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双海町誌

第三節 弥生時代

 紀元前五世紀ごろ、朝鮮半島から水稲農耕(稲作)や機織りの技術、金属器・弥生土器などを携えた集団が北九州に渡来し弥生時代が始まった。稲作は生産性が高かったため、西日本の縄文人の生活は、狩猟や漁労・採集から、稲作を中心とした生活にかわっていった。初期は、川に近い低湿地に簡単な灌漑施設を作った小さな湿田が中心だった。収穫した稲穂は、弥生土器に入れて貯蔵穴や高床倉庫に蓄えた。弥生土器は貯蔵用の壺だけでなく煮炊き用の甕や盛り付け用の高杯など、用途に応じて使い分けた。
 弥生中期になると、鉄製の斧や鋤、鉄鎌など鉄器が普及し始めた。また、刃先をつけた鍬もあらわれ、土木技術の改良とあいまって開墾を進め、水田を広げていった。こうして稲作はしだいに発展し、人口も増え、集落の規模も大きくなっていった。人手や耕地に恵まれた集落が米や鉄製農工具などの富をたくわえて有力になり、複数の小集団をまとめた地域的な集団が形成されていった。集落の中で土木工事を指揮したり農耕の祭りを司っていた指導者がしだいに政治力を併せ持つようになり、首長が現れたと考えられている。
 一方、集団同士で灌漑用水の利用や土地・交易を巡る争いや、生産物や鉄器などを奪い合うはげしい抗争も起こった。こうした対立や抗争の結果、有力な首長は、ほかの集団を統合・支配して権力を一層強化し、政治的支配者にかわっていった。
 紀元前一世紀ごろのことを記した「漢書」地理志によると、「倭(日本列島)は百余国に分かれていた」とあり、三世紀の魏志倭人伝には「邪馬台国」の記述がある。