データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

双海町誌

第一節 漁場の開拓

一 高岸漁場
 一五九四(文禄三)年、黒山城主であった久保縫殿介好武は、近郷一一か村の庄官となり、その居を海辺城跡(城の鼻)に構え高岸漁場を専有した。
 久保好武の祖久保伊予守高賓は、出雲国久保郷に生まれ、長じて南朝に奉仕し長慶天皇のために尽くした。その功で伊予国の守護に任せられ、一三六九(正平二十四)年、黒山城主となった。一五八六(天正十四)年、久保家コー代の城主好武は、豊臣秀吉のために開城させられたが、一五九四(文禄三)年、時の大洲城主であった藤堂和泉守高虎に見い出されて近郷一一村(高野川、上灘、高岸、大久保、串、今坊、石畳、麓、境、柳沢、満穂)の庄官となり、その館を海辺城跡に構えて代々村務を掌っていた。寛永年間(一六三〇年ごろ)分郷の上、諸村に庄屋を置いた。その当時、高岸村の庄屋となったのは久保治左衛門政氏である。その子好氏の孫宗武に相伝え庄屋として村務に当たっていた。宗武の実子伝十郎政直は、一七ヱハ(享保元)年春三月高岸村亀の森に分家した際、本家において専有としてきた高岸村の漁代を分家の権利として譲渡された。その後分家の二世伝十郎勝正から定兵衛勝昌に至るまでこれを継承し、独占権を有し維持経営してきた。他の漁業者がこの漁場において漁業をしようとする時は、必ず権利者の承諾を要し、また漁業の種類によっては漁獲高に応じ歩一(入漁料)として一割から三割を久保家に支払わねばならなかった。勝昌の末世に至り家政の紊乱を救済しようとしてその権利を上灘村富岡桃太郎に譲渡したがその権利のI〇分の一を保有し、祖先の遺産を継承していた。勝昌の実子安太郎がこれを承け父の遺業に従ってきたが、一八八九(明治二十二)年三月、高岸漁民にこの漁場の権利を譲渡した。この時もやはり、その権利の一〇分の一を久保家が保有していた。
 このようにして漁業法改正の一九〇一 (明治三十四)年までこの漁場専用の慣行が続けられた。

二 小網集落の始まり
 小網集落が形成されるようになるのは、慶長年間(一五九六~一六一四年)といわれている。このころ、灘浦(灘町)の住人が小網の地に仮小屋を作り、漁業に従事するようになった。享保年間(一七一六~一七三五年)ごろまでには他所からも移住してくる人が増加し、遠くは山口県大島郡安下庄から、また、この近在では松前、中島・怒和島あたりからも移住が行われ、小網集落が漁村として形づくられるようになった。
小網の地に仮小屋を作り、漁業に従事するようになった。享保年間(一七一六~一七三五年)ごろまでには他所からも移住してくる人が増加し、遠くは山口県大島郡安下庄から、また、この近在では松前、中島・怒和島あたりからも移住が行われ、小網集落が漁村として形づくられるようになった。

三 地びき網の発明と漁業集団の発生
 魚を獲るために地びき網が使用され、操業されるようになるのは、一七一六(享保元)年に小網の漁夫長左衛門が地びき網を発明し、使用し始めたのが最初である。この網を谷網(たにあみ)といい、網の名称を名付けた漁業集団が形成された。次にできた集団が一七六四(明和元)年に太郎平という人が製作した溶網(うねあみ)と称される網を中心とした集団である。最後にできた地びき網の集団が、後に新屋権衛門が作った新網(しんあみ)と称される集団で、それぞれが別々に操業をしていた。
 この地びき網漁に欠くことのできないものに、高所から漁群を発見して合図する山見というものがあった。これを考え出しだのは、一八六九(明治二)年九八歳まで存命した松本平吉であった。
その後三浦房吉、松本元五郎が引き継ぎ、明治・大正・昭和に至った。
 急俊な山岳が海岸に迫っている土地に限り通用した双海独特の漁獲方法である。

四 附近の様子
 一六三五(寛永十二)年、松山、大洲両藩の替地が実施された。このため従来松山領であった郡中地域が大洲領となった。
 大洲藩では、加子役徴用ため漁村をつくる必要に迫られ、小川町(現在伊予市湊町)に漁師町四丁一四間三尺一寸五分の地割をし漁民の入植を募ったが振わず、上灘村の四郎左衛門が移住して漁村を形成していった。
 一六三九(寛永十六)年、播磨国村坂越の与七郎が大洲藩に願い出て一六戸が集団移住し、青島漁村を開発した。昔からの言い伝えでは、坂越の漁民が大網を塔載して九州方面に出漁中無人島であったこの島に潮がかりした際好漁域であることを発見したともいわれ、また、当時までは大洲藩の藩馬飼育所で藩兵二名が常駐していたので、この藩兵を通じてともいわれている。青島の開発については島の眞宗寺過去帳からその後の移住や村落形成の過程を追跡することができる。坂越村からの最初の移民一六戸、大洲領からの移住者一一戸で、後日坂越村からの移民者六戸、大洲領から後日移住した者九戸、その他の地域からの移民一一戸の計五三戸で、あとの九〇戸はこれ等の移住者の分家であって、青島において最も繁栄した当時は一四三戸を数えた。

五 大洲、松山両藩の漁業紛争
 松山藩と大洲藩の替地が成立すると、松山藩松前漁民は従来の漁域として入漁していた郡中米湊附近の漁域を失う結果となった。更に大洲藩でも松前漁民の入漁を禁止したため松前漁民の入漁は密漁となった。
 一六三五(寛永十二)年、松平定行(久松家の祖)が松山一五万石城主としてこの地に封ぜられた。赴任前に実施された替地に不満を持っていた松平定行は、松前漁民の入漁に関し大洲藩の入漁禁止は不当であると譲らず、漁民同士の乱闘が遂に藩兵の出動という不穏の事態を作り上げた。この情報を受けた徳川幕府は、土佐藩主山内土佐守に和解の斡旋を依頼して、一七二四(享保九)年、紛争はようやく結末を告げた。

六 豊田の漁場
 安永年間(一七七二~八〇年)、戎井(辰雄)家の祖先賀六が戎井特別漁場と浄土特別漁場を開拓した。
 本漁場は、イワシ、タイ、ハマチの漁場に適することを認め兵庫県高砂に行き漁具の製造、使用等の伝習を受け熟練して帰郷し、地びき網を創案した。
 文化年間(一八〇四~一七年)、大洲藩主が参勤交替で入国の途中長浜港に到着されたとき、賀六が豊田集落漁業者を代表して慰労のため生ダイを献上した。藩主は大変満足し、郡奉行をとおして豊田集落漁民に対し地先水面陸地より約一四キロの専有を許可した。以来藩主代々参勤交替のとき、長浜港において生ダイを献上することが明治維新まで続けられた。
 豊田漁民はこの漁場を専有することとなり、他所からの侵漁は許さなかった。その後陸地より五キロ以外は入漁料を徴して漁業を許したので、他町村漁民や広島地方より入漁する者もあった。しかし、それ以内の漁場は大正時代まで集落当業者以外は決して操業させなかった。
 一八〇七(文化四)年、吉岡(清美)家の祖先兵蔵が戎井家と親戚であったので戎井浄土特別漁場を共有することとなり、以後両家の子孫が継続して隔日交替「亥の日元網(戎井)子の日上網(吉岡)」で地びき網の操業を昭和まで続けていた。
            
七 小網の乾海鼠(ほしなまこ)
 寛政のころ、小網の漁業者が乾海鼠の製造を開始し、大洲藩主に献上した。
 小網集落は往古より漁業をもって専業とし、明治末期ごろでは漁業で生活する家は百余戸を数えた。漁業を安定的に行うための漁場の専用については、この地域を治めていた大洲藩主が小網集落の住人小倉長左衛門の孝心を愛でられ「漁場を賜りし」に始まるという言い伝えがあるが、藩主が伊予灘を航行して参勤交代を行う際、特に漁船を美しく艤装して、漕船していたことに対して、漁場を専用する特権を受けていたことが始まりともいわれている。また一七八九(寛政元)年、乾海鼠の最優秀品を藩主に献上することで海鼠の漁場である地先水面を、沿岸より沖中国境に至るまで専用とすることについて認められたという。以来この海域は、ボラ・コノシロ漁等は当集落のすぐれた漁場となり、明治維新まで年々漁獲物の幾分かを藩主に献上していた。関係記録は一八八四(明治十七)年の津波のため家屋とともに流失して現存していないが、旧来の慣行を保持してこの漁場の専用は続けられた。大洲藩主許可の専用区域は慣行として一九一〇(明治三十四)年まで続いた。