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双海町誌

第四節 文化遺産

 文化財とは祖先の残した文化的遺産であり、私たちの生活の歴史を語る貴重な資料である。したがって、国は法律により、県や市町村では条例で指定し保護している。
 文化財保護法(昭和二十五年制定)により、次のように分類されている。

 有形文化財
 建築物・絵画・彫刻・工芸品・書跡・典籍・古文書などの有形で歴史上又は芸術上価値の高いもの並びに考古学資料及びその他学術上価値の高い歴史資料をいう。

 無形文化財
 演劇・音楽・工芸技術など無形で歴史及び芸術上価値の高いものをいう。

 民俗文化財
 衣食住・生業・信仰・年中行事などについての風俗や慣習及び民俗芸能など生活の移り変わりを知るために必要なもので、形のないものを「無形民俗文化財」、それに関する道具などの「有形民俗文化財」がある。

 記 念 物
 学術上、鑑賞上価値の高い、貝塚・古墳・城跡・旧宅などの史跡。庭園・峡谷・湖沼・山岳などの名勝並びに動植物及び地質鉱物で学術上価値の高いものをいう。

 伝統的建造物群
 周囲の環境と一体をなして歴史的風致を形成している伝統的な建造物群で価値の高いものをいう。

 埋蔵文化財
 土地や水底に埋もれている考古学資料をいう。


一 指定文化財
(1) 県指定文化財
オガタマノキ(昭和六十三年四月十九日指定)
 高野川神社の四方を囲む四本の巨木である。根回りが六〇〇センチあり、目通り二八七センチ、樹高約二三メートルの県下屈指の巨木である。
 モクレン科の常緑喬木で、主に西日本に自生している神木である。和名は「招霊木」又は「小賀玉」ともいう。ご神前に供え、ご神霊を招き祈る(招待)ことからオガタマノキといわれる。春は白色の芳香高い花が咲き、新梢はミカドアゲハ蝶が生食し繁殖する食樹でもある。
 古来から神社に植えられた神木で、巫女の手甲の鈴はこの木の実を模したとされる。

(2) 町指定文化財
三島神社の二重門(昭和五十年三月一日指定)
 本郷の三島神社にある建造物である。これは江戸後期の重門造で華麗優美な元禄文化の影響を受けている。特徴としては、扇垂木とその組み方、更に多くの蛙股が用いられていることである。面積は一六・五平方メートルあり、均斉のとれた二階建て一二脚門である。
 建造者は内子大工長尾幸之進で、一八三二(天保三)年から天保十二年八月の棟上げまで九年の歳月を要した。

岡の獅子舞(昭和五十年三月一日指定)
 岡の獅子舞は江戸中期に中山町佐礼谷地区より伝えられたとされる。構成は、獅子(二人)、狩人(一人)、猿(一人)、狐(二人)、お爺(一人)の七人で演技され、雄獅子の勇壮活発な舞が特長である。
 毎年三島神社の秋の大祭(十月二十三日)の際に、五穀豊穣、悪魔払いの舞を奉納している。
近年まで、岡地区の獅子舞のみとなっていたが、かつては神輿の宮出しと宮入りのときに、三島地区の獅子と共演したといわれている。太平洋戦争前後の約三十数年間は中断していたが、岡地区の有志により一九七〇(昭和四十五)年に復活した。現在は休止中である。

池ノ久保土山地蔵の石垣(昭和五十年三月一日指定)
 池之窪にある土山地蔵の石垣は、全長一六・一八メートル、幅六〇センチ、高さ一三五センチのコの字型で莫大な数の浜石で構築されている。
 そもそも土山地蔵は一四一六(応永二十三)年に、滝山城主久保式部入道道春が、郷土鎮護の目的で西光寺と共に建立したものである。その後、一七一八(享保三)年に肥後の国の領主が参勤交代でこの沖を通過する際に、暴風雨に遭い救難祈願が達成された。その願ほどきのため、お堂を守る石垣を住民の協力により約二・五キロ離れた城妬の浜から手操りで浜石を運んで築かせたと伝えられている。

下浜の五重塔(昭和六十年三月一日指定)
 下浜にある花崗岩づくり、高さ六八三センチの五重塔で、災厄を除くものとして地域住民に古くから信仰されてきたものである。一七三二(享保十七)年に西日本を襲った大飢饉の犠牲者を供養するために、三宝戒を奉る佛弟子(曹)と名乗る修行者が浄財を募って建立したとされる。この塔には釈迦如来の尊像を安置し、その下には多くの小石に大乗妙典全文の写経が収められている。

本村の五輪塔(昭和六十年三月一日指定)
 本村の丘陵斜面を削平した墓地に建てられた高さ一四六・五センチと一三六センチの花崗岩づくりの塔である。扁平な緑泥片岩を方形に積み上げた台座の上に設置され、空輪は上へ突き出て、火輪四方の隅のそりは、江戸時代初期の素朴な落ち着きを表現している。一基は宝珠が破損しているが、もう一基は完全に保存されており、町内でも価値の高い石造物である。

正法寺の陣太鼓(昭和六十年三月一日指定)
 本谷にある正法寺の権現堂に保存されている陣太鼓である。太鼓は直径六二センチ、長さ五四センチの円筒形をなす締太鼓で、鼓動が遠方へ響くようにつくられている。更に、胴は桐材をくりぬいてあり、戦場へ持ち運ぶのに軽便な牛皮製である。『上灘村郷土誌』によると一六○二(慶長七)年七月十五日の使用と刻字があり、海辺城主藤堂良勝が陣太鼓として使用したといわれている。

板 碑(昭和六十年三月一日指定)
 高野川にあり、緑泥変岩の自然石を使い、高さ一二四センチ、幅五八・五センチの板碑である。一七五〇(寛延三)年五月に建てられたもので、町内の板碑では最古のものと思われる。板碑には「奉納一字石之塔」と刻まれ、何のための供養で建てられたかは不明である。
 石積みの敷地は、約八・四平方メートルあり、五輪の塔やお室がある。

翠小学校のギンモクセイ(昭和六十年三月一日指定)
 翠小学校校庭にあるギンモクセイは、一八七四(明治七)年一月に創立の記念樹として植栽されたものといわれている。根回りは二五四センチ、樹高一〇メートル、枝張り一五メートルあり、秋には白い花を付け、ギンモクセイ特有の甘い香りを漂わせている。
 教育的かつ歴史的見地、更には樹の雄大さからも価値のある巨木である。

三島神社のシイノキ群(昭和六十年三月一日指定)
 本郷の三島神社境内に自生しているシイノキである。境内の自然林の主要な部分を占め、七本の巨木のうち最も大きいもので、目通り四一〇センチ、樹高最大一四・五メートル、また、樹齢推定一二○○年の古木もある。
 これらのシイノキは、三島神社が大山祇神社から勧請された七二四(神亀元)年ごろに植えられたものと推定される。

池ノ久保のツバキ(昭和六十年三月一日指定)
池之窪にある旧西光寺の防風林として植えられたと思われる藪ツバキである。樹齢約二〇〇年、樹高約一一・七メートル、根回り三〇〇センチ、目通り一五五センチ。冬から春にかけて多くの花を咲かせる町内随一のツバキである。

池ノ久保のシイノキ(昭和六十年三月一日指定)
 池之窪にある旧西光寺の敷地内にあるシイノキで、大小二本生育している。樹齢約四〇〇年、根回り七八〇センチ、目通り四五〇センチ、樹高一四・五メートル、枝張りは約二〇メートルに及ぶ。この地区の住民は地区のシンボルとして保存に努めている。

地蔵菩薩(キリシタン像)(平成十年三月六日指定)
 日喰にある地蔵菩薩で、胸に十字があり台座に蓮弁がないことから隠れキリシタン像と思われる。砂岩で造られており、台座の高さ四二センチ、高さ四三センチの座像である。また、左側に「安永四年(一七七五)年」、右側に「施主源助」と記されている。お堂に安置されているため、保存状態は良好で、鳥越峠のキリシタン像と合わせて貴重なキリシタンの資料といえる。

隠れキリシタン像(平成十年三月六日指定)
奥東の鳥越峠にある像で、胸に十字があり台座に蓮弁がないことから隠れキリシタン像と思われる。安山岩で造られており、座高四九センチ、ひざ幅三六センチの座像である。台石に「天明三年(一七八三)豊田奥組村中」と記されている。また、かつては大久保八十八ケ所の札所であった。

金毛九尾悪狐退治の図(平成十年三月六日指定)
 一八三七(天保八)年に本郷の三島神社に絵馬として奉納された扁額である。縦一六四センチ、横二二八センチあり、和紙に絵を描き、襖障子のような形態になっている。作者は一八一四(文化十一)年長州の萩に生まれた森寛斎である。円山派で名は公粛、字は子容、別に晩山の号もある。多くの共進会や展覧会にも出品しており、その才能は世間に広く認められている。

両谷獅子舞(平成十年三月六日指定)
 両谷に伝わる獅子舞である。約二〇〇年前に伊予市下吾川より伝えられたとされる。舞は獅子とともに老人や子ども、猿等が登場し太鼓に合わせて舞う。これは五穀豊穣と悪病除けのために始められ、主に祭りで舞っているが、家の新築時にも舞われている。
 獅子頭は約二〇〇年前の作とされているが、製作年代や作者は不明である。

和 船(釣舟)(平成十年三月十六日指定)
 閨木彦市が釣舟として若松造船に依頼し、戦前に建造された全長六二〇センチ、幅一五〇センチの和船である。彦市死亡後、一九八〇(昭和五十五)年に下灘小学校に寄贈され、同校が保管している。また、「下灘みなと祭り」や伊予市の「五色姫復活祭」には、満船飾にして活用している。

牛の峰地蔵尊石葺き屋根(平成十三年七月十七日指定)
 牛ノ峯の山頂付近にある地蔵尊で、山伏が海中より引き揚げ祭祀したものである。その後、沖合通行の船が止まるので現在のように奥向きに安置したと伝えられている。本堂の屋根は切妻造りで、幅二五センチ、厚さ一二センチ、長さ三〇〇センチの花崗岩で片面七枚の計一四枚と棟石一枚で葺かれている。以前拝殿は桧皮葺だったが、現在はトタン板で修理されている。

和 船(地引き網船)(平成十三年七月十七日指定)
 本郷に残っていた伝統漁法のひとつである。「双海町誌」によると、この漁法は安永年間(一七七二~一七八〇)に戎井家の祖賀六が兵庫高砂より漁法漁具を持ち帰り創始したとある。これは、網の一方を陸地に固定し漁船により網を海に張り巡らして、端を陸地に上げ、両方で網を引き上げる漁法である。かつては、豊田、満野、富貴、本村、小網、亀の森、高野川で行われていた。現在はふたみシーサイド公園に保管されている。

(三) その他の文化財
㋐ 有形文化財(建造物)
薬 師 堂
 灘町の本覚寺にある堂で、宝形造りの前面に向拝を付し、瓦葺で宝珠を乗せた珍しいものである。また、基礎を盛土し、その上に礎石を置き柱を建てている。はり五四〇センチ、桁四八五センチの木造建築。一六七八(延宝六)年天一稲荷神社から移築され、一七二六(享保十一)年に再建した。本尊は薬師如来、脇侍一二神将が祀られている。

㋑ 有形文化財(石造)
石 塔 群
 小網にある石塔群で、五輪塔や宝篋印塔などが集められている。大洲藩家老の墓と地域で伝承されているが、形態からみると江戸時代以前のものや、江戸末期のものと思われるものなど多種多様であることから、年代は確かではない。
太平洋戦争中に防空壕を掘りかけた際、人骨を発見し中止。それ以後、毎年九月一日に伊予市上行寺の僧により、法要を行っている。

お地蔵さん
 灘町にある石造りの地蔵菩薩である。像高九〇センチの座像で、江戸期の作と思われるが、詳細は不明である。町中に所在しているので、「五丁目のお地蔵さん」と呼ばれ、地域の人々に親しまれている。二丁目と四丁目にも生活に密着したお地蔵さんが祀られている。

ホウトウさん
 久保の渡瀬橋近くの石碑である。この付近の住民は、たびたび発生する洪水に悩まされていた。そこで、河岸に人柱が立ち、南無妙法蓮華経を唱えて祈りを捧げたが、二一日問の苦行に精根つきた。それ以降洪水の被害はなくなったと伝えられ、これを祈念して付近の住民が建立したものである。

常 夜 燈
 久保にある高さ一六六センチの常夜燈で、近年当地に移築された。中台・大袋・笠は建造当時のものだが、それ以外は新設したものである。大正末期まで地域の人々が家内安全を祈念して当番制により毎夜献灯していたが、現在は絶えている。

石 塔 群
 岡の五輪塔を集めた石塔群である。五輪塔の形態は多様であるため年代は不明だが、稲葉帯刀の墓ではないかと推測されている。

金毘羅大権現常夜燈
 本郷の八景山山頂にある常夜燈で、高さ二二八センチ、「金毘羅大権現」、右側に「文化十四丁丑年」左側に「象頭山直講」と記されている。
 江戸時代から海に面した地域の特徴である権現思想が普及したことを示している。ほかに三島神社境内に「是従金毘羅大門迄三十三里安政七庚申」の石柱がある。

ぶいもく地蔵尊
 唐崎の地蔵尊で、台座の高さ九センチ、像高二九センチの石造りである。現在の地蔵堂は一九八四(昭和五十九)年に信者たちによって改築されたものである。本尊のぶいもくの語源は不明。年一回ぶいもく地蔵講の組員が地蔵講を継続している。

赤石地蔵尊
 唐崎にある地蔵菩薩で、花崗岩で作られた台座一四センチ、像高七〇センチの坐像である。また、地蔵堂は正面四〇六センチ、奥行四二〇センチの宝形造りである。移築されており創建は不明である。年一回地蔵講の組員が地蔵講を開いている。

宝篋印塔
 閏住にある石塔で、大久保村行者宮之助か供養のために建立したもの。基台から宝珠まで全高二四七センチの大形である。塔には「世話人、佐渡之國上常心、河内之國金蔵、富國父之川定道」と記され、文政元年(一八一八)の年号がある。また、笠の部隅飾突起の状態は江戸期の特徴を備えている。

宝篋印塔
 日喰の願成庵境内にある像高二三五センチの大型の石塔である。「法華供養、文化八年(一八一こと七月吉日建造、谷中氏寄進」と記され、建てられた年代が明確である。近年、九輪が破損したとはいえ、時代の特徴を表現した石造物である。

常 夜 燈
 日喰の願成庵境内にある高さ一三〇センチの安山岩の自然石で造られた常夜燈である。これは、日喰地区の住民が黒山神社に燈明を捧げるために造られたもので、昭和初期までは毎夜献灯していた。現在は道路建設により、願成庵境内に移転されている。

滝山城主の碑
 満野にある石碑である。碑文によると、一六一一(慶長十六)年亥年、滝山城主久保織部人道行春公墓として建立したとあり、世話人が当所中・宇八・彦七・祐平となっている。更に、戒名は天光院殿観法一念大居士神儀とあり、これは城主の戒名である。一九一七(大正六)年に建立した院殿号付きの墓標もある。

㋒ 有形文化財(彫刻)
浦島観音
 小網の瑞松庵の本尊である。像高七〇センチの寄木造りで、亀に乗った珍しい観音菩薩である。寺伝によると当庵は一九一一(明治四十四)年に全焼したため、本覚寺にあった浦島観音(一七五六(宝暦六)年寄贈)をお迎えしたと記されている。

阿弥陀三尊像
 灘町本覚寺の本尊である。桧材寄木造りの立像で、像高は阿弥陀如来一七〇センチ、脇仏観音菩薩一一〇センチ、勢至菩薩一一○センチと三尊整った都風の仏像で、江戸初期の作と思われる。本覚寺には仏師面幸の作である座像の阿弥陀如来が祀られている。年代は不詳。

聖観音菩薩
 久保の正光寺の本尊である。桧材寄木造りの座像で、座高三九センチ、ひざ幅二六センチで、右手上品印を結んでいる。更に、玉眼入りで内刳が想定される。製作年代は不明だが、像容から江戸前期の作と思われる。
 正光寺の山門、本堂及び山水庭園は鑑賞の価値がある。

地蔵菩薩
 岡の地蔵寺の本尊である。材質は不明だが、一木造りの立像で、宝珠を持っている。像高は三六・五センチ、台座一八・五センチで、像の造りや着色の状態から都風の作りと思われる。
 地蔵寺は町内唯一の真言宗の寺院である。元は秋葉山腹にあったが、江戸末期の天保年間(一八三〇~四三)に全焼し現在の地に移したとされる。

地蔵菩薩
 柆野に所在する木彫の立像である。桧一木造りで、像高五〇センチ、台座高九・五センチあり、桁行四メートル、梁間二メートルの堂中央に納められている。地元では上灘八十八ヶ所札所弘法大師像と呼ばれており、毎年四月と七月には参詣者に飴湯おにぎりの接待を行うなど信仰が厚い。

阿弥陀三尊仏
 本郷の大通寺の本尊である。桧材の寄木造りで、像高九九センチ、台座高二八センチあり、都風の作りの立像である。観音菩薩・勢至菩薩の像高は各六〇センチあり、脇侍として造仏されたもので三尊とも整っている。
 寺伝によると一三七五(永和元)年に創建、仏像を祀り、その後一六七三(延宝元)年ごろ大通寺を開いたとある。このほか本寺には、一六八八~一七〇三(元禄年間)ごろからの古文書が多数残存している。

如意輪観世音菩薩
 本谷の正法寺の本尊である。桧寄木造りで、像高三八・五センチ、像幅二四センチで内刳が施され、右手に宝珠、左手連花を持つ玉眼入りの輪王座像である。製作年代は不明だが、像容から江戸期(一六ー五~一八六七)の像と思われる。正法寺はヱハ○○(慶長五)年に創建された臨済宗東福寺派の寺院で、現在の本堂は一九〇五(明治三十八)年に再建された。

魚藍観音
 下浜の心照庵に祀られている観音菩薩像である。像高二六センチ、光背三二センチ、台座高七・五センチで魚藍(竹かご)をさげている。
 製作年代は不明であるが、像容から江戸期(一六〇三~一八六七)のものと思われる。魚藍をさげていることから、漁業の隆盛と人々の安全を祈念したと推測される。

聖観世音菩薩
 奥東の長楽寺に祀られている像高二九センチ、台座高二一センチ、玉眼入りの木造座像である。
 寺伝によると、一六五五(明暦元)年に開基とともに本尊を祀ったとあるが、台座と固定されているので材質、製法等は調査不可能である。

阿弥陀如来
 本村の慶徳寺の本尊である。桧材の寄木造りで内刳が施され、像高七六・五センチ、台座高一九・五センチ、玉眼入りで金箔仕上げである。脇仏の勢至菩薩、観世音菩薩ともに三尊がそろっており、厨子に収まって保存状態も良好。像容から江戸期(一六○三~一八六七)の作と思われる。

薬師如来
 満野の願正寺の本尊である。桧材の寄木造りで、像高二五・五センチ、台座高二七・五センチ、玉眼入りで光背も本格的な作りになっている。製作年代は不明だが、像容から江戸期(一六〇三~一八六七)の作と推測される。
 脇仏のひとつ、月光菩薩が戦時中に不明となり、現在は日光菩薩とともに二尊となっている。

㋓ 有形文化財(工芸品)

 本谷の正法寺境内権現堂の本尊として祀られている。鏡の経二三・五センチ、九センチの柄がついた和鏡である。製作年代は不明であるが、裏に「天下□村因幡守藤原義信」の銘があり、かつ図柄から江戸期(一六○三~一八六七)作と思われる。この鏡の存在は権現思想が神仏混合であることのあかしである。

㋔ 有形文化財(典籍)
経典・古文書
 灘町の本覚寺の宝物として所蔵されているものである。江戸初期からの経典及び伝授書など重要な文献が二四六件保存されている。
一部掲載
天台四数儀集注三巻  元和(一六一八)年
選択大綱抄  延宝二(一六七四)年
浄土略伝目図見聞上下  延宝三(一六七五)年
伝通記 慶安四(一六五一)年
浄土十疑論二巻  元禄八(一六九五)年

㋕ 有形文化財(古文書)
高野川区所蔵文書
 高野川区に所蔵されている古文書である。県立歴史民俗資料館が調査・整理したところ、村政一四三件、戸口一九件、上地三九件、産業三四件、池水七件、教育二二件、雑九五件、絵画二件に分類され、その目録が刊行された。
 享保・安永年間(一七一六~一七八〇)の検地帳をはじめ、明治期の村政など多岐にわたっていて、町の歴史を知るうえで貴重な資料である。

㋖ 有形文化財(考古資料)

 閏住の岡部家裏山道路建設の際に出土した高さ七〇センチ、口径四〇センチ、胴周囲一九三センチの大型の土器である。口縁部等の形態から県指定古備前甕に似ているが、土の質から一二○○(鎌倉前期)ごろと想定され、甕棺として作られたと思われる。

㋗ 有形文化財(歴史資料)
井上熊太郎翁頌徳碑
 役場前にある井上熊太郎翁の記念碑である。翁は久保で半次郎の孫として生まれる。一九一七(大正六)年に三七歳で上灘村長に選出され。
一九三七(昭和十二)年に退職するまで町発展のために尽力した。その功績を称え全国町村長会から表彰される。町内でも功労に対して感謝会が結成され、功徳を永久に伝えるために記念碑を建立した。没年五九歳。

三豊網栗田愛十郎翁記念碑
 上浜の若松造船所道路側にある翁の功労を謝して建立された記念碑である。碑高一七八センチ。三豊網が一九一三(大正二)年に成立し、一九六一(昭和三十六)年に解散するまで、翁は救済の手を差し伸べ、下灘の漁業に大いに貢献した。

加納善太郎翁頌徳碑
 上浜踏み切りの山手にある翁の功績を称えて建てられた碑である。碑高は一四四センチ。翁は本村に生まれ、蜜柑の新品種を導入するなど、蜜柑栽培の推進を図り、現在の基礎を築いた人物である。この碑は、一九三五(昭和十)年に栗坂一筒が発起人となり建立したものである。

㋘ 民俗(有形)
いわし供養塔
 小網に建てられたイワシの供養塔である。一八八九(明治二十二)年、一九〇一(明治三十四)年、一九二〇(大正九)年、一九三六(昭和十一)年の四基がある。このほか、サワラ、タコの供養碑もある。これらの供養塔の建立に当たっては、住民とともに本覚寺が深く関わっている。また、小網の漁業が特にイワシによって成り立っていたことが碑文によってうかがえる。現在でも、盆と正月には地区の人々が供物を手に参拝に訪れる。

山見小屋(魚見小屋)
 小網などにあった小屋で、沖を回遊する魚群を発見し、そこから網船に合図を送るために建てられたものである。一九〇二(明治三十五)年に上灘地区に巾着網ができ、海岸近くの小高い山などに数か所作られたうちのひとつで、現在の魚群探知機や無線の役割を果たしていた。


 本村の慶徳寺や栗坂家、閏木家、奥嶋家に現存している。一八八七(明治二十)年ごろから、個人の交通機関としてつくられ、特に嫁入りや急病人を運ぶのに利用された。閏木家の篭は長さ九四センチ、幅六五センチ、高さ七四センチ、かき棒の長さ二七五センチ、内部は絵や飾りが施されている。現存している篭の仕様は、ほぽこれと同じである。

西谷お旅所
 両谷の西谷地区の祭りの際に使用される中山石で造られた神輿の拝所である。以前は西坂神社の拝所であったが、天一稲荷神社に合祀され、現在は天一稲荷神社の拝所となっている。これは、約一〇〇年前からの風習といわれている。
 西谷以外にも町内各所に所在する。

亥 の 子
 町内の多くの地区で行われている行事である。十一月の亥の日に亥の子を各家の庭先でついて回り、祝儀をもらってそれで馳走を食べたり遊んだりする。
 亥の子とは、直径約二〇センチの花崗岩でつくった石に放射状に縄をつけたもので、「初子(はつね)に親呼べ、亥の子に子呼べ」と亥の子歌を歌いながら、これをつく。(第五編第一章参照)

力   石
 久保にある約八〇キログラムと四八キログラムの球形をした花崗岩の自然石である。
 昭和初期ごろまで地区の若者の力くらべに使われており、なかには石を持ち上げ威勢を示す者もいたということだ。
 また、日喰にある力石は、直径四五、四三、三八センチの安山岩の球形をした自然石で作られている。これは、明治から昭和初期まで続いた地区の青年による力試しに使用されていた。
青年団の集会の際、一番小さな石を持ち上げられないと一人前と認められなかった。
 各地にも同様の力石が現存する。

相撲の化粧回し
 大栄区に保存されている二枚の化粧回しである。縦一〇〇センチ、横七〇センチで、図柄は龍が刺繍されている。江戸末期から昭和初期まで三島神社の祭礼で奉納相撲が行われていたが、その際に柆野と大栄が競いあったときに使用されていたものである。その年の優勝者がこの回しを着け、参拝者から祝福され祝儀を受けることなどが名誉なこととされていた。

木蝋道具
 灘町の本田家解体の際に収集した木蝋製造に要する各種の道具である。木蝋はハゼの実を原料にした蝋で、植物性固形油脂として器具のつや出し用に製造された。
 灘町では江戸末期から木蝋製造が始まった。明治三十年代ごろから大正初期までが全盛期で、昭和初期まで八軒の製造業者があった。製品はパリ万博に出品され記念メダルも保存されている。

八十八か所地蔵尊
 正光寺境内にある八十八か所地蔵尊である。一・二・三・四番と八七・八八番の地蔵尊が所在し、ほかは翠小学校下の要所に安置されている。更に、台座には寄進された人名が刻まれている。年二回、四月二十一日と八月二十一日に巡礼が行われ、お接待の催しも行われていたが、現在はこの風習は絶えている。

宗 和 台
 閏住の岡井家所有の料理を入れた鉢を乗せる台である。三個一組になっており、漆塗りで蒔絵が施され、鉢とともに客をもてなす古式ゆかしい貴重な道具である。宗和台の収納箱に「大正四年四月新調」、九谷焼の鉢の収納箱にも大正四年とあるように、時代や購入者が記録されている。

滝山城主位牌
 本村の慶徳寺に安置されている歴代滝山城主の位牌である。位牌には、一四二七(態永三十四)年道春、一四六九(文明元)年行吉、一五〇二(文亀二)年行重、一五三四(天文三)年正行、一五八六(天正十四)年国春、一六一三(慶長十八)年行春の五名の戒名が記されている。これは、後世に久保庫之進、池ノ伊助の寄進に基づいてつくられたものだが、古い時代を明確に記録されている貴重な歴史的資料といえる。

稲葉帯刀の祠
 岡にある稲葉帯刀を祈念するために造られた高さ二七センチの祠である。
 岡の烏帽子岳に居城を構えていた稲葉帯刀は、長曽我部元親に攻め滅ぼされた。その原因が、敵の立てた幟が岡や三島の各家に立てられた五月幟と見間違えて、不覚をとり討死したと伝えられている。現在でも岡では、帯刀を忍び五月幟を立てない風習が残っている。

㋙ 民俗(無形)
夏越し祭り
 この祭りは、「夏越しの祓え」とか「水無月の祓え」ともいわれ、本来は陰暦六月晦日の大祓えの神事であったが、近年は新暦七月晦日に行われている。参拝者が一八〇センチの茅の輪をくぐって穢れや無病息災を人に託し、夏を無事に過ごせるように祓い清める祭りである。

金   剛
 本谷に現在も伝わる風習で作る長さ五〇センチの大きな藁草履である。毎年一月十八日の念仏講の際に地区民が集まって製作し、谷川につるす風習である。これは、地区内に病気や災害の悪魔たちを入れないように大きな草履を履いた金剛力士が門番をしていることを表してい
る。

おひまち
 小網に伝わる神事で、漁業に従事している青年が海中でみそぎを行い、しめ縄を作って神を祀るものである。
 本地区は、明和年間(一七六四~一七七一)から現在に至るまで、地びき網、巾着網が考案され、新旧網、共栄網と漁業が盛んであることから、大漁と繁栄を祈願してこのおひまちが続けられている。

秋葉神社祭礼
 秋葉神社は火災・干害を守る神として信仰厚い。そのために、雨乞い踊りや秋祭りは全住民参拝する。子供相撲が奉納され、福まきをはじめ、おこもりといって住民全員の酒宴が行われる。現在は公民館活動の中に組込まれ盛大に継承されている。

盆 踊 り
 下浜で毎年八月にやぐらを組み、灯をともして行われている盆踊りである。やぐらには音頭人やはやし人が上がり、地域に伝わる特色ある念仏小歌やくどき等を歌い、太鼓、三味線、笛、拍子木を合わせる。独特な衣装を着て盛大に踊る手踊りは圧巻である。また、灘町、小網、柆野、城之下、地蔵寺等でも伝統ある踊りがそれぞれ継承されている。

盆踊り(池之窪地蔵堂)
 池之窪の地蔵堂で行われる盆踊りで、毎年八月に本地蔵菩薩に奉納するために行われている。一八八七(明治二十)年に石ノ久保の弥吾の指導によって始められた。(第五編参照)
 踊りの種類は、花踊り、傘踊り、ぽでん踊り、両ぽでん踊り、扇子踊り、牛若踊り、団七踊り、手踊り等の古式の踊りである。また、初期の踊り手は子どもだったが、現在は大人も参加するようになった。

㋚記念物(史跡)
通 り 穴
 小網の海岸線の岸壁を人力によって掘った約二〇メートルの通路である。浜が唯一の交通路であった時代に岸壁が海岸まで迫った場所は、満潮時や時化のときに通行することは困難であった。そこで、小網地区の次平が、明治初期(一八七〇)に灘町組頭宇都宮峯次郎ほかの有志の協力を得て、その岸壁をくり抜いて通路を造り、人々がいつでも通行できるようにしたのである。

石材採掘場
 灘町の南東、本尊山麓にある通称石切り場である。これは、一八七〇(明治初期)年ごろから一九三〇(昭和初期)年ごろまで、約六〇年間に渡って採掘されていたものである。
 柱状節理が発達した安山岩で石積用の割石に適しており、交通の便もよいことから海岸の道路や河川工事に使われた。なお、由並小学校の石垣もここの石である。

おきよの墓
 岡に、大洲藩主加藤泰武の乳母を務めたおきよの墓がある。大洲藩主が、おきよの温厚忠実さを賞して東峰に「おきよ池」を作った(第八編人物小伝参照)。墓石には、「寛政十二(一八〇〇」年』と刻まれている。

馬 場 跡
 岡の北東、秋葉山中腹にある戦国時代の馬場跡である。馬の調教や馬上からの射撃訓練をしたと伝えられる。馬場跡は広さが三〇アールあり、現在その跡は約一〇アールが枇杷畑でほかは荒地になっている。当時厩舎に使われたとされる素焼瓦が、石垣代わりに積まれている。

稲葉帯刀の墓
 岡にある五輪の塔で、天正年間(一五七三~九一)烏帽子岳の城主稲葉帯刀の墓と伝えられている。五輪の塔は三基あり、大きいもので高さ五〇センチ、小さいものは高さ四〇センチで野積み石の上に並べられている。地域の人々からは「稲葉さん」と呼ばれ、秋祭りの際には参拝に訪れる人も多い。

千代次の墓
 千代次は一七八〇(安永九)年に日尾野に生まれる。二歳で父親と死別したため、おじの宗八に引き取られた。彼は八歳のころから蓑作りを習い、病弱で目の見えないおじに孝養を尽くしたことが、大洲藩主に聞こえ、一七九五(寛政七)年に賞賛と賞金を賜った。その後、千代次が作る蓑を孝行蓑と呼び、多くの人々に愛用されたという。

冷水隧道(水路)
 高見西方の大栄川の上流域にある疎水路で、高さ一七〇センチ、幅九〇センチ、延長四〇メートルの手掘りの隧道である。これは、一九〇二(明治三十五)年に赤尾政太郎が中心になりつくられた。これにより、新井出が完成し、一・六ヘクタール余の水田が拓かれた。

曳   坂
 三島地区の大栄口から東峰を結ぶ約ニキロの山道である。曳坂の由来は、同族争いに敗死した木曽義仲の妻、山吹御前の遺体を笹竹に乗せて運んだことからといわれ、中山町には山吹神社がある。
 この曳坂は一九二九(昭和四)年に、県道三島犬寄問が開通するまで、上灘・中山間の主要道だった。

干 人 塚
 本郷、千人塚の池南方の塚跡で、そこには高さ一三〇センチの自然石が建てられている。これは、一五八五(天正十三)年、中国の小早川の大軍と由並本尊城や海辺城及び援軍の黒山城の連合軍が禿山(八景山)の西部一帯で戦った際に、戦死した多くの人々を祀った塚跡と伝えられている。

疎 水 路
本郷光久保の東を流れる楠原谷の水を西側へ送る水路である。一五八五(天正十三)年に長宗我部の軍役に就いた門田九郎佐衛門がその代償として得た西側水田への水路と伝えられる。一九二二(大正十一)年には、水路横に高さ一四〇センチの水利功績記念碑が建てられた。

千人塚の池
 本郷の中央に位置する面積約二ヘクタールの潅漑用水池である。光久保の疎水路が完成後、東側の水田の水不足は深刻になっていた。たび重なる水騒動に調停に入った大洲藩主から許可を得て一八六〇(万延元)年に構築された池である。池の奥に千人塚があることから千人塚の池と呼ばれている。

横 井 戸
 本郷光久保にある濯漑用水用の横井戸である。一九二〇年代前期(大正末期)につくられた井戸で、高さ一〇〇センチ、幅五〇センチ、延長約五〇メートルある。これは、西側水田(当時)の地下水を本郷川に導き、それを東側水田の水路に入れるように造られている。この水路は、人力のみの難工事で、当時の人々の水への思いが忍ばれる遺構である。

堀   切
 松尾の南上方・標高五〇〇メートルに位置する堀切で、大洲藩政時代に掘り下げた跡である。当時、串村の法師地区上流の雨水は、矢落川を経て大洲市へ流れていたため、中間に位置する尾根を約二五メートル堀切り、ニキロにも及ぶ水路(深山井手)をつくり、本村等の海岸へ導水したものである。

妙 見 山
 松尾から約五〇〇メートル東方の山である。山頂には妙見神社があり、四月二十日には祭礼が盛大に行われる。
 神社の周囲には数十本の桜があり、春には山頂が薄桃色に染まる。北側の広場からは瀬戸内海の島々や松山市街が一望できる。
この山は妙見宗派ゆかりの地と推測されるが、由緒等は明らかではない。町内の城跡やおきょ池は他編に別記

㋛ 記念物(名勝)
八 景 山
 本郷にある標高八六・五メートルの南北に細長く伸びた和泉層群の山である。南東からの強い風雨を受けて山肌が露出しているため、「禿山」とも称された。一九三六(昭和十一)年にこの地を訪ねた歌人の吉井勇が、その眺望のよさに感動して「八景山」と命名し、一首詠んだ歌碑が残されている。展望台等も整備されている。

㋜ 記念物(天然記念物)
花 の 石
 奥大栄地区の花の石神社に祀られている木花咲爺姫命のご神体といわれる石である。高さ約一五〇センチ、横一〇〇センチの美しい石で、毎年三~四月ごろには、周囲の木々が春光を受け、その光が石に映え神秘的な美しさを放つという。三月四日の祭礼の際には、花の石の美しさを鑑賞したと伝えられる。

コ ガ 樹
 柆野公民館の広場横にある根回り四二〇センチ、目通り三九〇センチ、樹高一七メートルの地域のシンボル的巨木である。根元に空洞があるが樹勢は強く、夏には約二〇メートルの枝幅が広場に木陰をつくり、住民が涼をとるなど親しまれている。

フ   ジ
 奥大栄公民館から中山町永木に通じる山道の上方にある古木を支柱に生育する藤である。根回り一四〇センチ、目通り一一〇センチ、樹高約二〇メートルの大藤である。初夏には見事な花房を付け、まるで薄紫色の傘を開いたようにみえる。

ヤブツバキの群生
 本郷上方の東越の若宮神社跡(祠が現存)と伝えられる場所にあるヤブツバキである。根回り一八〇センチ、目通り一三〇センチ、樹高約一二メートルの木を中心に一〇本が群生している。
 祠の後方を取り囲むように生育していることから、境内に植樹したものと推測される。

大 杉 群
 牛ノ峯地蔵尊に生育する大杉群である。この地蔵尊は標高八九六メートルの牛ノ峯から約五〇メートル下方に位置する航海の守護として祀られているものである。その境内に根回り五一〇センチ、目通り三一〇センチ、樹高約三〇メートルの老杉二〇本を中心に、数十本の大杉が地蔵堂を守るように群生している。

シンパク樹
 唐崎の信福寺境内の南隅にある老木である。根回り九二〇センチ、目通り五五〇センチ、樹高一二メートルで、樹齢は約四五〇年と推定される。樹木の北側半分は枯れており、高さ約六メートル付近から数本に分かれている。町内でも有数な古木である。

大   杉
 日喰の菊理姫命、速玉男命、事解男命等を合祀する黒山神社境内に生育する大杉である。根回り五九〇センチ、目通り二九〇センチ、樹高約三〇メートルあり、かつて境内に数本あった大杉の中で、唯一のものとなっている。

ケヤキ
 日喰の黒山神社の境内にある三本の大木である。最大のもので、根回り四六〇センチ、目通り四四〇センチ、樹高約三〇メートルあり、三本とも根元から少し上方で幹が分かれている。樹勢は旺盛で枝葉が繁茂している。

シイノキ
 奥西の豊田神社の境内にある巨木である。根回り八五〇センチ、目通り五五〇センチ、樹高二〇メートルで、根元から三メートル付近で幹が二つに分かれている。豊田神社は、瀬織津姫命ほか一〇柱を合祀しており、このシイノキは境内の神木として祀られている。

ム   ク
 本村の菅穂積別命ほか一三柱を合祀する圓山神社境内の西半分を覆う三本の巨木である。境内入口右手にあるムクは、根回り五一〇センチ、目通り四〇〇センチ、樹高約二二メートルあり、根元より五メートル付近で枝分かれしている。また、夏には木陰で憩う人々で賑わうなど地域にも親しまれている。

秋葉様のソテツ
 本村の圓山神社の境内に二本ある蘇鉄で、樹高五七○センチと三〇〇センチ、目通り一五二センチの巨木である。また、現在圓山神社に合祀されている秋葉神社は小さな社が遺されており、かつては祭礼等が盛大に行われていたと伝えられている。

エ ノ キ
 松尾の鈴王神社の境内にある巨木である。根回り四三〇センチ、目通り四二〇センチ、樹高約二五メートルあり、根元から三メートルと五メートル付近で幹が三本に分かれている。更に、この巨木は境内西側を広く覆っており、その下にはツバキやサカキ等の照葉樹が密生している。

中央構造線
 約七〇〇〇年前に生じた日本列島の中央部から九州に至る約九〇〇キロに及ぶ大断層線である。町内では、犬寄から上灘川付近を経て、本郷の三島神社の下方から海に入り込んでいる。砥部町の衝上断層は中央構造線が露出したものである。

㋝ 記念物(埋蔵文化財)
東峰・高見遺跡
 東峰の果樹園丘陵上に包蔵地として三か所発見された遺跡である。高速道路建設に伴い発掘調査が行われ、多数の石器が発見された。その後の現地説明会等により、出土物遺構が確認され、遺跡として内外に認識されることとなった。
 町の歴史を知るうえで貴重な出土資料なので、今後の保存管理が切望される。

本村埋蔵文化財包蔵地
 本村の標高二〇〇メートルの丘陵中腹緩斜面に所在する包蔵地である。旧石器時代及び弥生時代の遺物が包蔵している。遺物の石材は赤色岩が主体で、ほかにチャート、サヌカイト姫島産黒曜石も含まれる。今後の調査が待たれる。

㋞ その他
双海町教育委員会収蔵民俗資料
 町民の生活を支えてきた民具や産業具類等を収集したものである。年代は明治、大正、昭和期のものが多く、当時の生活文化や時代背景を伺い知ることのできる貴重な資料である。これらは一九七六(昭和五十二年に高齢者の学習活動の一環として計画的に収集されたものである。


指定文化財

指定文化財


中央構造線

中央構造線


歴代文化財専門委員

歴代文化財専門委員