データベース『えひめの記憶』
双海町誌
第一節 沿革・概要
一 近代教育の創始
一八七二(明治五)年八月、学制が発布され、小学校における教育方法の基本方針が明らかにされた。しかし、七年後の明治十二年に学制は廃止され、新しい教育令をみることになる。明治十年代の初めは、国民生活や思想の転換期であった。
この教育令も批判を呼び、明治十三年十二月、教育令が改正された。これは文明開化に対する厳しい批判や徳育を重視しようとする時代の情勢を反映したものと考えられる。
二 教育制度基本計画
一八八五(明治十八)年、太政官が廃止され、初めて内閣及び各省を置き、第一次伊藤内閣が成立した。文部大臣に森有礼が就任し、我が国の学校制度の基礎を築いた。その基本方針は教育令とは異なり、学校種別ごとに学校令を定めるものであった。
翌明治十九年、小学校令及びこれに基づく施行規程の要点は、左のようであった。
・小学校を尋常・高等の二段階に分けた。
・義務教育年限三か年を、四か年に延長した。
明治二十三年十月、先の小学校令の不備を補い、市町村制と小学校の教育行政義務とを適合させるために、「小学校令」が改めて公布された。
この年の十月三十日に明治天皇は「教育二関スル勅語」を下賜され、国教育の根本方針が確立した。
このころ、青年教育に関する問題も生じ、明治二十六年、実業補習学校の創立、併せて各種の社会教化団体が起こった。また、各地区に「若者組」などの青年集団や「若者宿」といった施設がつくられ、青年会や処女会が活動した。
三 近代教育制度
明治三十年代に入ると、学齢児童の就学率は大いに向上した。ちなみに一八九七(明治三十)年には六七パーセントであった就学率は、明治三十三年には八〇パーセントに上昇、明治三十五年に至って九〇パーセントにまで達したのだった。
国民の近代的自覚は、各方面の事業に画期的に進展した。一九〇〇(明治三十三)年八月、小学校令の改正が行われた。この小学校令及び施行規則の特色は、
・尋常小学校の修業年限、つまり義務教育期間を四か年に定めた。
・尋常小学校の就学に対しては、授業料を徴収しないこととした。
・学科目を整理し、力を必須の科目に集中させ、なかでも読書・作文・習字と称したものを国語とし、三者互いに関連させて教授上の能率を上げることとした。などがあげられる。形式よりも内容実質を重んじたこの改正は、実効を上げ、就学及び出席率が全国的に急速に高まった。
明治四十年三月二十一日、勅令をもって尋常小学校の修業年限を延長して六か年と改め、義務制とした。これは翌明治四十一年から実施された。
また、青年教育も、青年の自発的な愛国運動によって社会から高く評価された。
四 教育制度の拡充
一九一六(大正五)年十月、文部大臣に岡田良平が就任すると同時に、第一次世界大戦によってもたらされた社会の変化に即した学校教育の改革の機運が燃え上がり、教育制度は一段と拡充された。その要点は、高等小学校を実務生活との関連に基づく完成教育として意図された、独特の体制のものとすることであった。大正十五年、青年訓練所の創設とともに社会教育も一段と進展した。
五 戦時下の教育
一九三一 (昭和六)年の満州事変以後、教育は著しく異なった方策によって運営されることになる。そして昭和十二年、日中戦争に入り戦時下の教育が明示された。教育制度のなかに皇国民の育成を期して小学校を国民学校と改め、初等科を六年、高等科を二年とし、八年間の義務教育とした。教育方法も国民学校における基礎練成の確立、実践鍛練、団体訓練などが重視されるようになった。
一方、青年団も国全体の動きとなり、大日本連合青年団が設立された。また、それまで男子中心であった青年団活動が、急に重視されるようになった。昭和十年四月、青年学校が設立され、昭和十四年には義務制となった。
六 戦後の新教育
一九四五(昭和二十)年九月十五日、文部省は「新日本建設の基本方針」を発表。終戦後の新しい事態に即して、教育の向かうべき方向を明らかにし、戦時教育体制を一掃して平常の教科教授に復帰させる努力を続けたが、連合国軍総司令部は十月二十二日、「日本教育制度に対する管理政策」を指示した。また、第一次米国教育使節団の報告書、教育刷新審議会の方策、教育基本法、学校教育法の成立を見た。
昭和二十二年四月、学制改革(六・三・三・四制)の実施となり、国民学校は小学校となって六年間、新しく中学校が各市町村に設立されて三年間、計九年間が義務教育となった。また、旧中学校が高等学校になった。この年、教育課程に関して国が示す基準「学習指導要領」が試案として発行された。その学習指導要領は、昭和二十四年に全面改訂され、その後も約一〇年おきくらいに必要に応じて部分的、あるいは全面的に改訂されていくことになる。
七 昭和三十年~昭和五十年ごろの教育
一九五六(昭和三十一)年九月、小・中・高校を対象にした全国一斉学力テストが、児童生徒の学力の向上と、指導法の改善や教育条件の整備などに役立てることを狙いとして実施された。
初年度の昭和三十一年度は、県下小・中・高校のなかから何校かを抽出して実施されたが、昭和三十六年度からはほとんどの学校で実施されるようになった。
県下の教員が学力向上を目指して取り組んだ結果、成績は年を追って向上していった。昭和三十八年に全国で二位(一位香川)になり、そして翌昭和三十九年、ついに愛媛県が全国一位となった。
一九五八(昭和三十三)年の「小学校学習指導要領」改訂で、道徳の時間を特設し、道徳教育を徹底して行うようになった。その後は一九六八(昭和四十三)年、一九七七(昭和五十二)年、一九八九(平成元)年、一九九八(平成十)年と、一〇年ごとに時代の要請に応じて改訂されている。
中学校・高等学校においても、小学校に準じて「学校指導要領」の改訂が行われた。
一九六五(昭和四十)年ごろから国の経済は大きく成長したが、これに比例するように、子どもの非行も増加した。これは、集団化・遊び型・低年齢化等の形をとり、内容的には、窃盗・万引き・シンナー遊び・いじめ・不登校・校内暴力・家庭内暴力が教育界の大きな問題となった。その要因・背景として、次のことを指摘している。
・我が国の著しい経済発展は、教育の量的拡大をもたらすとともに、学歴偏重の社会的風潮を一層助長した。
・教育の量の拡大により、画一性の弊害が現れてきた。
・教師の意識、指導体制などの諸要因による学校における徳育が十分な成果をあげていない。
・親の養育態度や過保護、あるいは放任の傾向が強まり、乳幼児における子育ての方針が混迷しがちである。
・父親の影響力の不足、しつけの不足など、家庭における教育機能が低下している。
教育の荒廃の原因は、以上のようなことが関係し、絡んでいることから、文部省は子どもにゆとりを持たせることが必要だとして、「ゆとりの時間」を設けた。
一九七七(昭和五十二)年に文部省は「ゆとり」の重視を通達した。
八 昭和六十年~平成の教育
文部省は、一九八七(昭和六十二)年に第三次最終答申を行い、個性重視、生涯学習体系への移行、社会の変化への対応等を打ち出した。
また、平成元年には、小学一・二年生の理科と社会科を統合して「生活科」を設けた。生活の体験不足が話題になっていた時期である。
更に、教育の場を学校だけととらえず、広く地域社会で多様な体験をさせることが大切と考え、平成四年九月から、毎月第二土曜日を休業日とする学校週五日制が導入された。導入に当たっては、「学力が低下する、非行が増加する、第二土曜日の学習が他の曜日にまわされて子どもの学習負担が増える、地域での受け皿ができていない」などが問題となった。しかし文部省は、実験校を指定して試行錯誤を繰り返した結果、現行の指導内容を変更することなく、月二回の土曜休業は可能だとして、平成七年から月二回の学校週五日制を実施した。そして平成十四年、完全学校週五日制を導入した。
また総合的な学習は、平成十二年・平成十三年の二年間の移行期間を経て、完全に実施するようになった。総合的な学習とは、各学校や学年ごとに子どもたち自身が調べて学ぶ学習のことをいう。パソコン・英会話・福祉・環境・郷土学習・人権・同和教育など、調べたことをみんなの前で発表するのである。ちなみに下灘小学校では、全校を縦割りにして八つの班をつくり、「下灘のよさを見つけよう!」と、郷土学習に取り組んだ。また平成十五年・平成十六年には、町内の各学校が、学年でテーマを決めて総合的な学習に取り組んだ。
二十一世紀の社会は、不透明な時代といわれ、高齢化が急速に進むなか、国際化・情報化が進行していくと考えられる。また、少子化も社会問題となっており、実際、本町の児童・生徒も減少している。これからの教育は、このような社会の変化に柔軟に対応できる能力を育てることが重要だと考える。