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双海町誌

第一四節 人権教育

一 概   要
 私たちは、だれもが健康で幸せな暮らしを望んでいる。やりがいのある仕事に就き、精一杯働き、豊かで楽しい生活を送りたいとの共通の願いがある。そのためには一人ひとりが、人間として大切にされる世の中でなければならない。日本国憲法には、国民の侵すことのできない永久の権利が次のように定められている。
・憲法第一三条
 すべての国民は個人として尊重される。生命・自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り。立法その他国政の上で、最大の尊重を必要とする。

 この憲法の精神に反する同和問題が、その人権を侵す最たるものである。今なお同和問題にかかわる差別事件が後を絶たない。差別や偏見がもたらす、侵すことのできない人間としての基本的人権が、保障されていない実態がある。では、なぜ同和問題が生まれたか。一九六五(昭和四十)年八月の同和対策審議会の答申で述べられているように、同和問題とは日本の歴史的発展の過程のなかで、幕府の安泰を築くために身分階層をつくり、そのうえ身分による差別支配制度を悪用したのが始まりである。これをもとに身分差別を強化し、社会的にも経済的にも文化的にも、その差を大きくするように仕向けて行った。このことが基本的人権を侵すものであり、人間として保障されるべき市民的権利と自由を完全に阻害することとなった。
 市民的権利と自由とは、職業を選ぶ自由、教育を受ける権利、居住及び移転の自由、結婚の自由、である。このような市民的権利と自由が保障されていない同和問題は、今なお全国民の課題として取り組まれている。
 本町にあっては、一九七二(昭和四十七)年三月、双海町同和教育推進協議会を発足し、全住民が人権の大切さを尊重するとともに、人間として生まれてよかったと喜び合え、生きがいのある明るく住み良いまちづくりを目指して、学習活動や人権思想の啓発に力を注いだ。住民総ぐるみの組織力が効果をあげ、今では町内の三六の団体が積極的に参加をしている。
 一九六九(昭和四十四)年に制定された同和対策事業特別措置法以降、その人権教育の一つである同和教育を、とりたてて同和対策の一環として進めてきた。しかし、その法律が切れたため、一般対策へ移行することになった。国は、同和教育等を進めていく施策を「人権擁護施策推進法」という法律で対応することにした。それは、「人権教育の推進という施策の中で同和教育を進めていく」こととなり、二〇〇二(平成十四)年五月に、「同和教育」から「人権・同和教育」と教育内容を充実した。平成一五年には双海町人権教育協議会と名称も変更した。


二 双海町人権・同和教育基本方針
 一九七三(昭和四十八)年に策定された「愛媛県同和教育基本方針」に基づき、学校、家庭、地域の連携と関係機関及び諸団体との協力のもと推進してきた。その取り組みの経緯のなかで、二〇〇二(平成十四)年三月、「地域改善対策特定事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律」が期限切れとなり同和問題の解決に向けた特別対策は終了した。しかし、今なお様々な差別や偏見が根強く存在しており、少子化、核家族化、高齢化等の進展に伴い新たな人権に関する課題も見られるようになってきた。このようななかで町民一人ひとりが自己の生活課題としてとらえ、新しい時代認識において一般対策のなかで創意工夫しながら学習活動、啓発活動を推進している。


三 双海町同和教育推進地域並びに研究指定校の取り組み
 一九七六(昭和五十一)年から二年間、本町は文部省同和教育研究指定校を受け、研究を深めることとなった。更に一年後、社会同和教育の一環として二年間、文部省同和教育推進地域指定の事業に取り組むこととなり、学校と地域社会が一体となって同和教育の推進に取り組んだ。「みんなと手をつなぎ喜んで学びあう学習集団の育成はどうあるべきか」を研究主題に、町民総ぐるみで同和教育の推進を果たした。
 本町の過去の取り組みが高く評価されていたこともあり、発表時には県下はいうに及ばず、遠くは西日本各地から四〇〇名を上回る指導者が来町した。特にこの二年間深めてきた「差別をしない、差別に負けない、差別を許さない」子どもたちの育成と、保護者の取り組みの成果は好評を博した。


四 明日をひらく茜雲~ふれあいふたみ人権集会~
 一九九四(平成六)年十一月、町内の各保育園、小・中学校、町内三六団体の参加協力により、由並小学校を会場に五〇〇余人が一堂に会して第一回「明日をひらく茜雲ふれあいふたみ人権集会」が開催された。
 集会では、中学生による人権創作劇や、双海町民で結成された劇団「海」による人権をテーマにした創作劇が演じられ、互いを理解し、尊重し、認め合うことの大切さを強く訴えかけるものとなった。
 一九七六(昭和五十一)年に文部省同和教育研究指定を受けて以来、小・中学校を年次巡回する町指定同和教育研究校を定め、授業研究主体の発表会を行ってきた。そして一六年間継続したこの指定研究大会に終止符を打ち、町民総ぐるみの大会へと内容を一新したのが、この「明日をひらく茜雲ふれあいふたみ人権集会」である。同和問題をはじめとするすべての人権問題を基調に、いっさいの差別を解消し、明るい二十一世紀を築くための人権思想の普及徹底に、大きく門戸が開かれた集会へと進展した。


五 ふれあい懇談会
 一九七七(昭和五十二)年、同和教育を公民館活動に位置づけ、三六の自治公民館の館長を推進委員に委嘱した。館長は地域での啓発運動の主役となり、人権問題の中心的役割を果たすこととなった。また、公民館を人権問題解決の拠点として学習体制が整えられていった。
 こうして公民館で同和問題を学習し二〇年が経過したとき、教育機器を使用した「訴える学習」に改善しようとすると、住民に「またか」というような反応が表面化した。そこで隣組単位の草の根懇談学習に切り替えた。二〇班の班編成を行い、行政管理職を班長に学校教職員全員が推進指導班を結成し、隣組長宅を会場として訪宅学習懇談を実施した。冬はこたつ懇談形式の細分化した話し合いを行うなどして、住民の多くが参加できる態勢をとった。


六 同和教育啓発資料の発刊
 一九八一 (昭和五十六)年から同和教育の一環として、機関紙「なだのひかり」を発刊して各家庭への配布を実施。現在も継続して行われている。また、本町が毎月発行する広報紙「ふたみ」に、昭和五十八年四月号から同和教育紙上講座の欄を設け、人権に関する資料として、届ける教育の啓発活動に努めている。

七 同和教育指導書の発刊
 学校教育、社会教育、家庭教育が連携し、一丸となって取り組んできた同和教育。その三〇有余年の歩みの中でも、真っ向から挑んだのが、一九九二(平成四)年の「ふれあいふたみ」号である。同書は、「私たちのための課題解決の手引書」として作成した。「いつでも、どこでも誰もが差別を許さない、差別に負けない」町民総ぐるみの同和問題学習を、日常生活に根づかせることを目的に発刊した。


八 双海町同和教育啓発事業の変遷
 県下各市町村において、同和教育推進のための組織づくりがなされているとき、本町においても一九七一(昭和四十六)年五月、結成準備会がもたれた。そして、同和問題解決のための教育のあり方について審議した。
 当時の住民の考え方には、まだまだ厳しいものがあり、自然解消を願う声が強く、消極的態度は免れなかった。
 しかし、由並小学校の喜安隆教頭の指導もあって、数回にわたる準備委員会をもつことができ、組織体制の確立が図れた。
 協議会結成後の二か年間は、運動団体の意見を反映しながら、「同和問題を正しく理解し、心の変容を図るためにはどのようにすればよいか」を研究主題として、調査研究を重ね、指導者の育成に主力を注いだ。

双海町人権・同和教育推進組織体制

双海町人権・同和教育推進組織体制


双海町同和教育啓発事業の変遷 1

双海町同和教育啓発事業の変遷 1


双海町同和教育啓発事業の変遷 2

双海町同和教育啓発事業の変遷 2


双海町同和教育啓発事業の変遷 3

双海町同和教育啓発事業の変遷 3