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双海町誌

第三節 双海町の地質概要

一 中央構造線
 西南日本を外帯と内帯に二分する中央構造線は、犬寄峠付近からほぼ上灘川に沿って走り、伊予灘に達している。おおむね、川の南側が外帯、北側が内帯である。
 この構造線は、新生代第三紀に二度にわたって運動を起こしているが、その二度の運動によって地下の地層には大きな変動が生じたと考えられる。
 一九六八(昭和四十三)年十月、愛媛大学の永井浩三教授は、上灘地区の中央構造線地域内の小網、岡地区における石灰岩の調査を行った。その結果、特に小網の東側の山あいにある石灰岩とチャート(石英質の堆積岩)の地層は、二億五〇〇〇万年前のものと推定され、従来中央構造線には見いだされなかった〝第三の地層″であると認められた。それまでの定説では、西部の中央構造線は、約七〇〇〇万年前の和泉層群からなるとされていたが、その上の地層に二億五〇〇〇万年も前の岩石が存在するという事実は、中央構造線のなりたちを解明するための重要なかぎとなるものである。
 三八ページにその時の調査位置図を示す。

 ① 古生層の千枚岩が見つかり、その上に和泉層群がのりあげている。
 ② 断層角礫岩が見つかる。
 ③ 和泉層群の上に断層角礫岩があり、その上に古生層の千枚岩がのっている。
 ④ 角礫岩が約九〇メートル分布している。
 ⑤ 石灰岩の上に和泉層群が断層でのりあげ、石灰岩の下に断層礫岩を隔てて和泉層群がある。
 ⑥ 岡集落石仏の石垣にある石灰岩塊より約五〇メートル直上の地点に石灰岩の露頭、更にその下方に千枚岩と断層礫岩がある。
 ⑦ 更に研究を要する地点。

二 主な岩石
 地質学上、本町はおおむね上灘川を境として南北に分かれる。南側(外帯)は三波川帯に属し、三波川変成岩(結晶片岩)が大部分を占め、安山岩地帯が一部混在している。北側(内帯)は、領家帯に属し、和泉層群と石鎚層群に属する鮮新世の安山岩が広く分布している。
(1) 結晶片岩
 上灘川南側の岩石は、大部分が結晶片岩で、牛ノ峯、壷神山などがこの地域に含まれる。
(2) 安 山 岩
 上灘川の北側の明神山、秋葉山、本尊山一帯に広く分布する。
上灘川の南側では、奥大栄、日喰、奥東、両谷の一部でみられる。
(3)和泉層群
 主に上灘川以北の日尾野、岡の一部に分布する。また、柆野、犬寄、高野川、小網でもみられ、八景山も和泉層群に属する山である。
(4) 礫   岩
 犬寄峠(旧国道五六号犬寄交差点)、上灘寄りの小地域にみられる。
(5) 礫   層
 高野川、唐崎、本郷の一部にみられる。
(6) 石 灰 岩
 高野川と岡の両集落にわずかに分布する。
(7) 洪 積 層
 横山と高野川の台地。
(8) 沖 積 層
 上灘川流域と、その他の小川の流域。

三 主要石材と鉱物
(1) 高野川の陶土
 石英安山岩の陶化したもので、鉱床は石英安山岩に移化している。鉱石は白色緻密でやや硬質である。石英絹雲母を主成分とし、少量のカオリン及び破璃物質を含んでいる(名古屋工業技術試験場発行の国内産物陶器原料の概況による)。砥部焼の釉薬用として江戸時代から昭和五十年代まで採掘されていた。
(2) 岡の源太石
 成分は主に黒雲母安山岩で、岩質が硬く、柱状節理がよく発達している。良質の石材として各種の記念碑や神社仏閣の石碑、庭の飾り石、土台石、石垣などに幅広く利用された。採掘の最盛期は明治時代であった。
(3) 本尊山の石
 岡の源太石に類似した岩石で、柱状節理がよく発達し、搬出も便利だったため、明治のはじめから大規模な採掘が行われ、主に割石として利用された。また、一九六五(昭和四〇)
年ごろ、特異な石状文様から珍重され、一時期採掘された。
(4) 日喰、奥大栄の石材
 どちらも黒雲母安山岩だが、搬出が不便であるため利用度は低く、現在は採掘されていない。
(5) 日尾野ソバ谷の石
 源太石と同質のもので、硬度が高く節理もよいため、明治の終わりごろまで採掘されたが、良材の減少と搬出不便などの理由で、現在は閉山となっている。
(6) 高野川の石灰岩
 これを焼いて石灰をつくるために、明治末期まで採掘された。原料の不足と搬出の不便さのため現在は閉山。しかし、その痕跡は、今日でも小網トンネル付近で見ることができる。
(7) 岡石仏の石灰岩
 一九七〇(昭和四十五)年五月、石灰岩の層が愛媛大学の永井教授によって発見されたが、明治初年に、当時「ころげ石」と呼ばれた石灰岩の岩塊を焼いて石灰をつくっていた記録がある。その作業の痕跡は、昭和の後期まで大下宅裏の畑に残っていた。
 なお、江口、大下、石井諸家付近の石垣には現在も十数個の石灰岩塊が残っている。
 (8) 奥大栄の銅山
 明治の初め、某氏によって始められた奥大栄の銅山の採掘は、その後しばらく休止ののち、明治末に再開された。当時採石運搬作業に従事した人に、宇都宮重治郎がいた。良質ではあったが埋蔵量が少なく、まもなく廃鉱となった。
 銅山の遺構は、同集落「鮎がえりの滝」付近に残っている。
(9) 日尾野小屋川の石灰岩
 明治末から大正初めにかけて、柆野の坂口直竹、猪口善蔵、二宮カンによって採掘が試みられた。その後大洲市中村の某氏が経営を引き継ぎ、坑道の深さは十数メートルに達し、地元の期待を集めたものの、石灰石層が浅いために採算がとれず、結局試掘の段階で終わった。同地区は、白亜紀の和泉層群の中にある。

四 地すべり地域
 本町は、地形的には平地が極めて少なく、海に向かった急傾斜地帯(流ればん)が多い。また、地質的にみると、緑泥石など粘土化しやすい鉱物を含んだ結晶片岩の地層が主である。
 これらの条件に加えて激しい気象の影響を受けるために、地盤がゆるみやすく、各所で大小の地すべり現象が起こっている。
 本町で発生した地すべりの主なものは、次のとおりである。
(1) 石ノ久保地区の地すべり
 従来は地盤沈下で形成された地形とみられていたが、愛媛大学の永井教授によって、「地すべり説」が唱えられるようになった。
 この地域の幅は同地区の海岸線約七〇メートルにわたり、奥行きは同地区のナカガワ水本(地名)付近に及んでいる。
地すべりの初期段階については正確な記録がないが、海岸から約二五〇メートル離れた山の中腹にかつてあった福本好太郎宅では、先代の時代に地すべりのため家屋の土台下を七回も補修しており、好太郎の代に変わってからも、二回補修した。また、一九四三(昭和十八)年の大風水害時には、クボンナルの南端が約三メートル降下したといわれている。
 同地区では、大正初期に地すべり対策として海岸に長さ四メートル弱の杭木を数十本打ち込んだ。当時、鉄道省は鉄道の敷設に当たって地すべりにそなえて鉄橋の建設を計画したが、実現には至らなかった。
 国と県は過去数度にわたって、地すべりが発生した際に線路や道路を山の手に移したが、更に今後にそなえて線路の山手側に広い用地を準備している。
(2) 松尾・富貴地区の地すべり
 一九四三(昭和十八)年の大風水害は、同地区に甚大な地すべり被害をもたらした。これは、田畑約七町歩(約七ヘクタール)、民家五戸、小学校の校舎などが、決潰、破損、流出する惨事であった。こののち地元住民は、国や県、町当局の協力のもと、堰堤建設や砂防工事に力を尽くし、総工事費約三七〇万円を費やして、昭和二十五年ごろようやく工事が完了した。
(3) 奥大栄・大栄地区の地すべり
 この地区もまた、昭和十八年の大風水害では田畑や山林が大きな被害を被った。その後、被害の復旧と堰堤砂防工事、山どめの山腹階段工事を行い、工事費約一〇〇万円で昭和二十八年ごろ一応完了した。しかし、昭和五〇年代に更に大規模な地すべりが発生し、県営事業に引き継がれた。
(4) その他の地区の地すべり
 池之窪、東越、奥西、松尾など、多くの地区で対策工事が施工された。


五 県営による地すべり対策事業

(1) 農地保全事業

 本村地区地すべり対策事業
指定面積 一九二・四二ヘクタール
・一期工事(昭和四十六年度~昭和五十六年度)
総事業費 三億八八四八万六〇〇〇円
うち主要工事
 排水路工事 一億二〇五〇万円(二七二三メートル)
 承水路工事 一億一〇七七万円(六七一五メートル)
 地下水排除工事 六一七四万円
 抑止工事    五四八一万円
・二期工事(昭和六十年度~平成六年度)
総事業費 一億八二八五万二〇〇〇円
うち主要工事
 地表水排除工事 三一一〇万円
 承水路工事   一六六九万円
 地下水排除工事 七〇二六万円
 抑止工事    四四六七万円

 奥地区地すべり対策事業
指定面積 二六四・六ヘクタール
・一期工事(昭和四十九年度~平成元年度)
総事業費 三億四六六六万六〇〇〇円
うち主要工事
 排水路工事   九九八二万円(二五〇三メートル)
 承水路工事 一億三三五〇万円(七〇五二メートル)
 地下水排除工事 三三七二万円
 抑止工事    三二一一万円
・二期工事(平成十一年度~現在まで)
総事業費 一億七六二〇万円(現在まで)
うち主要工事
 排水路工事  五二二五万円(五七〇メートル)
 承水路工事  一六九八万円(五一〇メートル)
 水抜工事   一七五五万円
 集水工事   二六二六万円
 アンカー工事 二四六五万円

 上大久保地区地すべり対策事業
指定面積 二一三ヘクタール
・工期 昭和五十五年度~平成十年度
総事業費 四億三五八一万二〇〇〇円
うち主要工事
 排水路工事 一億六五四八万円(三〇二七メートル)
 承水路工事 一億一五五三万円(三九三四メートル)
 地下水排除工事 八一七二万円

 柆野地区地すべり対策事業
指定面積 七七ヘクタール
工期 昭和五十九年度~平成十一年度
総事業費 二億九七四〇万円
うち主要工事
 排水路工事    七四一一万円(一一五七メートル)
 承水路工事     二三六万円(一三九メートル)
 地下水排除工事 一億五九八万円
 抑止工事     五四九〇万円

 満野地区地すべり対策事業
指定面積 五八・八三ヘクタール
工期 平成三年度~平成十三年度
総事業費 二億八九〇〇万円
うち主要工事
 排水路工事   八六四二万円(一一一四メートル)
 承水路工事   三九〇六万円(一二七三メートル)
 地下水排除工事 六〇四九万円
 抑止工事    二七九五万円

 池之窪地区地すべり対策事業
指定面積 七四・四六ヘクタール
工期 平成四年度~平成十三年度
総事業費 二億三六〇〇万円
うち主要工事
 排水路工事  五七五六万円(六五一メートル)
 承水路工事  一五六三万円(四六五メートル)
 地下水排除工事 一億六万円
 抑止工事   一四一二万円

(2)治山事業
 奥大栄地区
 上灘川の支流大江川の上流域に通称「石コケバ」と言われる地域がある。そこを流れる大江川や、川に平行して昭和三十年代に開設された町道奥大栄線の東上方の山腹がしばしば崩壊していた。町はその都度復旧工事を繰り返してきた。
 一九八二(昭和五十七)年の災害時には、復旧工事と合わせて大栄地区の上方・駄場地区から「石コケバ」の西対岸上方を通過する農道を起工した。繰り返し発生する崩壊が尋常でないことを察知した町は、奥大栄地区への迂回路を新設したのである(後に町道駄場奥大栄線に変更)。同時に、崩落地上方に地動測定器を設置してその実態を解明することになった。その結果、年間約五センチほど山腹全体が西方へ動いていることが判明した。
 一九八九(平成元)年三月の豪雨で、また被災した。三月九日には林野庁の技官らが現地を調査した。三月十四日付で町道奥大栄線は一応通行止めにして、奥大栄へは新設した農道を利用することになった。
 翌年にも梅雨前線による豪雨があり崩壊した。精査した結果、地すべり地の面積は四六・三ヘクタール、除去すべき土石量は二五万立方メートルであることが判明した。正に山が動き続けていた。必然的にその下方の町道や大江川へ押し出された山腹の表皮ともいえる土石が、豪雨の度に崩れ落ちていたのである。
 まず、地すべりを起こしている二五万立方メートルという莫大な土石を除去する工事、次に除去した後地の山腹治山工事、そして立地上迂回できない大江川の保全工事、この三点を総合した地すべり防止事業が県営で実施されている。二〇〇三(平成十五)年度で全事業の九五パーセントが実施済になった。
 一九年もの歳月と総事業費七六億四四〇〇万円を要するこの事業は、地すべり防止事業としては関西第一級と言われている。
 なお、除去した土石の一部はシーサイド公園の造成にも利用された。

 日尾野地区
 一九九八(平成十)年の梅雨前線の集中豪雨で、上灘川の支流、日尾野川の上流域の山腹が一・三二ヘクタール崩壊し、下流の飲料水施設などが被災した。
 県営工事で翌十一年度に復旧工事に着工、完了は平成十七年度を予定している。谷止工が主体で、総事業費は二億九四〇〇万円。平成十五年度で七八パーセントが実施済になった。

中央構造線と地質

中央構造線と地質


奥大栄 地すべり防止事業

奥大栄 地すべり防止事業


日尾野復旧治山事業

日尾野復旧治山事業