フォッサマグナ(約七〇〇〇万年前)岩漿(マグマ)の急激な活動と地殻の伸縮によって大断層が生じ、新潟県の糸魚川から静岡に至る大地溝帯を形成した。この大地溝帯をフォッサマグナ(糸魚川静岡地溝帯)という。
 この線を境にして、北が東北日本、南が西南日本であり、日本は大きく二分されることになった。
(2) 中央構造線(約七〇〇〇万年前)
 中央構造線は、フォッサマグナと並ぶ大地溝帯で、長野県諏訪湖の南から紀伊半島を経て本県の四国中央市、砥部町、唐川谷、本町の犬寄、上灘川付近を通って九州に達する、長さ九〇〇キロの大断層である。紀伊半島を境として、東は片麻岩や花崗岩の領家帯の岩層、西は和泉層群でできている。また、この線に沿って多くの火山岩類の噴出がみられる。
 西南日本は、この中央構造線を境界線として、内帯(北側)と外帯(南側)のふたつに大きく区分されている。

四 日本の新しい地質
 新生代の第三紀に起こった激しい火山活動は、大量の火成岩を生成した。また、同じころに堆積岩などもつくられた。新生代にできたこれらの岩石が占める面積は、日本の国土の約六五パーセントに及ぶといわれる。また、関東平野、濃尾平野、大阪平野をはじめ、多くの平野部が形成されたのも、この新生代のことである。
 新生代第三紀に生まれた地質的特徴で、もうひとつの重要なものは、石炭層である。これは、土砂とともに運ばれた莫大な量の植物が、海岸近くの湿地帯で強圧を受けて変質してできたもので、三池、筑豊、常磐、石狩などの炭田は、そうした石炭層のたまものである。
 石炭層に続いてできたのは、新潟、山形、秋田などの油田地帯である。水中のおびただしい浮遊動物(プランクトン等)の死骸が水底に堆積し、やはり強圧を受けて生成したものだといわれている。

五 日本列島の将来
 日本の国土の地質構造は複雑で、地盤の変動が激しいことが大きな特色だとされている。そのため、地震、津波など、災害につながる事象も起こりやすく、同時にそれらの事象が新たな地盤の変動を生んで、日本列島の地盤は将来も極めて不安定である。
 日本の国土に住む者は、そうした不安定な地盤の上に生活していることを忘れず、公私の両面で種々の対策を講じてゆく用意が必要だろう。


日本の地質概要

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