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双海町誌

第九節 果樹園芸①


一 概 要
 一九〇二(明治三十五)年、下灘の加納善太郎が現在の温州ミカンの苗木を導入し、上・下灘一円に広めた。当時は新植希望者が少なかったため、村役場が一本の苗木につき二〇銭の補助金を出して奨励をした。しかし、植付けから結実するまでに一〇年の歳月を要したため(当時)、それほどは普及しなかった。なお、当時は一般の需要も少なく、価格も三・七五キログラム当たり二〇銭程度であった。
 したがって、後の組合のようなものもなく、地元の商人に山ダテといって目見当で売買されていた。
 一九三〇(昭和五)年になると、共選が設立され、共選に出荷する者と、個人で選果して郡中港まで荷馬車で運んで阪神方面に出荷する者とに分かれた。ちなみに選別方法は、天・特・イ・ヨ・ノ・ミ・カ・ム・小玉の九段階に分けられた。
 太平洋戦争後(昭和二十二年ごろ)から、諸物価と比較してミカンの価額が高くなり、しだいに開墾・新植が盛んになっていった。昭和二十九年には、当時農林大臣であった河野一郎の適地適作主義の奨励により、田畑に新植を試みるものが増えた。また、栗山・柿畑・山林などもミカン畑に変わっていった。
一九一三(大正二)年に伊予果物同業組合が設立され、上灘では仲野・谷井・西尾・谷江・鷹尾・森田・中川の園地に導入された。当時の面積は三・五ヘクタール余りであったが、昭和四〇年代後半から五〇年代前半には三〇〇ヘクタールにも増大した。
 下灘では、角田工美吉が中心となって大々的にミカン園を造成していった。そして一九二二(大正十一)年十一月一日に有志六人とともに久保井寅吉を組合長に迎えて、圓山園芸組合を創立した。
 下灘全域にミカン園が急速に造成されたのは、栗坂一眞村長が圓山園芸組合組合長を兼務した一九三〇(昭和五)年ごろからであった。
 次に、上・下灘園芸組合の歩みを記す。

二 温州ミカン大暴落
 愛媛県の基幹作物が「ミカン」であることは、全国的にも知られるところである。特に、「温州ミカン」は味のよさで人気の品種である。
 愛媛県が温州ミカン生産量で日本一になったのは、一九六八(昭和四十三)年であった。この年は全国的にミカンが豊作で、全国生産量は二〇〇万トンに達した。大豊作であった上に、品質が安定していなかったので、ミカン価格は初めて暴落した。この経験から、組織的な品質管理、品質向上の必要性が叫ばれ、重要課題として取り組みが始まった。品質区分による選果や地帯区分による時期別・地区別集荷が、県下に先駆けて行われるきっかけともなった。
 昭和四十七年には、全国生産量が三五六万八〇〇〇トンと急増したことにより、またも大暴落となった。昭和四十三年のときとは異なり、努力の甲斐あって品質は向上していたのである。それだけに、この年の暴落が農家の人々に与える衝撃は大きかった。
 その後、対策として温州ミカンから早生伊予柑・ネーブル・甘夏柑などへの転換が進められた。こうして品種更新に力を入れるようになり、現在は、様々な柑橘類が店頭に並ぶようになっている。

三 極早生温州の推進
 ミカンに限らず、早期出荷のものは高値で販売できる。そうした理由から、温州ミカンの早生種の開発は熱心に取り組まれてきた。特に、伊予市南山崎地区の徳森信夫が発見した「徳森早生」は、一九七四(昭和四十九)年から盛んに栽培され、伊予園芸の一大ブランドとして高い評価を得るまでになった。極早生種の一大産地形成につながる大健闘であったといってよい。
 その後市文・宮本・岩崎・谷本等の新品種が導入されてきたが、腰高で酸味が高いなどの欠点により、今日では品質のよい「日南一号」へと主流は移ってきた。

四 温室ミカンの導入
 早生種開発に熱心な生産者にとって革命的な出来事は、「温室ミカン」の登場であった。一九七三(昭和四十八)年、伊予地区で二人の生産者が手掛けたところ、希少価値から人気が高まり、高価格で取引きされた。この好結果を受け、翌四十九年からは 「温室ミカンで儲け、ハワイへ行こう」という生産者の夢と希望を駆り立てるキャッチフレーズがつくられ、またたく間に温室栽培は広まった。双海町内では、昭和五十二年に三人の生産者により、一八トン、販売額約一〇〇〇万円で初出荷された。組織的な研究体制がとられ、基本管理を徹底させることにより、伊予地区は全国でI、二を争う産地にまで成長した。この成功から、ネーブル・アンコール・マーゴッドなど様々な柑橘類が施設栽培されるようになってきた。
 また露地で栽培されている柑橘類の価格は近年特に低迷し、良品質の生産が望まれている中で温室ミカンは比較的安定した収益を得ており、現在、上灘地区では栽培面積四・八一ヘクタール、農家数一九戸、生産量二五〇トンとなっており柑橘精算額の四〇パーセントを占めている。また下灘地区では栽培面積一五・三二ヘクタール、農家数四七戸、生産量七五〇トンで柑橘精算額の六四パーセントを占めており、正に柑橘栽培の主力となっている。

五 ビワ栽培
 ビワは初夏の昧という季節感の強い果実で栽培の歴史は古く、田中種は一九〇二(明治三十五)年ごろ、淡路島より伊予市南山崎唐川地区に導入され、その後大平地区、稲荷地区、本町の上灘地区にも広く栽培されるようになった。
 田中種より早期出荷が可能で収穫労力の分散や高品質果実の品種を基本に研究を行い、一九八〇(昭和五十五)年ごろ、福岡県より湯川種、三年後高知県より五月下旬から出荷が出来る長生種が導入された。柑橘類の低迷により、下灘地区でも一九九五(平成七)年から長生種を主に普及推進され、現在に至っている。

六 冷夏長雨による異常気象
 一九八〇(昭和五十五)年は、一〇〇年に一度といわれる異常気象の年であった。例年であれば梅雨明けから八月いっぱいまで続く猛署が、この年は七月・八月とも平均気温が二五度を下回った。また降雨量が七月は平年の二倍、八月は三倍以上であり、口照時間は例年の半分ほどになってしまった。この冷夏・長雨は、ミカン生産者に多大な損害を与える結果となった。
 長雨は落果を促し、日照不足は果実の成長を遅らせ、病虫害も多くなる。このような気象条件による不作は、防ぎようもないものであるが、基本的な管理を忠実に行うことにより、ある程度は対策になるという。
 この年は、本町のミカン生産者にとって忘れがたいほど記録的な悪天候の年であった。

七 柑橘生産者大会
 記録的な異常気象の翌年、一九八一 (昭和五十六)年一月九日に双海町基幹集落センター(町民会館)で『ミカン農家危機打開決起大会』が開催された。本町の基幹産業である果樹栽培、なかでもミカン栽培の不振は町全体の問題であるとして、約二〇〇人の生産者が出席した。
 前年の不振の結果を分析し、改善策などが話され、最後には全員で力強く気勢を挙げ閉会となった。
 同時に、「果実品評会」が催され、本町で生産されたネーブルや宮内伊予柑など二七九点が出品された。多くの果実が鮮やかなオレンジ色を輝かせ並ぶさまは圧巻で、さわやかな香りとともに訪れた人たちを和ませる光景となっていた。町長賞をはじめ五六点が入賞し、表彰された生産者にとっては、その後のミカンづくりへの活力となった。

八 キウイフルーツの導入
 ミカンに代わる果樹栽培品目として、キウイフルーツが伊予園芸農協において試作開始されたのは一九七五(昭和五十)年である。ヘイワードーブルーノーアボットーモンティなど多くの品種の苗木を植栽した。適地性などを研究した結果、昭和五十三年には品種がヘイワードに統一される。
 その二年後、昭和五十五年には二・六トンが初出荷された。同時に、「キウイフルーツ研究部会」が結成され、三九人の会員により栽培技術や貯蔵技術、販売方法などについて研究が進められた。五年後には共同選果荷造りにより、四三八トンを販売するようになった。キウイフルーツは本町においてもミカンとともに基幹作物の一つに数えられるようになった。
 平成に入ってからは、低温貯蔵庫ができるなど、保存面での研究が進んでいる。今後も、ミカンと並び本町を支える果実として重要視されていくであろう。

九 異常寒波による天災融資法発令
 一九八一 (昭和五十六)年は異常寒波に襲われて、愛媛県全体の果樹農家は甚大な被害を受けた。零下八度という異常低温と寒風害により、標高二〇〇メートル以上の地域に栽培されているミカンは落葉・枝枯などの打撃を受けた。ビワにいたっては、九〇パーセント以上の幼果が枯死するという致命的な状況であった。
 そのため、救済措置を関係行政機関に申請した。その結果、天災融資法が発令され、このような寒波被害などで所得が大幅に減少した生産者への特別な融資や苗木の助成などの措置が講じられた。

一〇 オレンジ・果汁の自由化対策
 一九八二(昭和五十七)年四月十日、「オレンジ・果汁・牛肉等自由化・枠拡大阻止中予地区決起集会」が行われた。生産者二〇〇〇人が集結し、「日本農業を守るため、組織の全力をあげてまい進する」という大会宣言を採択した。アメリカへの市場開放による日本の農業・畜産業の衰退を懸念しての抗議集会である。特に当時問題になっていたオレンジの輸入に関する緩和策は、ミカン生産者の死活問題ととらえられていて、集まった生産者たちは一様に厳しい表情で壇上を見守っていた。中予地区での生産者の気持ちがひとつに固まった決起集会であった。
 同年同月二十三日、「農水産物輸入自由化・枠拡大阻止全国農業漁業者総決起大会」が東京・日比谷の野外音楽堂で開かれた。全国から集まった代表者約八〇〇〇人が参加した。これまでの各地での活動を総結集した大会ということで、中予地区からも伊予園芸農協組合長をはじめとする代表者が参加している。
 「日本の食糧と農業を守ろう」などと書かれたプラカードやはちまきをした生産者たちは、自由化阻止に向け全力で取り組むことを気勢をあげて宣言した。終了後、デモ行進で国会議事堂や米国大使館などへ向かい、集団要請を行った。


上灘・下灘園芸(協同)組合年表 1

上灘・下灘園芸(協同)組合年表 1


上灘・下灘園芸(協同)組合年表 2

上灘・下灘園芸(協同)組合年表 2


上灘・下灘園芸(協同)組合年表 3

上灘・下灘園芸(協同)組合年表 3


果樹栽培面積及び収穫量

果樹栽培面積及び収穫量


柑橘等品種別手取単価表

柑橘等品種別手取単価表


歴代組合長 上灘共選

歴代組合長 上灘共選


歴代組合長 高岸共選

歴代組合長 高岸共選


歴代組合長 上灘園芸組合

歴代組合長 上灘園芸組合


歴代組合長 下灘園芸組合

歴代組合長 下灘園芸組合


ビワ栽培

ビワ栽培