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双海町誌

第六節 検地と石高

 戦国時代から、諸大名は自国の上地や住民を支配する領主権を確立すると同時に、その当時には既に崩壊していた荘園制度の複雑な土地支配関係を解決するために、農民の田畑ごとに測量を行い、年貢や名請百姓を定める検地を行うようになった。
 歴史上有名なのは、豊臣秀吉が、一五八二(天正十)年から一五九八(慶長三)年にわたって全国で実施した、太閤検地である。この時、伊予の国は浅野長政が検地奉行として村々の検地を行ったという。
 この太閤検地によって、耕地面積をはじめ、その田畑の等級、収穫高、作人の名などが土地台帳である検地帳に明記された。そして、それまで土地は、何貫の土地、というように年貢金高で示されていたが、これ以後は米の収穫高をもって、何石の土地と示すこととなった。続く徳川幕府においても、太閤検地の諸条項を一部修正して検地が行われ、元禄年間に及んで更に完備された。
 しかし本町などにおいては、一六八八~一七〇三年(元禄時代)当時は村高帳などはできていたものの、漠然としたもので、米、ダイズの別もなかった。その後、一七五〇~一七五二年(寛延、宝暦)の三年間の検地によって初めて、田地は米、畑地はダイズの、それぞれの収穫高が確定された。続いて、田畑の開墾事業が進められ、開墾後四年間は年貢無納という、耕民作り得を奨励した。また、藩の許可で一反歩を整理すれば二六文が下賜された。そのうえ四年間無税だったので、農民たちは我先にと開田するようになった。本町の大堀田もそのころ開田したものと言われている。
 一七〇〇(元禄十三)年当時の村高帳の写しは次のとおりである。

  串村 石高四五六石七斗八升一合
  大久保村 石高二〇六石九斗二升八合
  上灘村 石高六六七石五斗六升二合
  高岸村 石高五一三石六斗五升五合
  高野川村 石高六五石三斗一升三合
  新田一五石

○一七五二(宝暦二)年四月検地帳より
  上灘村
  一、田 五三町五反二畝一二歩
   石高五九八石三斗二升二合
  一、畑 六七町二反九畝○三歩
   大豆石高四二一石○升四合
  高岸村
  一、田 二三町二反三畝二〇歩
   石高二八三石一斗二升
  一、畑 三〇町九反二畝一六歩
   大豆石高一五四石三斗一升八合
  高野川村
  一、田 九町八反○畝二八歩
   石高九八石二斗○升六合
  一、畑 八町四反○畝二四歩
   大豆石高四三石一斗四升六合
  上灘除地
  一、田 一町七反○畝二七歩
   石高二二石二升四合
  一、畑 五反五畝二二歩
   大豆石高四石六斗○升二合
  ※除地とは代官屋敷、浜番所、手代家、下庄屋屋敷菜畑、三島社、稲荷社、天一神社、本覚寺、正光寺、地蔵寺、その他小社、堂、四一か所分引高である。

○一七五二(宝暦二)年
上灘村内訳
町組
 田 一四町五反八畝○五歩
 石高 一八四石七斗○升八合
 畑 七町六反六畝一一歩
 大豆石高 五八石○斗三升五合
西谷組
 田 六町七反九畝○六歩
 石高 七五石九斗六升二合
 畑 九町六反二畝一九歩
 大豆石高 四七石五斗八升二合
久保組
 田 六町八反八畝二三歩
 石高 八八石七斗五升八合
 畑 五町七反一畝一七歩
 大豆石高 三四石三斗三升四合
応閑組
 田 三町九反五畝○二歩
 石高 四三石七斗三升六合
 畑 八町八反○畝○二歩
 大豆石高 五八石八斗二升二合
日尾野組
 田 八町五反四畝二五歩
 石高 七四石八斗二升三合
 畑 一五町四反○畝○二歩
 大豆石高 一〇五石五斗八升○一合
大栄組
 田 四町七反四畝○五歩
 石高 四八石八斗五升一合
 畑 九町三反六畝○六歩
 大豆石高 四六石二斗六升一合
奥大栄組
 田 三町七反六畝○三歩
 石高 三四石三斗三升三合
 大豆石高 二六石二斗八升三合