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双海町誌

第三節 大正・昭和期の漁業

一 三豊巾着網創立
 一九一三(大正二)年、若松儀平、戎井春造等が主唱し、福本栄吉、山口銀次郎、山口相吉等が世話人となり、三机の奥村又三郎から鯛巾着網を購入し共同経営で操業を始めた。三机と豊田の頭文字を用い三豊巾着網と称し、株を募り栗田愛十郎等も経営に参加した。

二 安居島への五智網の入漁
 五智網とは、瀬戸内海で行われていたタイ手ぐり網のことである。
 一九一六(大正五)年、五智舟五、六隻が松島丸(鮮魚運搬船)に曳航され安居島漁場の鹿島沖に網を入れたが漁場を知らないため成果がなく安居島に入港した。当時、既に山口県安下庄の五智舟が通漁を続けており、その舟は四人乗りで操業していた。島民は三人乗りの豊田の舟をあなどり、タイを追い払いに来たかと嘲られたという。「もし通漁を望むなら動力船に曳航されて来ることは許さない。手押しで来い」と言われ、そのまま漁もなく帰路につき、途中由利島附近で操業しながら帰った。翌年ほぽ同数の舟が再び出漁したが、漁法技術の優秀さを示し、安下庄に劣らぬ漁獲成績を挙げたために島民から信望をかち得た。以後今日まで通漁を続けている。入漁料として当初は一隻当たり二円から三円を納めていたという。

三 動力船の誕生
 一九二九(昭和四)年、富貴の松下政一は林造船所で下灘最初の動力付漁船を建造した。
 宇和海においては早くから動力付漁船の建造が盛んで、特にイワシ巾着網は機動力で良い成績を挙げていた。小網では巾着網の引船に第二新栄丸(七・四トン、神戸の前田鉄工所製作の重油機関二五馬力)を、また一方第二旧栄丸(七・三トン)を神戸の日本発動機会社に発注し重油機関三五馬力を据え付け、両船共に一九二七(昭和二)年五月に就業した。
 一般小漁の舟についても、県下では動力付漁船の建造熱が盛んであった。松下は林造船所で二三尺三トンの漁船に松山の西谷守経営の鉄工所からエイチ(H)式電気着火六馬力の機関を据え付け、この舟でたこつぽ漁に従事した。続いて戎井頼太郎、若松六太郎等が従来の舟に、豊川住太郎・浜田石太郎等が新造船にそれぞれ久松式・小林式の機械を据え付け、以後一段と動力漁船に移行して漁業の近代化が推進された。

四 地びき網上網の共同経営
 一九二九(昭和四)年、吉岡猪三郎が個人経営していた地びき網上網か、磯田牧太郎(三株)、続谷勘十郎(二株)、続田辰太郎(二株)、吉岡猪三郎(一株)、吉岡丸吉(一株)、広田村総津中村(一株)の六人一〇株の共同経営となり、網に関する主な世話を磯田牧太郎が行った。

五 マイワシの大漁
 一九三五(昭和十)年は、上、下灘沖におびただしいマイワシの魚群が押し寄せてきた。この年の旧歴十一月十二日(初子さん)の夕方豊田沖(長田沖)で、船頭豊川住太郎が投網した地びき網は巧みに魚群を捕らえたが、あまりの多さに網を全部揚陸できず、網奥一車を海中に残したまま魚の採取をした。鮮魚の運搬に夜を徹し、心照庵の空地、長田の舟揚場や河村理髪店前にも積み上げた。この漁獲物の処分には、下関の林兼水産その他の運搬船が三日を要したと伝えられる。この量を伝える資料はないが、網子全員に一人当たり一五円を分配したという。その後マイワシの回流は約一年半続き巾着網でも漁獲を試みたが、魚群の動きが駿敏で大漁することはできなかった。
 この年、上灘旧網は通り穴海岸網代(国道三七八号小網旧道トンネル前)で、地びき網で魚群を捕らえた途端に魚が網を吹き上げ、沖の網と轆轤を引っ張られてしまった。辛うじて網は引きあげられた。当時林兼水産の運搬船が買い付けに来ていたが一夜にして積荷ができたので、日本全国どこへ行ってもこれほど早く積荷ができたところはないと、漁獲の多さに驚いたという。
 一九五八(昭和三十三)年八月のお盆過ぎ、保内町磯崎の夢永の岬の南西海域で共栄網一号は魚見たちの指示で網を投入し、環を巻き締めたところ、円周三〇〇メートルの円を描いている浮子の外側の網が約五〇センチくらい持ち上げられた。その様は、ガソリンで三〇〇メートルの円を描き、その一点に点火した時のような速さであった。マイワシ(中羽=体長が一〇~一五センチ程度のものをいう)が吐き出す泡と血で、網の内も外も色が変わってしまった。しかし、真網、逆網ともに三車(四五メートル)ずつ残して網を揚げることができず、やがて夢永の岬に流れかかり、網が破れ、一トンほどの漁獲に止まった。以後この逃した魚を上・下灘の四統と沖浦の計五統の巾着網が三机まで追いかけて連日漁をした。
 一九七八(昭和五十三)年、共栄網は中羽を約一五〇〇トン漁獲した。丸干しの原料として宇和島、高知、人分、島根などの加工業者が買い付けに来た。昭和五十四、五年はカタクチイワシに混じって獲れ、養殖の餌として川之江市(現 四国中央市)の業者に売ったが量は少なかった。昭和五十六年度は、約五〇〇〇万円の売上があった。昭和五十八年度は、カエリから小羽の漁獲があり、煮干しにして珍味加工の原料として高値で売れた。昭和六十二年度は、やや痩せた細目の大羽が約四〇〇〇トンで九七〇〇万円の売上があった。
 昭和六十三年度は、大羽で約四〇〇トンの漁獲があった。平成元年度は、約三〇〇〇トンで八八〇〇万円の売上があった。昭和六十三年度までは、ほとんど上・下灘沖で獲れたが、平成元年度は、伊予市、松前町、松山市の沿岸部で漁獲された。
 マイワシの資源には、二〇年周期説があるが、昭和十年、三十三年、五十三年から平成元年までと、この説の正しさが、今までのところ裏付けられている。

六 カタクチイワシの大漁
 一九八六(昭和六十二年、お盆休みを過ぎるとカタクチイワシのうち小羽(体長五、六センチ)が十一月末までほとんど休みなく獲れた。特に十一月にこれほど獲れたことはなかった。その結果、年間で煮干し製品が八〇〇トン余り、金額で六億八〇〇〇万円余りとなり、この数字はいまだ破られることがない。

七 豊田漁民の宇和海出漁
 一九三〇(昭和五)年、南宇和郡・宿毛湾で福栄丸が延縄漁業を始めた。以後、タイ延縄、建網漁業で通漁を続け、一九四〇(昭和十五)年まで行われた。通漁の時期は正月から春の節句ごろまであった。

八 網   代
 網代とは、魚族が常に来遊棲息して、漁場として常時採捕に好適な場所をいう。これらの網代では古くから地びき網が行われていた。
 双海地域の主な網代は前頁のとおり。
 そのほか沖合漁場として、専用漁場や許可漁場がある。

九 小網の共栄網
 小網の巾着網は、明治三十年代に従来の地びき網三統を基にして創設された巾着網(旧網)と和田伊三郎が有志を糾合して新しく編成した巾着網(新網)の二統が操業していた。
 昭和初期の小網漁業組合及び下灘・高野川漁業組合の概要は次 小網の旧網、新網の巾着網組織には、漁業権に大きな差があり、その後双方の間で権利の行使について紛争が絶えなかった。
太平洋戦争が始まると、集落内でのこのような争いは、戦時体制の下で推し進められた「挙国一致」の政策に反するという声が挙がった。そして集落の融和と将来の漁業発展のため、両者合併の気運がしだいに盛り上がった。この組織合併は、当時の愛媛県庁水産課の指導のもとに進められ、地元漁業組合役員等の熱意と尽力により、一九四三(昭和十八)年一月二十五日をもって旧網、新網が合併し新たに「共栄網」と名付けられた巾着網組織が誕生した。
 この組織は巾着網二統で一〇二株の一人一株制を採用した。太平洋戦争後の混乱期を過ぎると、漁業に従事する後継者が少なくなり、平成になって二統の操業は困難になった。一九九一 (平成三)年、一統をパッチ網に代えた。残った一統も二〇〇一 (平成十三)年以降は、少人数で操業が可能なパッチ網となり、巾着網の操業は休止中である。
○保有漁船数
 二〇〇四(平成十六)年四月現在、共栄網が保有する漁船は、以下のとおりである。
 巾着網大船 (一六トン)    二隻
 パッチ網船 (五トン)     一〇隻
 魚運搬船 (六~一〇トン)  五隻

一〇 高野川のボラ餌付漁業
 昭和十年ごろから四十年ごろにかけて、ボラ餌付漁業が行われた。船を固定し餌を撒いてはらを餌付けして、一本釣りをした。最盛期には二〇隻を数えた。餌は、麦糖と、蚕の蛹を混ぜて煮て作った。高野川の出口沖四〇〇メートル付近から西へ横一列に並んで、夏期に操業された。

一一 エビこぎの開始
 小網地区では、一八八七~一八九六(明治二十年代)に、エビこぎ漁が櫓こぎで行われていた。その後いつのころからかは定かではないが、底帆漁法でエビこぎ漁が行われるようになり、一九五五(昭和三十)年ごろまで続けられた。いずれも主に、六月から八月の大潮の期間を中心に、潮力を利用して操業した。
 一九三七(昭和十二)年ごろ、動力船によるエビこぎ漁が始められた。日中戦争が勃発し戦局が進展するに従い、物資欠乏のため燃油の使用が制限され操業が困難になり、その代用として木炭が使用され終戦後まで続いた。

一二 三豊巾着網と地びき網上網の合併
 大正の末期の危機を脱した三豊巾着網はその後盛衰を繰り返したが、この当時の巾着網の盛衰は煮干いりこ相場の変動や漁網等資材の購入、価格の変動及び経営手腕に起因するところが大きかった。三豊巾着網もしだいにその経営は困難になった。株主の間では日掛貯金をして資材購入費に充てたこともあった。一九三八(昭和十三)年、約一万円の赤字をかかえ悩んでいた。この時、網の主な責任者でもある栗田寿から赤字を含めたままでの無償譲渡の申込みがあった。一部株主の間には反対する者もあったが、大部分の者は破産一歩手前の三豊網に背を向けていたので容易に話は成立したのである。
 翌一九三九(昭和十四)年、栗田寿は、地びき網上網の株主との話合いを進め、栗田寿個人の三豊巾着網と六人一〇株の地びき網上網との対等合併が成立し、その名称も旧名である三豊網の名を踏襲して、巾着網と地びき網を共同経営するようになった。

一三 新巾着網の創立
 一九四七(昭和二十二)年、当時この海域には下灘豊田に一統、上灘小網に二統、青島、沖浦にそれぞれ一統ずつのイワシ巾着網があり、イワシの季節には豊漁を続けていた。食糧難の時代であり、いりこの需要は多くその値は高謄を続けた。この時、地びき網元網の網元戎井新太郎は、同じ浜に住む漁業者として傍観できず、網子の人をはじめ一般漁業者と相談して地びき網を改修し、巾着網を創設したのである。ここに地びき網元網は、約一六○年の歴史を閉じた。この網を新巾着網と名付けたが、通称従来の三豊網を旧網、新巾着網を新網と呼んだ。この網創設に当たり操業に従事する人も株に参加し、豊川与治衛門が中心となって奔走して広く村内外の有志に出資を懇望したので賛同する人も多く、有志株六六株を加えて総株数一八〇の株式組織として発足した。
 新網の定款は次のとおり。
   (原文)
  新巾着網の定款
     第一章 総 則
第一条 本組合ハ新巾着網組合と称ス
第二条 本組合の資本金ハ壱百八拾万円トス
第三条 本組合ハ漁獲ヲ以テ目的トス
第四条 本組合ノ事務所ヲ伊豫郡下灘村豊田戎井新太郎宅二置ク
   第二章 持 口
第五条 本組合ノロ数八百八拾口トシ壱口ノ金額壱万円トス
第六条 本組合ノ持口ハ記名式トシ持口券ハ壱万円券一種トス
第七条 本組合ノ持口ノ払込(本年八月拾七日迄トス
第八条 持口主ハ其ノ住所氏名及印鑑ヲ本組合事務所二届出ヅルモノトス
住所氏名及印鑑二変更ヲ生ジタル時又同ジ
第九条 本組合ノ持ロハ理事会ノ承認ヲ得ルニ非ザレバ之ヲ他二譲渡スルコトヲ得サルモノトス
第十条 譲渡ニヨリ本組合ノ持ロヲ取得シタル者、本組合所定ノ手続二従ヒ持口ノ名儀書換ヲ請求スルモノトス、相続二依り持口ヲ取得シタル者ハ其ノ原因ヲ証スル書面ヲ添付スルコト
   第三章 総会
第十一条 本組合ノ持口主総会ハ定時総会及臨時総会ノニ種トス、定時総会ハ毎年一月二日之ヲ招集シ臨時総会ハ理事会ノ決議ニ依り必要ト認メタル時之ヲ招集スルモノトス
第十二条 持口主ハ其ノ所有スル持口主壱人二付壱個ノ議決権ヲ有スルモノトス
第十三条 総会二直接出席スルコト能ハザル者ハ他ノ持主二議決権ノ行使ヲ委任スルコトヲ得ルモノトス、但シ代理人ハ代理ヲ証スル書面ヲ本組合二提出スルモノトス
第十四条 総会ノ議長ハ理事長之二当ル、理事長事故アルトキハ他ノ理事互選ニヨリ之ヲ代理トス
第十五条 総会ノ決議ハ出席シタル議決権ノ過半数以上ヲ以テ之ヲ為ス
第十六条 総会ノ議事二付テハ議事録ヲ作り議事経過及其ノ結果ヲ記載シ議長並議事録署名員弐名以上署名シ保存スルモノトス
   第四章 役員
第十七条 本組合二理事八名監事三名ヲ置クモノトス理事ノ任期ハ弐年監事ハ壱年トス、但シ再選ヲ妨ゲズ
第十八条 本組合ノ理事長及常務理事ハ理事内ヨリ互選スルモノトス
第十九条 理事ハ持口主ヨリ五名、引子連中ヨリ参名選任スルモノトス
監事ハ持口主ヨリ弐名、引子連中ヨリ壱名選任スルモノトス
第二十条 理事長八本組合ヲ代表シ業務一切ヲ統轄、理事ハ理事長ヲ補佐シ業務ヲ執行スルモノトス
第二十一条 理事会ハ理事ヲ以テ組織シ理事長、議長トナル、理事長事故アルトキハ常務理事之ヲ代理ス、理事会ノ議事ハ過半数以上ヲ以テ之ヲ決ス
第二十二条 本組合、理事会ノ決議二依り相談役ヲ置クコトヲ得
   第五章 会計
第二十三条 本組合ノ決算ハ漁獲期二於ケル総収入金ヨリ総支出金ヲ控除シタル金額ヲ利益金トシ左ノ割合二依り配分スルモノト
ス、但シ会計年度ハ毎年一月一日ヨリ始リ一二月三一日二終ル
一、積立金 若干
一、持口配当金 若干
第二十四条 持口配当金ハ毎年一二月現在ノ持主二之ヲ支払ウ
   第六章 定款変更及解散
第二十五条 定款ノ変更ヲ為スニハ総会二於テ議決権過半数以上ノ同意ヲ得ルニ非ザレバ之ヲ変更スルコトヲ得ズ
第二十六条 本組合、左ノ事由二依リテ解散ス
一、合併
一、破産
一、網全部ノ譲渡
第二十七条 本組合解散シタル時、理事ノ全員が清算人トナル
附則
本規程ハ昭和弐拾弐年八月拾弐日ヨリ之ヲ施行ス
  右確認ノ為メ各自署名捺印シ其ノ一本ヲ保存ス
  昭和弐拾弐年八月拾弐日

 しかし、従来の巾着網との摩擦があり、一九四七(昭和二十二)年十月二十五日、渡辺次男、二宮広光、北松好栄が立会して小網新栄網や旧栄網、三豊網との四者の問に協定を結び、この協定書に基づいて以後操業を行った。
 下灘新旧、上灘新旧巾着網四者で締結した協定書は次のとおり。

 (原文)
  協定書 漁業上の円満を保持し漁業増産を図るため下灘村新旧両巾着網及び上灘町小網新旧両巾着網の漁業関係者間に於て伊豫郡上灘町地先海面並びに下灘村地先海面に於ける鰛巾着網漁業の操業に関し左の通り協定する。但し呼称を便ならしむる為下灘村旧鰛巾着網漁業関係者を甲、下灘村新網巾着網漁業関係者を丁、上灘町小網旧鰛巾着網漁業関係者を乙、上灘町小網新網巾着網漁業関係者を丙と称す。
 一、下灘村地先海面、漁業区域を次の三区に区分する。但し第一区と第二区との境界は基点より大水無瀬島東端、第二区と第三区との境界は基点より青島東端見通し線とす。
  第一区 上灘町下灘村両町村の境界(基点より大水無瀬島見通線より富岡橋の東端に至る問)
  第二区 富岡橋東端よりマド石に至る間
  第三区 マド石より喜多郡界に至る間
 二、下灘村地先海面に於ける操業順位は次の通りとする。
 (イ) 甲は毎日各区の中何れかの一区に於いて一番網を行使する。
 (ロ) 甲の選びたる一区の二番網は偶数の日にありては丁が行使し奇数の日にありては乙丙が各々行使する。
 (ハ) 甲の選びたる一区以外の区の一番網は偶数の日にありては丁が奇数の日にありては乙、丙が各々これを選びて行使する。
 (ニ) 前項により丁または乙丙の選びたる区の二番網は甲が之を行使する。
 (ホ) 前各項以外の区及び午後の操業は各漁区到着の順により輪番とする。
 三、上灘町地先海面を次の二区に区分する。
  第一区 下灘村上灘町境界より瓦ヶ谷突堤に至る間
  第二区 瓦ヶ谷突堤より通り穴に至る間但し第一区と第二区との境界は基点より大水無島東端見通線とし第二区と高野川地先との境界は基点より小泊島見通し線とする。
 四、上灘町地先海面に於ける操業の順位を次のとおりとする。
 (イ) 乙、丙は毎日各区の一番及二番網を行使する。
 (ロ) 甲は何れかの一区に於いて三番網を行使する。
 (ハ) 丁は甲の選びたる一区以外の一区に於いて三番網を行使する。
 (ニ) 前各項による操業の外は各漁区到着の順により輪番に操業する。
 五、本協定に於いて定めたる操業の順位は各々同一漁区に於いて操業せんとし且各々が同一漁区に在る場合に限るものにして漁区を異にする場合は此の限りでない。
 右の通り協定したることを証する為、各関係代表者に於いて署名捺印し甲、乙、丙、丁各壱通を所持するものなり
昭和二二年一〇月二五日
     甲代表者   栗田 忠度
     乙代表者   福岡 一郎
     丙代表者   福岡孫次郎
     丁代表者   戎井新太郎
     立会人    渡辺 次夫
            二宮 廣光
            北松 好栄


一四 小型機船船びき網漁業と共栄網の紛争
 伊予市と松前町には、昔からシラス(別名チリメン)びきの地びき網があった。昭和四十年代になって、愛媛県漁業調整委員会は、いわし機船船びき網(パッチ網)を認可した。最初は各漁協の地先の共同漁業権内での操業であった。ちなみに、伊予市、松前町は沖合一五〇〇メートル、双海町は一000メートルであった。それがいつの間にか三〇〇〇メートルまでに延長され、一九八六(昭和六十二年八月まで続いた。
 同年九月一日から伊予灘における小型機船船びき網の操業区域が大幅に見直された。
 これらすべては既得権者である共栄網には連絡もなく決定されてしまった。このことが、やがて伊予灘における共栄網のカタクチイワシの漁獲量や他の漁船漁業にも重大な影響を及ぼす結果となった。
 改正後、共栄網は直ちに取消しを求め地方局や県水産課、漁業調整委員会たちに陳情したが認められず、一九九〇(平成二)年、改正後の三年間の実績を示し窮状を訴えたところ、巾着網の許可一統分を県に返納する代わりにいわし機船船びき網の許可を四統分認可してもらい、平成三年からシラス漁を始めた。しかし、このことはイワシをはじめ全ての稚魚の乱獲につながり、その上食物連鎖の形態を破壊して、現在、伊予灘における魚類の減少の最大の要因であると考えられている。


一五 共栄網大船(網船)の変革
 一九五八(昭和三十三)年六月、共栄網は灘町の池田・井窪両造船所にて約一〇トンの大船二隻を総額一七三万二五〇〇円で造った。これが最後の木造大船となった。
 更に、一九六〇(昭和三十五)年、尾道市向島の神原造船所で鋼船一〇・五トンニ隻を建造した。船体のみで一八〇万円であった。
 一九七九(昭和五十四)年七月には、プラスチックで大船を造る相談をした。近県には小型船(五トン)の造船実績しかないため、三重県長島町の二〇トン型のまき網船に試乗し、大丈夫との確信を得て、名古屋市の港造船所に二隻発注した。一九・九トン、船体のみ一隻当たり一六二五万円であった。
 この時、漁網の巻上げ器ボールローラーを設置したので、網引きの労力が著しく軽減され省力化された。


一六 生産者によるエビ加工
 上灘漁協内の底びき網漁は、夏期の小エビ主体の漁が続いてきた。そのほとんどが干エビ(ボイルして乾燥したもの。その皮を棒でたたいて剥いたものはたたきエビと称した)に加工されていた。
 その後、小エビの用途が多様化し、干エビに加え剥きエビ(生のまま皮を剥く、又はボイルして皮を剥く)、三~五センチ以下のものは生のまま出荷され、煎餅等に加工された。しかし、こうした需要の増大にもかかわらず、価格が上昇しないことに不満を持った底びき網漁業者たちは、自らも加工すべく生産者組合を作り加工事業に踏み切った。昭和三十年代の終わりごろ、上灘海老加工組合(丸上)を設立した。
 その後、昭和四十八年ごろ、丸上の運営に不満を持つ組合員が、別に海老加工組合(丸双)を設立した。しかし、その後価格の高い魚類を重点的に獲る底引網が導入され、加工用小エビの漁獲はほとんどなく、両加工場とも操業を停止した。


一七 巾着網のアミラン化
魚網は、ラミーのものも見られたが、もともと木綿製が主であった。その品質の維持には大変な苦労があった。年に一回は渋染めし、操業の翌日は浜に揚げて天日干しをし、網の腐敗防止に努めた。上灘には一統分の干場しかなく、もう一統分は伊予市尾崎の浜に干した。
 一九五三(昭和二十八)年、共栄網は当時売り出し中の合成繊維(アミラン)の魚網を購入した。中型まき網一統分の網と糸代で三一〇万六六九五円、浮子、ロープ等で五〇万円であった。予想以上の高成果が認められ、翌昭和二十九年には残る一統の網も予算五五〇万円でアミランに替えた。その結果、昭和二十九年度は空前の大漁となり、網子一人当たり一八〇桶(一桶約六〇キロ)の配当があった。この後、他の地区の巾着網もアミランに替わっていった。他の魚種においても、順次化学繊維の網となり、それぞれに好漁獲を得た。

一八 スズキの大漁
 一九五八(昭和三十三)年八月七日(月遅れの七夕祭り)、共栄網は網ゆすぎ(早朝に網を使用しないときは、前日網目に刺したり、付着したイワシを振るい落として網の掃除)のため、高野川の大突堤沖で網を入れたところ、想像もしなかった三~四キロ級のスズキが約一〇〇〇匹も獲れた。当時の鮮魚店二軒の竹生簀を全部借り、五〇~六〇匹ずつ入れて上灘港まで曳航して帰った。

特別漁場 魚見小屋(山見小屋)の所在地

特別漁場 魚見小屋(山見小屋)の所在地


昭和前期の漁業一覧(昭和七年末現在)

昭和前期の漁業一覧(昭和七年末現在)


小網共栄網の歴代会長

小網共栄網の歴代会長


年度別煮干し取扱実績表

年度別煮干し取扱実績表