データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

双海町誌

第五節 古代

一 神道と郷土
 神道は日本固有の民族宗教である。原始的形態は形の整った山や高い樹木、巨大な岩、絶海の孤島、川の淵などに神がやどるとして自然崇拝を行い、霊魂の不滅を信じるシャーマニズム的性格の濃厚な民族信仰であった。これが氏族制度の発達、国家体制の整備につれて、祖先神・氏神・国祖神を崇拝するようになり、同時にこれらの神々を祀る神社も作られた。例えば三輪山を神体とする奈良県大神神社では古墳時代の祭祀遺跡が発見されており、この時代以来の祭祀が続いている。また、古くからの信仰に由来する神社としては、大王家の祖先神とされる天照大神を祀る伊勢神宮や大国主命を祀る出雲大社などが特によく知られている。
 古代における各地の神社とその祭神については、九二七(延長五)年に完成した「延喜式」のなかの神名帳に記載されている。この神名帳に記載されている神社を延喜式内社といい、全国に三一三二座(うち大社四九二座、小社二六四〇座)の式内社があった。
 また、伊予国には大社七座・小社一七座、合計二四座の式内社があった。このうち中予地域では風早郡に国津比古命神社・櫛玉比売命神社の二座、温泉郡に阿沼美神社・出雲崗神社・湯神社・伊佐爾波神社の四座、伊予郡に伊予神社・伊曽能神社・高忍日売神社・伊予豆比子命神社(正しくは久米郡)の四座がある。
 双海地域には式内社はなく、格式による記録では、どのような神々を信仰していたかは明確ではない。しかし、式内社は必ずしも国々に統一された一定の基準によって選ばれたものではなく、畿内を中心とする律令国家の中枢部に数多くの神々が登録され、辺境の地になると国内の数社が載せられているにすぎないのであって、式内社が当時の神社のすべてであるということはできない。したがって、双海地域でも当時多くの神々を祀り、崇拝していたことは容易に想像できる(第五編・第二章神道参照)。

二 仏教と郷土
 五三八年、仏教が百済から公式に伝来した。仏教の受容をめぐり、ヤマト政権内部では、物部氏・中臣氏が反対して、受容派の蘇我氏と対立したが、五八七年、蘇我氏が物部氏を倒したことで仏教受容が大きな流れとなった。
 五九三年、推古天皇の摂政となった聖徳太子は、七世紀初頭、蘇我馬子とともに中央集権国家の形成を目指す政治を行った。この時期蘇我氏によって飛鳥寺が創建せられ、聖徳太子によって法隆寺・四天王寺が建立されるなど、我が国最初の仏教文化が花開いた。
 七世紀の後半、天武天皇によって大官大寺・薬師寺がつくられ始めるなど、仏教興隆は国家的事業として推進され、地方豪族も競って寺院を建立したので、この時期に仏教は急速に展開した。
 奈良時代になると、仏教は国家の保護を受け、更に発展した。特に仏教をあつく信仰した聖武天皇は、鎮護国家の思想によって国家の安定を図ろうとして、七四一(天平十三)年に詔を発し、全国に国分寺・国分尼寺をつくらせることとし、七四三年には大仏の造立を命じた。
 今治市大字国分には、伊予国分寺の塔跡の礎石があり、ここには荘厳な七重の塔がそびえて、付近に七堂伽藍が整備されていたと推測される。
 八〇四(延暦二三)年、同時に唐へ渡り、天台の教えを受けた最澄(伝教大師)と密教を極めた空海(弘法大師)は、帰国してそれぞれ天台宗と真言宗をひらいた。この両宗は、加持祈祷によって災いを避け、幸福を追求するもので、皇室や貴族の支持を得た。
 平安時代中期以降、阿弥陀仏を信仰し来世において極楽往生することを願う浄土教が流行し、貴族たちは極楽浄土をこの世にあらわした壮麗な寺院をつくった。盗賊が横行し厄災が頻発するようになって、世情が混乱するにつれ、浄土教は貴族ばかりでなく庶民の間にも広まり、鎌倉新仏教への萌芽がみられた。
 松山平野においては、古代寺院として来住廃寺など八つの寺院があったことが知られている。これらはいずれも七世紀後半の白鳳時代に地方豪族によって建立され、律令体制の変質・衰退期に当たる平安時代の中ごろには、ほぼ一斉に廃絶している。双海地域においては、古代寺院跡は発見されておらず、町内の各寺院の沿革をみても、寺院の発祥は中世以前にさかのぼることはできない(第五編・第三章仏教参照)。

三 律令制度の整備と郷土
(1) 国郡制の整備
 七世紀初頭、聖徳太子は推古天皇の摂政として冠位十二階や憲法十七条を定めるなど、国家組織の形成に努めた。太子の死後、蘇我氏の専横が続き、蘇我入鹿は聖徳太子の子の山背大兄王を滅ぼして権力を集中した。一方、唐が高句麗に侵攻し対外的な緊張が高まり、我が国は内外両面で中央集権の確立と国内統一の必要に迫られていた。
 六四五(大化元)年、中大兄皇子、中臣鎌足らは蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼし、新政権を成立させ、翌年大化改新の詔を出して政策の革新を目指した。改革の主な内容は、豪族の私有地を廃して公地公民制へ移行すること、全国的な人民・田地の調査をすること、統一した税制を確立すること、国・評(のちの郡)の地方行政組織を整備することなどである。これらの改革は半世紀後の七〇一(大宝元)年、大宝律令の制定によって完成する。この律令制は形式的には明治時代まで一〇〇〇年以上にわたって継続された。
 律令制度下での地方行政組織としては、全国に畿内・七道と国・郡・里(のち郷)が置かれて、国司・郡司・里長が任じられた。国司には中央の貴族が任命され、役所である国府を拠点に国内を統治した。
 郡司には、もと国造などの地方豪族が任じられ、郡の役所である郡家を拠点として郡内を支配した。また里(郷)は五〇戸を一里とし、一〇戸に満たないものは余戸と称した。郡については五等級に分け、二〇~一六里を大郡、一五~一二里を上郡、一一~八里を中郡、七~四里を下郡、三~二里を小郡とした。伊予国には一四郡が置かれ、越智郡が中郡、宇摩・新居・周敷・野間・風早・和気・温泉・浮穴・伊予・喜多・宇和の一一郡が下郡、桑村・久米の二郡が小郡であった。
 里(郷)の数は、九世紀の『倭名抄』によると伊予国に七二郷、『日本地理志料』では『倭名抄』より一三郷多い八五郷となっている。これらのうち中予地方の郷名を次に挙げる(括弧内は『日本地理志料』のみに記された郷名)。
 風早郡…粟井・河野・高田・難波・那賀・(忽那)
 和気郡…高尾・吉原・姫原・大内
 温泉郡…桑原・埴生・立花・井上・味酒・(余戸)
 久米郡…天山・吉井・石井・神戸・余戸・(久米)
 浮穴郡…井門・拝志・荏原・出部・(砥部)・(浮穴)・(大田)
 伊与郡…神前・吾川・石田・崗田・神戸・余戸・(郡家)
 律令制下で双海地域がこのうちどの郡に属していたかについて「伊予国神社集」には「三島神社(本郷)は伊予郡神戸郷灘浦にある」と記しているが、神戸郷は双海地域とは遠く離れており、にわかには信じ難い。また、中世以降「由並(湯並)」が浮穴郡に属していたという史料があるが、「由並」を双海地域ばかりでなく中山地域をも含むと解釈すべき史料もある。双海地域が当時何郡に属していたかについては、今後の解明を待つほかはない。

(2) 班田収授法と農民の負担
 政府は全国の人民を戸籍・計帳に登録して律令体制による支配を末端まで浸透させようとした。戸籍は口分田を班給するための基本台帳で、一人ひとりの性別、年齢、身分など詳細に記載してあり、それに基づいて六歳以上の男女に一定面積の口分田が与えられ、死後の班年に収公された(班田収授の法)。班田収授を円滑に行うための整然とした土地区画を条里制という。条里制の遺構は、松山市・松前町・伊予市をはじめ県内の平野部に広く見られるが、双海地域にその跡は認められない。
 計帳は調・庸を徴収するとともに、全国の課税額の推移をも把握するための基本台帳で、毎年作成されるものであった。
 民衆には租・調・庸・雑徭などの負担が課せられた。
 租は、口分田などの収穫から三パーセント程度の稲を納めるもので、おもに諸国の重要な財源とされた。調・庸は、絹・布・糸や各地の特産品を中央政府に納入するもので、おもに正丁(二一~六〇歳の男子)に課せられ、都まで運ぶ義務があった。『延喜式』には伊予国から貢納された調・庸の中に塩・アワビ・ワカメ・めかぶ・ホンダワラ・サバなどがみられる。これらの海産物のうちには双海地域から貢納されたものがあったことは十分推測される。雑徭は国司の命令によって年間六〇日を限度に課せられる労役で、これもおもに正丁の負担である。
 兵役は、正丁の三~四人に一人の割で兵士として徴発されるもので、兵士は諸国の軍団で訓練を受けた。その一部は衛士となって一年間都城の警備に当たったり、防人として三年間九州沿岸の防備に当たったりした。衛士・防人は調・庸・雑徭を免除されたが、武器や食料の自弁が原則であったため、民衆にとって特に大きな負担であった。

(3) 駅制の整備
 律令制下では中央と地方の連絡を密にし、中央集権体制を維持するため、都と諸国の国府を結ぶ官道を整備し、三〇里(約一六キロメートル)ごとに駅家を置き、駅長が統轄した。駅家には一定数の駅馬が置かれ、駅鈴をもつ役人が公用のみに利用できた。
 なお、このほか地方には、郡家などを結ぶ道(伝路)が網目を構成していた。
 官道は重要度により大路・中路・小路に区別されそれぞれ駅馬の数が異なっていた。南海道は小路で各駅家には五匹の馬が置かれた。南海道の官道は淡路・讃岐を経て伊予国府(今治市)に至る。この間、大岡(旧川之江市)・近井(旧土居町)・新居(新居浜市)・周敷(旧東予市)・越智(今治市)の五駅があった。土佐国府へのルートは先の大岡駅から南下し、山背駅(旧新宮村)を経由する官道があった。なお、大宝律令制定当初は、伊予国府から松山平野に入り、大洲・宇和島・宿毛・中村を経由して土佐国府に至る経路であった。
 伊予郡・市における当時の記録はないが、現在の伊予市付近にあった郡家から犬寄を経て中山方面へ、また三秋を経て上・下灘方面への道が拓けていたと考えられる。

四 武士と郷土
(1) 律令制度の変質
 大宝律令の制定から半世紀も経たない七四三(天平十五)年、政府は墾田永年私財法を出して開墾した田地の私有を認め、自ら公地公民制を崩していった。これによって有力な貴族・寺院や地方豪族は田地を開墾し、荘園が発生するきっかけをつくった。十世紀の初めには、律令体制の崩壊が更にはっきりしてきた。すなわち政府は、九〇二(延喜二)年、違法な土地所有を禁じたり、班田収授の励行をはかったりする法令を出して律令制の再建を目指したが、既に戸籍・計帳の制度は崩れ、班田収授も実施できない状態となっており、租や調・庸を取り立てて国家財政を維持することはできなくなっていた。
 そこで政府は、税の徴収方法を大きく転換し、国司に税の納入を請け負わせ、有力農民に田地の耕作を任せ一定額の税を負担させることにした。これ以降、一国内の国司の果たす役割が大きくなった。
 任国に赴任した国司は、受領と呼ばれるようになり、強欲な者が多かったので、郡司や有力農民から訴えられることもしばしばあった。
 十一世紀後半になると、受領は任国に常駐しなくなり、代わりに目代を任国の政庁に派遣し、その国の有力者が世襲的に任じられる在庁官人に国の実務を担当させた。在庁官人は伊予の河野氏のように平安時代末期に武士化し、鎌倉時代には幕府の御家人となる者が多かった。

(2) 平将門の乱
 地方政治が大きく変化していくなかで、地方豪族や有力農民は勢力を維持・拡大するために武装するようになり、各地で紛争が発生した。盗賊や内乱を鎮圧するために政府から押領使・追捕使に任じられた中・下級貴族のなかには、そのまま在庁官人となって現地に残り、有力な武士となるものが現れた。彼らは、一族や従者を率いて互いに闘争を繰り返し、ときには国司に反抗した。
 やがてこれらの武士たちは、連合体をつくるようになり、特に辺境の地方では、任期終了後もそのまま任地に残った国司の子孫などを中心に大きな武士団に成長し始めた。その一人である平将門は、東国に早くから根をおろした桓武平氏の一族であった。将門は、下総を根拠地として、一族と争いを繰り返すうちに国司とも対立するようになり、九三九(天慶二)年に反乱を起こして、常陸・下野・上野の国府を攻め落とし、新皇と称するようになった。この反乱は同じ関東の武士団の平貞盛・藤原秀郷らによってようやく鎮圧された。

(3) 藤原純友の乱
 九世紀になると、瀬戸内海では海賊の活動が激しくなっていた。八三八(承和五)年、仁明天皇の詔には、「山陽南海海賊横行云々」とあり、また『扶桑略記』には八六七(貞観九)年に伊予国の宮崎付近(現在の越智郡波方町か)の要地で海賊が結集して椋奪をしていると記されている。また同書には、九三四(承平四)年、海賊が喜多郡家を襲い穀物を掠奪したこと、かれらは官物を強奪し人命を損傷するので、ついに内海の交通は杜絶したことを述べている。更にこの前後、朝廷では警固使を派遣し海賊を逮捕するよう各国に命じたり、諸社に海賊平定を祈願したりしている。
 このような情勢のなか、藤原純友が伊予掾となって下向した。彼は、国内の政務に従事するかたわら、海賊鎮撫にも携わった。官を免ぜられたのちも都に帰らずそのまま伊予国に留まった。それは、彼が摂関家から遠く離れた不遇な系類で、中央政界においては野心をのばすことができなかったためである。純友は、豊後の海賊佐伯氏を味方として、九三六(承平六)年、近海の海賊を糾合し、日振島(宇和島市)に拠って豊後水道を往来する船を襲い、官物・私財を横領した。
 この時、朝廷では直ちに紀淑人を伊予守に任じて海賊追捕の任に当たらせた。部下の一部は帰順したが、純友は結局これに従わず、三年後の九三九(天慶二)年、宇和海から瀬戸内海に入ろうとしたので、朝廷では純友征討の軍を派遣するように命じた。
 翌九四〇(天慶三)年、朝廷は小野好古を山陽道使に任じ、海賊の鎮圧に当たらせた。純友は讃岐国に侵入し、国府を襲って焼き払った。また、備後・紀伊国まで掠奪の手を伸ばし、更に安芸・周防両国をも襲撃した。
 朝廷は小野好古を追捕使長官に、源経基を追捕海賊使次官に任じ、船二〇〇隻を伊予国に航行させた。純友の威勢はようやく衰え始め、討伐軍に敗れて九州に渡った。翌九四一年、純友は大宰府を陥れ、警備の兵を撃破するとともに府庁を焼き、財物を奪うなど狼籍の限りを尽くした。
 好古・経基らは、純友が博多にいるのを探知し、海陸両面から急襲し陣中に火を放って焼き払ったため、ついに純友は大敗した。彼は、密かに伊予に逃げ帰ったが、『純友追討記』によると、伊予国の警固使、橘遠保に捕縛せられ、ついに獄中で死亡したという。
 藤原純友の反乱の舞台は広く、瀬戸内海全域から九州にまで及んでいる。西瀬戸に長い海岸を有する双海地域が、この反乱と何らかのかかわりがあったであろうことは想像されるが、その史料も根跡もない。

(4) 清和源氏と桓武平氏
 純友の乱の鎮圧に功のあった源経基の孫の頼信は摂関家に近づき、その保護のもとに中央で地位を高めるとともに、一〇二八(長元元)年、房総半島一帯で起こった平忠常の乱を鎮めて源氏の東国進出のきっかけをつくった。頼信の子頼義と、その子の義家は十一世紀後半に陸奥・出羽で起こった前九年の役及び後三年の役において、東国の武士を率いてこれを平定した。これらの戦いを通じて、源氏は東国武士団との主従関係を強め、武家の棟梁としての地位を固めていった。
 一方、伊賀・伊勢を地盤とする桓武平氏の一族は、院と結んでめざましい発展ぶりを示した。平正盛は出雲で反乱を起こした源義親(義家の子)を討って武名をあげ、その子の忠盛は、瀬戸内海の海賊平定などで鳥羽上皇の信任を得て、武士としても院近臣としても重く用いられるようになった。忠盛の子の清盛は、十一世紀半ばの保元・平治の二つの乱を通じて武家の棟梁としての地位を確保するとともに、武家として最初の政権を掌握した。