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双海町誌

第一節 概要

 江戸時代初期の寛永年間(一六二四~四三)、灘町を中心に船を持つものがいたという記録が残っていることから、藩政時代から海運による商活動が発達していたことがうかがえる。
 また、郡中・三津・長浜等との間に早くから航路が開け、藩政時代に入ると広島・阪神方面との商取引も盛んになっていった。幕藩体制が確立して世の中が落ち着いてくると、江戸・上方問の物資の往来が爆発的に増大し、上方と地方との時間的距離も急速に縮まっていった。
 このような状況下にあって大洲藩は、灘町に様々な役所を置き、物資の集散地として発展させる方策を取ったため、しだいに人の出入りが激しくなっていった。上方から直接仕入れた目新しい品物が店頭に飾られて、人々の購買意欲を誘った。穀物や材木・薪炭・紙類・生ろうなどの問屋が人々を呼び、行商人が奥地へ足しげく通っていた。
 一方、大栄口・高野川・高岸などの道端には茶屋ができ、駄菓子・豆腐・わらじ、更には一品料理なども並べて人々の足をとめていた。
 こうした賑わいは、江戸時代の中期ごろから明治・大正時代にまで及んだ。上灘に五軒、下灘に三軒の旅館があったことなども、当時の繁栄を物語る例といえよう。
 明治に入って藩が廃止され、灘町や豊田に設置されていた役所は撤去された。それによって、大阪をはじめ大都市との物資の交流も途絶えてしまった。双海地域の商業は、単に地域の人々の消費生活を支えるだけになってしまったのである。
 左の表は、一九一五(大正四)年ごろの双海地域の商業の状況を表したものである。
 宿屋業・回漕業などは残っているものの、おおむねこの問の時勢の変化を示しているといえる。このような状況は、現在まで続いてきた。
 昨今の本町の商業には、更に新たな課題が投げかけられている。近年の道路交通網の整備とモータリゼーションの進展により、町内の人々は地元の商店で求めていた消費物資の多くを町外の大型店で購入するようになった。加えて、高度経済成長期以来の人口減少によって購買力そのものが減退していった。
 本町の工業は、他の産業と比較すると常に低い位置に甘んじてきた。例えば、一九六九(昭和四十四)年の町内総生産二六億円のなかで工業の占める割合は、わずか一・パーセントであり、その内訳も製造業一、酒造業一、造船業三、縫製業二、水産加工業四、その他が五と数も少なく、地場産業の域を出ていなかった。また企業従業者の規模からみても、二〇人未満の事業所がほとんどで、五〇人以上の規模の企業は一つもなかった。
 この傾向は現在も続いているが、二〇〇〇(平成十二)年の町内総生産(一二七億円)における製造業の割合をみると、五・七パーセントとやや高くなっているのが分かる。これは、近年新たに、農産物・魚介類・肉類などの食品加工に従事する企業が増えたためとみられる。しかしながら、これらのほとんどは、伊予市・松前町・松山市のスーパーマーケット関連の企業などであるため、十分な基盤を持っているとはいえないのが現状である。
 なお、高度経済成長期以降、本町においても既存の工業の育成・強化とともに企業誘致の促進を模索してきたが、自然条件をはじめとする立地条件の制約から実現には至らなかった。


双海地域の商業の状況(大正四年ごろ)

双海地域の商業の状況(大正四年ごろ)