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双海町誌

第一節 鎌倉・南北朝時代

一 源氏と河野氏
 平氏が打倒されて間もなく、源頼朝・義経兄弟の仲は不和となった。一一八五(文治元)年、頼朝は義経の捜索と平氏残党の取締りを名目に、守護・地頭を設置した。守護は一国に一人を置き、軍事・警察事務を行って国内の治安維持の任に当たった。地頭は、荘園・公領ごとに置かれ、その地区内の重罪人の逮捕のほか、年貢の徴収、荘園の管理などを任務とした。守護・地頭の設置によって頼朝の支配権は東国だけでなく全国に及ぶこととなった。
 一一九二(建久三)年、頼朝は征夷大将軍に任ぜられ、鎌倉に幕府を開いた。諸国の武士たちの多くは頼朝と主従関係を結んで御家人と呼ばれ、守護や地頭に任命されたが、その多くは東国の武士であった。
 そうしたなかにあって地元出身の河野氏は、平氏討滅後も奥州遠征に加わって義経追討に功があり、伊予国で大きな力をもつようになった。一二〇五(元久三)年、幕府は伊予の御家人三二人に対して守護の支配でなく河野通信の命令によって御家人としての勤務を行うよう命じている。この御家人たちの本拠地は、次図に示すように、今治地方から中予一円の広い範囲に分布しており、守護に任じられてはいないものの、通信が守護に準ずる立場にあったことを示している。

二 承久の乱と郷土
 鎌倉幕府は、三代実朝が暗殺された後、執権北条氏の力が高まった。北条氏の専横に対し、後鳥羽・順徳の二上皇によって、一二二一(承久三)年五月、討幕の挙が起こった。
 この承久の乱に、河野通信の子通政・通末・孫の通秀などが上皇に味方して北条勢に敵対した。このため北条時房は数千騎を率いて伊予に来襲した。河野通信は一族とともに高縄に立て籠もり応戦したが敗れ、通信は奥州に流され、領地は没収された。
 通信の庶子通俊は天皇に味方したが、庶子ということで許され、周桑郡得能を領して、南北朝時代に勤皇方で活躍する得能の祖となった。通信の子通久は、母が北条時政の娘であったため、独り北条勢に味方し、温泉郡石井郷の領主となった。
 以後、得能郷の通俊と石井郷の通久の、両河野氏が存続し、高縄山城の河野氏は滅亡した。

三 元弘の乱・建武の中興と郷土
 一二七四(文永十一)年、大陸の元の世祖忽必烈は、我が国に開国を求めてきた。が、北条時宗はこれに応ぜず、元軍は朝鮮を経て九州地方に侵攻してきた。十月には暴風雨などによって、二〇〇余隻の敵船は沈没し、敗退した。これが文永の役である。
 次いで弘安の役は、一二八一(公安四)年。元は再度、軍船五〇〇余、兵一〇万をもって我が国に来攻してきた。このときも閏七月、暴風雨のため敵船は、すべて漂流、あるいは沈没するなど、全滅した。
 石井郷(現在松山市石井)の河野通久の三代城主通有など、河野一族は、この戦役に敵船を攻め、敵将を虜にするなど大功をたてた。この弘安の役の戦功によって、河野通有は、さきの承久の乱で通信が没収されていた領地を回復することができ、当地方は、通有の支配下に置かれ、その後、通有の七男通盛が、後を受け継いでいた。
 このころ、後醍醐天皇は幕府執権北条氏の専横に対して、大権を回復しようと、一三二四(正中元)年、第一次正中の挙を起こしたが、北条氏討伐の謀議が六波羅府に探知され、失敗した。続いて一三三二(元弘二)年には、諸国の豪族が宮方に味方して、元弘の乱を起こした。後醍醐天皇は隠岐に流されたが、脱出し、一三三三(元弘三)年には幕府を倒し、北条氏は滅亡。翌年一三三四(建武元)年建武の中興となった。しかし三年目には、恩賞が公平を欠くことに不満を持っていた足利尊氏などが、朝廷に叛逆し、楠木一族・新田一族の忠節奮闘空しく、足利氏による武家政治が北朝を奉じて再現され、室町幕府となった。しかし、宮方の朝臣は各地において勤皇の軍を起こし、武家方と相争い、南北朝時代が続いたのである。
 一三三一(元弘元)年に通有の後を継いだ通盛は、建武の中興までの間、砥部荘の大森一族と共に北条方に味方している。一方、由並本尊城(上灘)に居城した通種(通有の四男・通盛の兄)は、土居・得能とともに宮方に属した。
 一三三三(元弘三)年星ヶ丘に北条時直が来攻、合戦の末、敗退させた。続いて烏帽子山城(現在の北条市難波)では、北条方赤橋重時を討ち、土居・得能の戦功には輝かしいものがあった。やがて北条勢の敗北で建武の中興となったのである。
 この元弘の乱に、由並本尊城主、河野通種の子、通時(得能六郎左衛門)は宮方となり、星ヶ丘・烏帽子山城などの合戦に参加しており、その功により、湯並郷(現在の双海町とその周辺)・玉生荘(現在の松前町辺り)や中山地方も領するようになった。

四 南北朝時代と郷土
 建武の中興も三年で、足利尊氏の挙兵で挫折した。土居・得能の両氏は、勤皇のため、新田氏とともに摂津などの各地で足利の大軍と戦った。後に、新田義貞が皇太子尊良親王を奉じて越前に赴くとき、この両氏も従ったが、土居通増は越前の荒乳の山中において大吹雪の中に戦死し、得能通綱は福井県の金ヶ崎城において尊良親王が自害されたのでこれに殉じた。
 さきの元弘の乱で、北条方となった河野通有の七男通盛は、六波羅、その他当時の足利勢と合戦し、大いに尽くしたが、甲斐なく北条勢は敗れて建武の中興となった。敗北した通盛は、鎌倉の建長寺に逃れ、剃髪して僧となったが、足利尊氏が挙兵したとき、通盛は尊氏に会い、その部下となった。
 たまたま尊氏としても、与党を得ようとしていた時であったので大いに喜び、通盛を伊予の総領職に補して河野氏の旧領地を与えたのであった。通盛は武家の勢力を拡張するために直ちに伊予に帰り、土居・得能に味方する宮方勢の平定を始めた。
 当時、土居通増・得能通綱が、宮方勢援助に出向いた後、足利勢に味方した河野通盛は、伊予の宮方勢を攻撃し始めると、祝彦三郎安親に、双海地域を攻略させた。建武の中興成って、わずかに三年目の一三三六(延元元)年二月のことであった。
 合田貞遠は人数多勢を率いて松前城に立て籠もったが、二月十七日より戦い、十九日には攻め落とされた。敵は合田が本尊城に入城したと考え、御茶戸より火をつけられて城が焼かれ、三月八日には杣田孫太郎光宗の館も焼き払われた。九日には河内彦太郎崇性が攻め破られた。諸人は、そのすさまじさに恐れおののき、貞遠も、その職を弟安行に譲り、無為の人となり、ついに中山の合之森城に逃れて、立て籠もった。のちに、この城に貞遠の子孫が居住したと伝えられている。

五 細川勢の伊予来襲と郷土
 伊予の宮方勢の平定があってから、河野通盛は、道後湯築城に居城したが、晩年、老を養うために高縄山麓の河野郷に、京都の東福寺を模した善応寺を営み、ここで余生を送った。
 通盛も子孫も、足利氏に味方したが、のちに足利方の讃岐の細川頼元に応援しなかったので、一三六四(正平十九)年世田城で、頼元によって討ち死にした。その子通尭は、各地に逃れたが、九州の征西将軍懐良親王に請い、宮方となって、名も通直と改めた。
 上灘の由並本尊城は、宮方に味方して、九州に出向いたが、通種の子孫、通遠は、やがて細川勢に降り、武家方になったのである。
 一方、森山城(現在の伊予市大平)の河野の旧臣森山伊賀守は、細川勢の攻撃に対して、山形・吉田・宇和島とともに高縄城に立て籠もって、細川勢の攻撃に備えたが、やがて落城、討ち死にした。
 後醍醐天皇が、吉野に移られてから約六〇年の間、足利氏は京都に北朝を立てたので、南北朝は対立し、世は宮方(吉野朝)と武家方(北朝)に分かれて、全国的に紛争が続いた。宮方の勢はその奮闘にもかかわらず、かえって時勢は尊氏側に幸いし、幕府の権勢はしだいに強大となっていった。宮方は、足利勢に対抗するため、東西に武将を出した。西方には、皇子の懐良親王を征西将軍として、瀬戸内海の忽那島(現在の中島)を根拠地として三年間滞在し、ここを中心にして攻防戦が行われたが、やがて菊池一族に迎えられて九州に渡った。
 その後、新田義貞の弟の脇屋義助が伊予に来た。当時、伊予国は南朝の根拠地のような有様であった。義助は桜井の国分寺に入り、その後、周桑郡の世田城によって、大館氏明を前衛として、讃岐の武家細川勢に対して攻撃しようとしたが、着後、間もなく病没した。
 義助か卒去すると、阿波国の細川頼春は、伊予を攻略した。世田城に拠った大館氏明の城兵は、優勢な細川勢を、よく防いだが、糧食の欠乏に苦しみ一三四二(興国三)年九月、氏明は戦死をとげた。
 新田義助の子義治は、当時、山崎荘(現在の伊予市大平)に来て没したといわれている。伝説に、義治の弓矢、甲冑などを附近の各地に埋めたともいわれ、甲谷・冑谷・小手谷・弓矢ヶ崎などの地名が残っている。滝山城主(カシ谷 満野の南西)久保式部入道道春は、一四一六(応永二十三)年に、下灘の池之窪西光庵(池之窪公民館)の上方に、新田神社を建祀している。


河野氏

河野氏


伊予国御家人の分布図

伊予国御家人の分布図