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双海町誌

第一節 概要

一 本町の山林と林業
 藩政中期ごろまでの山林はシイ・カシ類その他の雑木が繁茂する自然林で、交通の不便さも加わって木材の価値は低かった。わずかに藩直轄の殿山(高岸の禿山等)が、自然林に手を加えた用材林として管理されていた。
 一七〇〇(元禄年間)年ごろ、大洲藩庁は苗木を交付して植林を奨励した。久保の吉右衛門たちはスギ・ヒノキ・クヌギ等の苗木を育てて植林を始めた。このようにして順次人工林の発達をみたが、その規模は小さく全町的植林にはほど遠いものであった。
 集落や地形で異なるが、標高約五〇〇メートルの地点に「大火道」という境界があって、それより上方は集落の共有で「焼野」と称し、毎年春の彼岸の中日に「山焼き」が実施されていた。「焼野」の草地は住宅の屋根替えに必要(当時は草ぶきの屋根)であり、肥料用採草地としても大切な存在であった。したがって「大火道」より下方の谷間などの条件のよい場所にスギ・ヒノキ・クヌギ等が植林されたのである。マツは自然林に若干手を加える程度であった。
 江戸後期ごろからマツ・スギ・ヒノキ等の建築用材や「ニブキ」と称したクヌギ・コナラ等の薪原木が海岸から船積みされ、広島や遠く阪神方面まで販売された。
 山林経営が有利になったので、明治年間には植林が村是として推進され、雑木林や広大な「焼野」は次第に縮小され、一九一〇(明治四十三)年には山野の一〇パーセントになった。大正時代に海岸道路が整備され、昭和時代に鉄道が開通すると陸路での木材輸送も盛んになった。
 明治時代から昭和初期にかけて双海地域の山林では、良質の薪炭を生産し、薪原木を京阪神方面に盛んに海上輸送していた。また、木炭の需要が大きかったこともあり、豊富な原木をもとに木炭生産が普及した。しかし、薪炭材や薪原木の需要をまかなってきた山林は昭和の高度経済成長とともにその役目を終え、しだいに針葉樹林や果樹園に変わっていった。
 一方で、明治以降、建築材としてスギ・ヒノキの使用が多くなるにつれ、スギ材やヒノキ材が盛んに植林されるようになった。しかし、戦時中の乱伐によって山林は荒廃し、更に戦災都市復興のため、木材需要が急増して立ち木の大量伐採が行われ、山林はほとんど裸の状態になった。これに対処して、国を挙げて国土緑化運動が推進されるとともに、一方で国土の保全、森林資源確保のために一九五〇(昭和二十五)年「造林臨時措置法」が施行され、造林は急増した。更に、このころの木材好況や関係機関の教育指導も造林活動を活発化させた要因になり、植栽可能な山地のほとんどに造林された。しかし、一九六〇(昭和三十五)年の丸太輸入の全面自由化、続く木材不況、更には松くい虫被害による松枯れなど、山林経営は停滞から下降への道をたどることとなった。昭和四十年から六十年代にはシイタケの生産が盛んに行われたが、最近は、外国産シイタケの輸入増に伴う価格の低迷や栽培者の高齢化、後継者不足などの要因で、生産者数、生産量とも低位安定の状態である。
 全林業関係純生産額は次のとおりである。

二 林野面積と林家数の現況
 本町の総上地面積は六二一七へクタール(二〇〇〇年国勢調査)で愛媛県の総面積の一・一パーセントを占めている。そのうちの林野面積は四二一二ヘクタールで林野率は六七・七パーセントである。これは、伊予市(四二・ニパーセント)、砥部町(五八・三パーセント)、中山町(六三・六パーセント)と比較しても高く、森林の多いことが分かる。林野面積の推移を見ると、一九六〇(昭和三十五)年から四〇年間で五〇〇ヘクタールの林野が減少した。これは、一九七〇(昭和四十五)年までの一〇年間で約四〇〇ヘクタール近くが減少し、耕地面積が約三〇〇ヘクタール増加していることから、この時期に林野が果樹園へと代わった様子が資料から読み取れる。
 樹種別の推移を見てみると針葉樹の人工林が九〇〇ヘクタール、天然林の広葉樹が一000ヘクタール増加したのに対して、人工林の広葉樹は一九〇〇ヘクタール減少したことが分かる(いずれも一九六〇年から二〇〇〇年の四〇年間)。この変化は、一九六〇(昭和三十五)年から一九七〇(昭和四十五)年の間に劇的であり、昭和三〇年代後半に広葉樹の人工林に針葉樹を植林したことと、人工林が放置され天然林になったことがうかがえる。
 次に、林家数を見ると二〇〇〇年には三一三戸で、一九六〇年の半数以下になっている。これは、本町の農家数の推移とほぽ同じ下降曲線を描いていることが分かる。三一三戸の林家のほとんどは農林業一体の複合経営家であることが、産業別就業者数(農業八一六人に対して林業五人)から読み取れる。産業別総生産額(平成九年)では、本町の林業生産額は五五〇〇万円で、総生産額に占める割合が〇・四八パーセントである。これは、農業(九・七八パーセント)や漁業(一二・六三パーセント)と比較しても低く、林業経営がいかに厳しいかということを物語っている。

三 松くい虫被害
 松くい虫被害に合うと、マツの葉が急に赤くなり、数週間から数か月で枯れてしまう。本町では、一九七五(昭和五十)年九月一日発行の双海広報第三三〇号に「日喰の松危篤…」という見出しで掲載された記事が、松くい虫被害関連の最初であった。このころから、西日本一帯のマツに同様の被害が出始めた。
 「マツノマダラカミキリ」を媒体として伝染する松くい虫(マツノザイセンチュウ)という線虫が、松材内の細胞を破壊することが主要因である。日喰の松は、かつて大洲藩が参勤交代の航路の目印として植えた樹齢三〇〇年以上といわれる老松で、被害を食い止める試みもなされたが、手を尽くした甲斐もなく、十月二十五日には伐採されてしまった。この出来事を機に町内全域に松くい虫被害が広がり、一九七八(昭和五十三)年に天一稲荷神社の老松群、続く昭和五十四年には高野川地区の松林が伐採された。本町では三~四年の問に西の下灘地区から東の上灘地区へと被害が広がった。
 国は一九七七(昭和五十二)年に時限立法の「松くい虫防除特別措置法」を制定し、再三延長して大々的な薬剤散布を行ってきた。本町でも国庫補助事業を活用しながら、八景山展望台周辺のマツを「保全すべき松林」と位置づけ、昭和五十三年から現在に至るまで毎年二回薬剤の地上散布を行ってきた。また、被害状況に応じて町内の松林に対して防除及び駆除を実施し、被害の沈静化に向けて取り組みを行っている。
 松くい虫被害により、一九七三(昭和四十八)年からの三〇年間で本町の松林の面積は九分の一にまで減少した。

四 本町の森林計画
 地球環境の保全が叫ばれる現在、森林の持つ公益性と森林保全の必要性が強調されるようになった。国土の保全機能や森林のもつ水源かん養機能、大気保全機能などは、人々の暮らしと安全にとって欠かすことのできない重要なものという認識が一般化され、森林に対する社会的要請は多様化する傾向にある。本町では国が定めた全国森林計画、県が制定した今治松山地域森林計画書に基づき、「水土保全」「森林と人との共生」「資源の循環利用」の三つの推進方向により森林整備を進めている。
 また、漁業の盛んな本町では、漁業従事者と林業家共同で間伐材を使った魚礁作りを行うなど、未来志向の取り組みも行われている。


全林業関係純生産額

全林業関係純生産額


双海町の農家数と林家数の推移

双海町の農家数と林家数の推移


林家数・林野面積

林家数・林野面積


人工林・天然林の樹種別樹林地面積

人工林・天然林の樹種別樹林地面積


双海町 松林の面積の推移

双海町 松林の面積の推移


双海町松くい虫対策事業実績

双海町松くい虫対策事業実績