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双海町誌

第一節 概要

 長宗我部氏が四国全土を制覇したのもつかの間、既に中央の覇権を手中にした秀吉が、弟の秀長を総大将として四国侵攻を開始。毛利氏・宇喜多氏などをはじめとする一一万の大軍が四国に送り込まれ、その猛攻によって次々と各地の城が落ちていった。
そして本陣の白地城が攻撃の危険にさらされるに至って、ついに長宗我部氏は秀吉に降伏したのだった。この降伏を受けて、秀吉は長宗我部氏に土佐一国を安堵した。また、伊予三五万石に小早川隆景を封じ、その内、安国寺家に二万三〇〇〇石(後に六万石)、来島家に一万四〇〇〇石を分封した。
 小早川隆景は、伊予全州の統治に当たって、河野氏の居城であった湯築城(松山道後)をその鎮城とした。また、伊予の諸豪族に対して、城を持つ者は退去すべしと公布したため、河野一門三十三将を中心にした伊予の諸城主は、野に下り、あるいは庄屋等になる者もいた。こうして、双海地域の諸城も廃城となったのである。
 一方、天下統一を成し遂げた秀吉は、全国の田畑の検地を実施した。世に言う太閤検地である。これによって石高制が確立、封建領主の土地所有と小農民の土地保有が全国的に確定された。更に、刀狩令によって、農民から武器を没収することにより、暴動などの防止、ひいては武士身分との区別を図った。これらの政策が、江戸時代の士農工商という身分的階級社会につながっていくこととなる。
 秀吉の没後、関ヶ原の合戦で豊臣政権を倒し、江戸(東京)に幕府を開いた徳川家康は、武家諸法度や参勤交代、人民に対する衣食住全般に及ぶ厳しい生活制限など、いっそう厳重な幕藩体制、身分制を固めた。
 後年大洲藩では、藩財政不足を補うため、木蝋の生産を奨励していた。その古木の跡は、昭和後期まで双海地域の田畑で見られるほどだったが、当時富を得ていたのは、藩と一部の商人だけであったろう。
 厳しい身分制度によって、長きに渡り絶対的な権力を保ち続けた江戸幕府だが、貨幣経済の浸透に伴って、財力を持った豪商が台頭していく。一方、特権階級である大名や武士は格式を保つために経済破綻をきたし、格式や身分までもが売買されだした。そして身分差に苦しむ下級武士を中心にした幕府への反発は、長年冷遇された西国の外様大名をついに王政復古へと踏み出させることとなったのである。