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双海町誌

第二節 室町・戦国時代

一 毛利氏の伊予来襲と郷土
 足利尊氏が北朝を奉じ、室町幕府を置いてから一三〇年後、一四六七(応仁元)年から一四七七(文明九)年までの一一年間、天下の諸将が東軍細川勝元と西軍山名宗全の二派に分かれた戦いが、京都を中心に起こった。応仁の乱である。
 このころ、大洲地蔵嶽城に居城していた宇都宮家綱の勢力が強まっていた。家綱は道後の湯築城の河野数通らとともに、西軍に属して京都の戦いに参加した。
 これより後、一五七二(元亀三)年七月中国の毛利氏との問に不和が生じ、毛利氏は一族を率いて三津・松前に押し寄せた。そのときの戦況を、大洲旧記では、要約すると次のように伝えている。
 以後、河野通直と毛利輝元は、少しのことを咎めあって、たびたび確執に及んだが、通直は輝元の甥でもあり、和睦した。土佐の長宗我部元親が勢力を増して、河野家を破ろうとしたが、輝元が後ろに控えているので、時節を待っていた。河野氏もこれを心得て、用心して毛利を後ろ盾に頼るのであった。

二 長宗我部の伊予来襲
 毛利氏の来襲があってから七年後、一五七八(天正六)年、土佐の長宗我部氏の伊予来襲が始まった。長宗我部氏は、もと土佐の土豪であったが、元親の代となってから土佐の全土を統治すると、続いて四国を統一しようと野心をいだき、阿・讃両国の諸豪族をしだいに平定していった。伊予の国の経略にも従事し、既に天正六年川之江、新居浜等、東予の諸城を手なずけていた。
 一方、久武内蔵助を総督として、翌七年に宇和・喜多の二郡に侵入し、まず、北宇和郡河後森城を降し、大洲地蔵嶽城、城代大野直之は、元親に内応するに至った。
 伊予における長宗我部氏の勢力が、拡大するのを見て驚いた道後湯築城主河野通直(酒色におぼれて軍政をかへりみず、予州の武将次第に叛す)は、急を毛利に告げて、その来援を求めた。毛利氏の一族小早川隆景は、援兵を率いて喜多郡長浜に上陸し、河野の軍と協力して、長宗我部氏に内応していた上須戒・下須戒の諸城を攻略し、進んで地蔵嶽城を攻撃した。直之は城を守ることができずに敗走し、やがて尽き果てて通直に降伏し、兄大野道昌の預かりの身となった。
 ここに、元親も一時兵を引き上げるのやむなきに至った。しかし、毛利氏は織田信長の来侵に遭い、河野氏を助ける余裕がなくなり引き上げたので、元親はこの機をとらえて精兵を宇和・喜多の二郡に送り、再び、伊予路の攻撃を開始した。
 双海地域は、当時の戦国の世には、道後湯築城主河野氏の支配下にあった。が、土佐勢長宗我部氏の侵略に備えるため、一五四三(天文十二)年、山城を守る郷土諸将の総司令として、大野安芸守直家が喜多郡宇津城から明神村の大除城に移った。
 こうして大野氏は、小田、久万を支配し、三代山城守直昌に至った。大野氏の勢力は重信川以南の浮穴郡及び現在の喜多郡、大洲市にも及んだようである。
 旧浮穴地内に五〇余の山城があるが、いずれも久万町の大除城を主城として、大野氏を大将と仰ぐ土豪たちが、土佐勢の侵入路をおさえて、四周を見張れる用地を選んで築いたものが多い。双海町の各城も、土佐に備えていたのである。
 平素は農民として、未開拓の地を奥地までも開拓し、戦時には食糧、武器をもって兵士となったのである。これら農民兵士たちは、よく敵の来攻に備えながら、開拓に従い、郷土を今日たらしめた恩人といえよう。
 しかし、こうした備えもむなしく、一五八〇(天正八)年、瀧山城ほか双海地域の諸城は、激戦を繰り返したが及ばず、遂に土佐の長宗我部の軍門に降った。湯築城の河野家も同様であった。

三 秀吉の四国侵攻
 五年後、豊臣秀吉の四国侵攻が始まり、再び郷土は戦場となった。秀吉の命を受けた中国の小早川隆景(副将吉川元長)は、大軍を率いて黒山城や由並本尊城を攻撃した。
 伊予の名門である河野通直は、湯築城を明け渡し、大除城の大野直昌等とともに、降伏した。
 ここに、伊予の国一円は、小早川隆景の支配下に下り、一五八七(天正十五)年、大野直昌は、小早川隆景の計らいで、主家河野家とともに安芸竹原に転居した。配下の土豪たちは、次の時代に、庄屋として、徳川幕府の藩政下に、名を連ねたのである。

四 郷土諸城の動静
 今日、本町に城跡として残るものの多くは、平安末期から室町時代につくられた山城が多い。その後、土佐勢の侵略に備えて、山頂の天険を利用し、改造された山城である。これは、山頂を削り石垣を築き、館を設けたもので、合戦のときには、更に、木材で周囲に柵を立てめぐらせたものである。また、城の周囲には、土堤をめぐらせて、空堀を作った。人馬を阻むために、道は狭くして敵の攻撃の速度を弱めた。重火器のない時代であったから、山城の寡兵は、よく大敵を防いだという。
 居館は、ふもと付近にあって耕作をし、戦争になると、住居を引き払って一族郎党ともに食糧・武器を携えて城地に立て籠もることになっていた。
 郷土や一般の村も、室町時代以降になったころには、農民の力がのびてきて、寄り合いなどが催され、用水、入会地の管理、犯罪の防止などについて取り決めをしたり、百姓請といって、村が領主への年貢を、責任を持って請負い納めることなど、自治の生活ができるまでに成長していた。
 いわゆる荘園から、郷、村制と呼ばれるようになり、村という各々の連合体にまで拡大成長していった。戦国のころには、前記の山城を砦として、この城主を中心にして、自治に、対外行為に、あるいは開拓に当たったものと想像される。
 四国を統一した長宗我部氏は、住民には善政を施した。まず地方の秩序を回復させ、元親百ヵ条を定め、祭祀・武芸・学問・倹約を奨励した。六年後に伊予を統治した小早川隆景も、それを見習い、善政を旨とした。
 郷土は、長い戦乱の世に別れを告げたのである。
 このころより、武士と農民の階級がしだいに分かれ始めた。やがて、豊臣時代を経て、徳川幕府下での藩政へと移行する。



大洲旧記

大洲旧記


伊予古図写

伊予古図写