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双海町誌

第二節 明治時代

一 県の変遷
 一八六七(慶応三)年、江戸幕府一五代将軍の徳川慶喜は大政奉還によって朝廷に政権を返上し、慶応四年に年号も明治と改められた。そして近代国家への進展を図るべく、新政府によってそれまでの制度が一新されたのである。
 一八七一(明治二)年の版籍奉還によって藩主は知藩事となったが、明治四年の廃藩置県によってその職を解かれたうえ、東京在住を命じられた。伊予八藩は八県となり、明治政府から新たに県知事が任命された。八県は更に重信川境で松山県と宇和島県の二県に統合され、翌年に県名が改称、明治六年には更に統合して伊予一県となって愛媛県が誕生した。なお、明治九年には香川県を統合して愛媛県とした。また、郷土も庄屋が里正となり更に戸長と改称した。
 こうした様々な変更がされるごとに、郷土の組織や役場の所在地が変わり、なお中間で連日のように各種の新規・変更通達が下されていたのである。
 その経過は次のとおり。


二 大洲騒動

 一八七一(明治四)年七月、明治新政府は全国の藩を廃して府県に統一する廃藩置県の令を発した。これによって、大洲藩は大洲県と改称した。同時に大参事の任に就いていた山本尚徳が、進歩的政策を施行して諸般の改革を進めた。しかし、旧士族たちの新体制への反感は強く、明治維新で人心が動揺している機に乗じて世情に暗い農民を煽動、八月上旬には喜多郡手成村や戒の川村で百姓一揆が起こった。これが沿道の農民を強要誘引し、大洲城北若宮村に屯集した。更に、喜多郡だけでなく大洲領一五〇余の町村から遍く集まり、総勢四万人余の農民が結集したのである。それぞれ竹槍や鉄砲、刀剣を携え大洲市内を横行し、若宮河原一帯は苫旗や急ごしらえの小屋で埋もれる如くであったという。県官の制止も全く効果がなく、ついには大洲城より大砲を撃ち込む準備までされたが、山本大参事はこれを許さず、目安函を設けて意見を投書させることにした。しかし、全体の統率者もおらず、ただただ新体制への不安から起こった一揆のため、対策について名案などあるわけもなく、旧体制を望むこと以外は全く事実無根の主張であった。その主な内容は次のとおり。

  一、旧知事の東帰は全く大参事の奸策に出でたる事
  一、戸籍調は生血を絞り取る材料に供する事
  一、種痘は毒を植うる方法たる事
  一、蘭法医は人を害するものたる事
  一、大洲県の政事は故意に県内の疲弊を企つる事
  一、大豆年貢は地相場に定めたるを大阪相場を以て徴収するは、役人が人民を詭くものたる事

 このように、旧藩主の帰京を止め、現今の官吏を排斥し旧藩士を登庸させて維新前の政体に復することを主張したのである。同月十五日に加藤泰秋は若宮に出て暴民に懇諭したが、なお解散する様子はなかった。そのため、大参事山本尚徳は責を一身に負い自決するに至った。
 次の文書はそのとき山本尚徳が旧藩士西谷正道に託した遺書である。

 大参事山本尚徳不才の身にて、辱大任、聊尽力致度志願候処、豈図今般民間沸騰に至り団結の凝念何分氷解に難至、従来朝旨に基、繊毛の私心無之存意に候得共、退て推考仕候得者、元来浅劣背人望候故と、奉対天朝震悚の至、依之表徴衷を候段臨終の際申残候に付従私共御届申上候以上
   辛末八月一五日
         大洲藩士族
         西谷正道
  大洲県庁 御中

 山本尚徳の自刃が伝えられると、ついに農民たちは解散するに至った。


三 四民平等と会議

 一八六九(明治二)年、明治政府は上級の公家と大名を華族、武士を士族、農工商を平民とし、一八七〇年には「平民苗字許可令」を出し苗字の使用を平民にも許した。また、一八七一年に戸籍法をさだめ、身分にかかわらず国民を居住地ごとに登録させるようにした。しかし、当時の人々は、苗字をつけると税金を多く課せられると誤解し、なかなか苗字を名乗らない者も多くいた。見かねた政府は、一八七五(明治八)年に、「平民苗字必称義務令」という太政官布告を出した。このことによって国民全員が苗字を付けなければならなくなった。
 そこで、職業や住んでいる地名・地形・特徴、それに上中下・左右・大小・東西南北・植物・動物などの字を組み合わせて姓を作る例が多かった。それでも浮かばない者には旧庄屋や村役・神官・僧侶がつけたと伝えられる。
 したがって、当時は親子や兄弟でも姓が異なったり、他人でも同姓ということもしばしばであった。その後、戸籍法の確立で、独立又は結婚しても新しい姓にすることが認められなくなったことで、姓と家系が一致するようになった。
 新政府は会議を重視し、何事も会議において議論して決定するよう通達した。座長を選び座長が会議を進めること、参会者の発言の要旨を書き役が記録すること、相手のことは君・自分のことは僕と発言すること、など詳細な指示を行っていた。
 この指示どおり、区役所や郡役所で承ったことを村役たちが帰村して村人に伝えてはいたが徹底せず、なかには自分を君、相手を僕と間違える者もいる始末であったという。また、文字を知らない村人も多かったため説明することも困難で、ついに立ち消えになったと伝えられている。


四 経済の再出発

 文字だけでなく数字にも弱い者が多かった村人が更に混乱したのは、それまでの旧藩札や文銭が新しく一両札に交換され、更に新政府発行の新一円に切り替えられたことである。
 最初は七〇文を一匁札、七万文を一貫目札とし、一貫三〇〇目(九万一〇〇〇文)を一両札と交換した。次には三貫五〇〇目(二四万五〇〇〇文)を一両札と強制的に交換させた。そして後に一両札を新政府発行の一円に最終的に切り替えた。
 このことについて『上灘村郷土誌』は「現今ノ一円ハ壱千文ニシテ、当時ノ一両札ト比スレバ、即チ弐四万四千文ノ差生ズ。壱両ニカカル損害トナルモノ」(原文)と伝えている。
 そもそも、借金で苦しんでいた大名たちが版籍を奉還したところで、土地や人民の名義が朝廷になったにすぎない。数としてはそう変わらない新役人を賄い、国民を生活させつつ、新方針のための莫大な経費も必要。明治政府は最初から財政面で行き詰まっていた。そこで、幕府や大名の経済的負債は二四五分の一に縮小し、新たに政府の責任で円を発行したのだった。
 ほとんど文無し状態でスタートした明治政府が、旧藩の政治・行政を肩代わりし、世界各国と外交を結び、短期間で富国強兵策を実現できた裏には、この全国民に大損害を負わせた巧妙な貨幣政策があったのである。国民が大損害に気づいた時には後の祭りで、「天子様と国のため」と不平も封じられてしまった。


五 大・小区制と区長・戸長制

 一八七二(明治五)年、重信川以南は神山県となった。明治六年には神山県と石鉄県が合併して愛媛県となって第八大区に編入した。そして高野川・上灘・佐礼谷村はその第二三小区、高岸村と大久保村は第二四小区、串村と境村は第二五小区となってそれぞれ戸長役場を置いた。更に、一八七六(明治九)年に香川県との合併で第一五区に編成された。
 当時の区長・戸長の役割を次の太政官布告で知ることができる。

  ・区長可心得条々(後の郡長)
一、区長ノ儀ハ区内諸村戸長共へ伝達ノ事件ヲ始メ平生諸世話駈引等其役務タリ、時ニヨリ一区内ノ総代二可相立事二付謹而御仁政ノ御趣旨ヲ奉シ可遂精勤事

  ・戸長可心得条々(後の町村長)
一、戸長ノ儀ハ支配地内百姓共へ伝達ノ事件ヲ始メ、平生諸世話駈引其役務タリ、時ニヨリ支配内ノ総代三川相立事二付謹而御仁政ノ御趣旨ヲ奉シ可遂精勤事。

一、役威二倣リ、尊大騎奢ノ所行堅ク誠之、村内百姓共ヨリ申出ル儀ヲ是非ヲモワカタス差押へ情実ヲ上達セス或ハ公事訴訟等二付賄賂ヲ請、依怗ノ取計等イタスマシク方正廉直ヲ旨トシ、条理明白二可計事。

一、追々相違スル旨屹度相守、諸令其外伝達無沈滞、速二取計趣旨審カニ村内ノ者共へ可聞事。

一、村内ノ者離散セサル様心得、貧窮ノモノアラハ難渋イマタ行詰サル内扶助ノ手立ヲナスヘシ、自然下ニオイテ心ニ不任程ノ事ハ速二可申出、常二華美ノ奢ヲ戒メ、無益ノ費ヲ省キ農業ヲ勧メ諸人成立ノ心得可為肝要事

一、隣村相親シ互二気ヲ付諸事申談、聊モ隔絶スル事不可有之事

一、田畠不荒様、堤防、溝川、橋梁等修補二怠ルヘカラス、自然水損ニテ及大破、下ニオイテ普請難調ノ事ハ速二申出荒地掲起シ返シノ儀モ村中申合精々可心得、百姓ノカニ不及事ハ是又速二可申出事

一、田畠用水、水筋山林等境界ヲ正シ諍論不起様兼テ可心付事

一、御米蔵ノ儀、常々心掛雨モリ等無之様、修復可加勿論、番人等緩カセニスヘカラサル事

一、収納米其他諸上納者念ヲ入、百姓ノイタミ不相成様、可心掛事

一、官用ト号シ、村内へ不当ノ出金イタサセ間敷、村内諸入費可成ハ相滅シ、明細二書記シ置、百姓中疑ヲ不生ヤウ其訳具二申聞セ、清廉ノ取計可為肝要事

一、水利ヲ起シ土地ヲ開キ、良木ヲ植付物産ヲ盛ニシ、永世村里ノ栄ヲハカルヘキ事

一、善ヲ勧メ悪ヲ誠メ、風儀ヲ宜二導事村役人ノ勤方ニアリ、心不得宣モノアラハ慇懃二教諭ヲ加へ行状ヲ改メシムヘシ、且又諸人二抽テ心得ヨロシキ者アラハ、逐可出中事

一、会所集議ノ節、飲食ニ長シ又雑談二打過、費用ヲ不省、職業ヲ妨ケル事堅ク禁之、心得違無之様村内ヘモ兼々可申聞事

一、常二戸籍ノ取シラベ不怠、支配内二不審ノ者不可留置事。

一、凶年飢災ノ手当無怠可遂心配事。

一、火元別シテ入念相慎候可申付事。

  右之通可相心得者也(原文)
       壬申三月      太政官


六 地租改正

 一八七二(明治五)年、明治新政府はそれまで禁止していた田畑の売買を自由化し、地券を発行して土地の所有権を認め、その地価を定めた。
 更に、明治六年の「地租改正法」に続き、明治八年、時の愛媛県令岩村高俊による乾第一二一号の命令によって改租事業が開始された。この地租改正は、特に、従来は物であった地租を金納とし、地租賦課の基準を従来の石から地価に改めたという点において、極めて重要な意義をもった施策であった。それは、農業以外みるべき産業のなかった当時、新政府は近代国家確立のための新たな主要財源を地租に求めるほかなかったからである。
 明治十年九月までに、七五もの地租改正の法令が出されていることをみても、新政府が財源の確立を急いでいたことが容易に推測できるだろう。また、政府の朝令暮改に右往左往しながらも懸命に取り組んでいたであろう当事者達の姿も偲ばれる。住民の反対を押しつつ、それぞれの土地の測量・図面作り・地価の決定を行い、土地台帳を作成するのは、技術的なことも含め極めて困難な事業であり、業務が完了したのは明治十四年六月のことであった。


七 行政区の変遷

 一八七八(明治十一)年七月、「郡区町村編成法」が太政官布告によって公布され、「地方ヲ劃シテ府県ノ下、郡区町村トス」となった。そして、浮穴郡高野川村・上灘村・高岸村・大久保村・串村・石畳村・境村となった。また、浮穴郡が上・下に分かれて下浮穴郡に属した。
 同年に出された内務卿訓示で町村規模を指示している。

一、役場ノ区域ハ郡区町村編成法第六条二依り府県知事・県令二於テ適宜之ヲ定ム可シト雖モ、一町村凡ソ五百戸以上ノ者ワ連合セスシテ戸長一員ヲ置クヘシ、其五百以下ノ町村ハ便宜連合スルヲ得ルモ合テ五百戸以上五町村以上二及フヘカラス、但シ其概率二由り難キモノアルトキハ状ヲ具シテ伺出ツヘシ。(原文)

とあるように、町村の標準戸数は五〇〇戸とされた。そこで、高野川村と上灘村、大久保村と高岸村、串村と境村が合併した戸長役場が設置された。
 戸長役場と戸長の実態は、次に示す内務卿訓示のとおりである。

一、戸長役場ノ所轄区域及其位置等一且査定ノ後ハ、容易二変更スヘカラズ、若シ不得止事由アリテ之ヲ変更セントスルトキハ其都度申出ツヘシ。
一、戸長ハ可成永ク其町村二居住シ、名望資産ヲ有スル者二就テ選任スヘシ(原文)

 戸長は、身分としては準官吏とされ、その年俸は一等八〇円、二等七〇円、三等六〇円と三等に分けられ、その人物に応じて国から県を経由して支給されるという制度だった。
 行政区の移り変わりをまとめて追ってみると、まず、一八七二(明治五)年の大・小区制による区域は次のとおりであった。
 第八大区
  二三区(高野川・上灘・佐礼谷)
  二四区(高岸・大久保・石畳)
  二五区(串・境)

 一八九〇(明治二十三)年一月、町村制実施当時は、下浮穴郡に属しており、一四か村であった。郡役所は郡中町(現在の伊予市)の伊予郡郡役所に併置されていた。なお、上・下灘村はこのとき誕生した。
  上灘村(上灘村・高野川村・高岸村)
  下灘村(大久保村・石畳村・串村)
 また、一九〇八(明治四十一)年石畳地区が分離し、現在の内子町に編入された。旧村はそれぞれ大字となった。
 一八九七(明治三十)年四月、それまでの下浮穴郡と伊予郡が合併して一町一五村の伊予郡となった。郡役所は郡中町に置かれた。
 明治四十一年には、中山と出渕村が合併した。また、大正十年、上灘村は町制を施行、同時に松前村・中山村・砥部村も町制となり、その後、郡中町は郡中村を統合した。
 こうして、五町九村による伊予郡時代は、一九五五(昭和三十)年まで続いた。


八 役   場

 役場は、たび重なる行政区域の変更に伴って、旧庄屋跡や戸長の自宅又は民家を転々とした。明治五年ごろには、高野川村・上灘村・佐礼谷村を統治する役場が現在の上灘三島の広沢宅に置かれていた。同じころ、串村・境村の役場は現在の下灘奥西の都築倆六宅に設置されていたが、その後大久保村・串村・石畳村の三村の役場として現在の石久保に移った。更に地理的不便さを理由に豊田浜に変わり、やがて村役場のあった大字串甲七五番地に設置された。
 また、上灘地区も上灘村・高野川村・高岸村の三村役場を大字上灘甲五七六〇番地に設置し、数回移転した後に甲五六六八番地(現在の由並小学校下方)に落ち着いた。
 明治二十三年に上灘村・下灘村が誕生すると同時に、当初戸長・副戸長・書記制度だった役場も村長・助役・収入役・書記といった自治体制となった。しかし、村長といっても、当時は大体非常勤の名誉職だった。役場の業務自体も、自治というよりは県・郡の出先機関的内容であり、そのため、書記などの職員も能力より人物本位の富裕農民出が多かった。また、当時女性職員は皆無であった。
 やがて町村の整備が整うにつれて、通達による上意下達業務ばかりでなく、国・県からの委託業務も増えていった。重点は教育・勧業・戸籍・兵事であり、それらをそれぞれの自治体の自己財源でほぼ賄うようになった。そのため、税金の賦課と徴収は最大の業務であり、現在の消費税も直接村税として賦課徴収された。例えば自家用として生産した醤油には国税が賦課されたのである。

九 戸長・村役
 戸長は現在の町村長、副戸長は助役、用係は吏員、組頭は集落の区長に相当するが、当時はかなり行政権も分担していた。
 上灘地区の歴代戸長・村役は次のとおりである。
 ・一八七二(明治五)年
  戸長………鷹尾吉循
  副戸長……高井直武
  組頭………井上右市・本田昇三郎・岸田嘉吉・西岡倉次郎・西岡惣太郎
 ・明治九年
  戸長………矢野速太
  用係………上田高志
  組頭………井上右市・宇都宮貞太郎・岸田嘉吉・西岡倉次郎・豊嶋嘉七郎
 ・明治十年
  戸長………上田尚志
  用係………豊嶋嘉七郎・仲野嘉吉
 ・明治十四年
  戸長………上田利一郎
 ・明治十六年
  戸長………上田尚志
 ・明治十九年
  戸長………中村享
  用係………豊嶋嘉七郎・上田尚志


一〇 財   政

 次に示すのは一九〇〇(明治三十三)年から一〇年間の上灘村の財政である。歳人はほぼ村税を中心とする自己財源で占めている。歳出には過半額を教育費に充てており、土木や勧業費が合わせて一パーセントに満たないのがこのころの特徴といえるだろう。なお、教育費が多額になったのは全額村負担のためである。一九一八(大正七)年になって国が分担することになった。
 当時下灘村においても大体同様の内容で、予算総額は次ページのとおりであった。
 一九〇八(明治四十一)年度で予算が増額しているのは、その年の十一月に富貴小学校二七坪、翌年の三月に豊田尋常小学校四五坪の増築を行い、工費等総合計額三六七九円の臨時費をみたためである。


一一 郡 役 所

 大洲藩時代には、この地方一帯の中心的役所が郡中の湊町にあった(現在伊予市の湊町と灘町を結ぶ常世橋の北方三五メートルの場所)。一八七四(明治七)年の区画制定により本町関連の地域は第八区となり、区役所が同地に設置され、次いで明治九年の区画改正において第一五区役所と改称した。更に、明治十一年郡区町村編成法が施行され、伊予郡役所と改称、郡長を置いて郡内の統治に当たった。また、現在の双海町・中山町・広田村などは伊予郡より分離して下浮穴郡に編入されたが、その下浮穴郡の役所も同所に併設されたため、明治十四年には下浮穴・伊予郡役所となったのである。
 一八九七(明治三十)年には郡自治制によって、新たな伊予郡の区画が確立した。当時の郡役所は一応独立した地方自治機関であり、近世時代の名称としての郷や、昭和以降の県の出先機関としての地方事務所とは根本的に異なるものだった。逆に、管内の町村役所は多分に郡役所の出先機関的機能を含んでいたのである。明治後期から大正にかけてはまさに郡制自治の時代といえる。 明治三十二年、郡会議員選出方法が町村単位(地主代表)での選出に改正されたことで、上灘村から井上右市、鷹尾喜三郎、奥嶋豊、下灘村から岡井芳三郎、久保井郁太郎、閏木彦市が郡会議員として活躍した。
 その後、各種交通の発達や町村の充実などの要因から、一九二三(大正十二)年、郡自治制度は廃止され、郡役所も五〇年の歴史を閉じることとなった。


一二 ブラジル移民

 一八七四(明治七)年、第一回ブラジル移民団が結成され、小網の池田栄太郎たちは新天地へ渡海した。以後下灘地区からもブラジルへの移民は続いた。昭和初期にも上灘から五家族が移民している。
 一九五三(昭和二十八)年、ブラジル移民八十周年記念式典がサンパウロ市で開催され、日本のラジオ体操会から「慶祝使節」として六〇人が参加した。当時愛媛県人会等もあり、交流等もあったが、今では二世・三世代になり消息も分かりづらくなっている。

伊予八幡から愛媛県までの経過図

伊予八幡から愛媛県までの経過図


明治初期の郷土

明治初期の郷土


明治23年・下浮穴郡時代

明治23年・下浮穴郡時代


明治30年の伊予郡

明治30年の伊予郡


上灘村歳入決算表

上灘村歳入決算表


上灘村歳出決算表

上灘村歳出決算表


上灘村基本財産

上灘村基本財産


上灘村の国・県・村税の推移

上灘村の国・県・村税の推移


下灘村予算書

下灘村予算書