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双海町誌

第三節 仕事と道具

一 農   業
 農産物の生産は、第二節に表で示したように季節によって様々であり、人々は、米麦をはじめ生活に必要な作物、また、現金収入のある作物を、その土地柄に従って作付した。
 収穫時には女性や子どもも大いに働いた。昭和前期ごろまでは大方の子どもが小学一年生ごろからできる仕事は手伝い、麦刈り、畑うち、いもうえ、田植え、田の草取り、稲刈り、運搬、麦つき、米つき等々学校から帰ると手伝った。
 日曜日などは兄弟で「一つ・二つ・三つ……」と数をかぞえながら、米は八〇〇回、麦は一三〇〇回台がらでついた。夜は夜なべといって、主は生産に必要な草履つくり、縄ない、炭俵あみ、こもあみ等を行った。特に大正時代ごろまでは暗いカンテラやランプの光の下での作業であった。
 生産活動は、人力から家畜の力を活用する時代が長く続いた。終戦後急速な機械化が進み動力発動機が普及したことから、生産効率は上昇して農民の暮らしもしだいに楽になった。米麦の脱穀作業は千歯による手扱ぎ作業から足踏脱穀機へと、更に動力脱穀機へと進歩をしてきた。稲も鎌で刈り、それを束ねる手作業であったが、バインダー(稲刈機)が開発され稲刈と束が一度にできるようになった。
 現在はコンバインにより刈取りから脱穀まで運転操作によるものとなった。水田の整地も牛馬を使っての作業からロータリーによる動力化か進み、歩いて運転をしていた農機も、今ではトラクターが普及し耕起と水田整地が一気にできるようになった。田植えにあっては水面に定木・定縄を置き一株一株を横並びになって大勢の手で植えていたが、今は田植機に乗って運転しながら植えられるように進歩した。

使用道具
・三ッ鍬、四ッ鍬(さらい)、ちょうな鍬、地掘り、株切り鍬
・かり鎌、木切り鎌、のこぎり鎌、くわそぎ鎌、下刈り鎌
・せんば、唐さお、けんど、つづらけんど、唐み、唐うす、まんごく、み、ほご、台がら
・すき、馬鍬、しろ板、大足(田げた)、定木、定縄、苗かご、八反ずり、ぜつめ、斗じたみ

二 林   業
 クヌギ、ナラ、雑木などを伐採してこれを一定の長さ(約一メートル)に切る。これをにぶ木といった。また、松・杉・桧などを伐採して皮をはぎ、それを一定の長さ(間物…約ニメートル、上物…約三メートル、二間物…約四メートル、長物…約五メートルと六メートルの二種、別物…長さ不定の特殊用材)に切る。これを材木といった。
 これらのにぶ水や材木はカルイ子やねこ車によって山道まで出され、その後、牛や馬に引かせたり、鞍をつけた牛や馬の背につけたりして一定の集積場所(峠とか、水かけ場)まで運ばれて材木商人に売り渡された。そこから青壮年労働者が、海岸までねこ車で運び、千石船、機帆船等で阪神地方へ運送された。
 このねこ車によって材木を一日二回程度運ぶのは、当時の大きな労働であり、金儲けであったため、昭和前期ごろまでは若者たちは進んでこれに従事した。
 田鞍や鞍は牛馬の背につけ、胸がいを胸にまわし、腹帯をしめ、尻がいをお尻にまわして、荷物運搬の時、背の田鞍や鞍が動かないようにした。森林伐採の道具としては、鉞、鋸、鉈、木切り鎌、皮はぎ鎌を主として用いた。
 昭和三十年代になると、自動車の発達によって林道網が整備され、牛馬での運搬は不用となった。現在では、林内には作業車道(幅員ニメートル前後)が敷設され、林内作業車(キャタピラ小型運搬車一トン搭載)を使用して林道まで搬出している。また、林業専用トラックにはウインチが装備されワイヤを使って山裾から切り倒した材木を一気に巻き上げてトラックに積み込むようになった。のこぎり作業もチェーンソーの普及により材木の本倒しから枝打ち、玉切りまで作業能率は良くなった。

三 副業としての養蚕
 蚕を飼って繭をとり、それを売って現金収入を得ることは、たいへん重要なことであった。蚕の飼料である桑の木は、野菜畑もなくなるほど植えた。掃立紙に産卵している種紙に、温度を加えてふ化させ、ふ化した小さな蚕を上蔟(蚕に繭を作らせるため蔟に入れること)するまで育てるには、昼夜を通じての大変骨の折れる仕事だった。
 しかし、農家の副業としては極めて重要で、規模は大小あったが、ほとんどの農家が養蚕を営んだ。
 普通、春・夏・秋と三回飼育したが、中には春子と夏子の間に梅雨子、秋子の後に晩秋蚕を飼育することもあった。一か月もかかって育てたものが上荻する間際に病気になり、家族中の苦労が水の泡となることもたびたびであった。
 蚕には、桑の葉を一日に数回与えなければならない。葉に水滴は禁物で、桑の葉についた雨しずくを乾かすため、家中桑の葉を広げて乾かした。
 桑摘みや、毎日一回程度のしりがい(糞の処理)などの作業は、子どもも大いに手伝った。蚕の発育がよい年には、桑の葉が自分の家で不足することがあり、長浜・上老松・豊茂・白滝方面へ買いに行き、船や馬車に積んで帰った。
 蚕が十分発育して、身体が透き通るようになると、桑を食べず口から糸を出すようになる(蚕さんがあがったという)。これを蔟の中に入れると、適当な場所を選んで繭をつくり、中でさなぎになる。その繭を蔟から取り出し(繭をもるという)、選別し、繭買いさんに売り、製糸工場へ運ばれた。
 この繭を売った日は一家そろってご馳走を食べ、子どもたちにも小使い銭を与えた。養蚕は、明治末期から大正・昭和初期が最盛期であった。

使 用 具
・はきたてハケ、せいろ、さんざし、こも、あみ、まぶし
・桑つみばさみ(つめ)、桑取かご、まないた、桑切包丁

四 漁   業
 人間は古来、魚介類を素手で捕獲していたが、進化とともに種々の道具(釣り針・やす類・後に籠・壷)を考案してきた。その後、船の出現により活動範囲が沿岸から沖合いへと広がった。続いて網が開発されたことで、大量捕獲が可能となり、やがて、漁を生業にする者たちが現れた。そして、漁民同士が協力したり、競争したりしながらより多くの魚を捕獲できるよう漁法を開発したり道具を改良したりしてきた。
 漁業は自然が相手であり、海中にいる見えぬ魚をとるのだからたいへん苦労をした。漁師は魚の習性を漁法に生かし、一つひとつ覚えたのである。例えばタイはどこで、いつごろ何を食べるかを知り、場所、時期、えさ、更に潮流と密接な関係があることを体得するのに長い歳月を要した。イカは白い棒状を好み、タコはアナゴを、タチウオはドジョウやイワシを好むことを知り、それに合わせた漁具が発明され、改良されたのである。
 また、とれた魚を年間にわたって調べ、何を食べているかを知り、時期によってえさが変わることも知った。潮流に乗り集団で回遊または移動する習性を知り、産業編の漁業で記述したとおり各種魚網が発明され、使用を重ねながら改良されて、双海町独特の「山見」から、今日の電波探知器による操業に及んでいる。その位置を知るために、山のたて方(陸の山々のかさなり具合で位置を正確に知る方法)や、潮流に合わせて釣り糸や網を入れる方法、舟の速度の調整等々、長い経験とすぐれた技術が漁獲量に比例したのである。偶然での大漁もときにはあるが、年間を通して大漁を続ける漁師は、科学的・合理的能力と豊富な経験の持ち主に限られていた。
 漁業には昔から漁場の占有権や特別漁業権等、漁民間に大きな差別が残存した。しかし、戦後の新漁業法の施行に伴って海水面利用の平等化が図られ、また、戦後の食糧難がもたらす栄養不足を補う貴重な蛋白源として水産物の需要が増加したことで漁民は潤うようになった。更に、昭和三十年代以降の工業の発達が漁業資材や機材の進歩をもたらし、漁獲量の増加と労力の省力化を推し進めた。昭和四十年代になると、本町の漁民は優秀な装備のもと、県境を越えて遠く西瀬戸内海に展開操業し、沿岸漁業としては西日本屈指の漁獲量を誇るまでになった。その後、魚群や好漁場の機械による探査や作業の機動化、漁具の軽量化等、科学の粋を集めた機器を駆使し、操業が続けられた。また、この時期、上灘地区のイワシ漁業は、近代化によって加工技術が導入され、日本一の味の良いイワシの名産地と賞賛されるまでになった。それまで各家庭で家内労働により生産された煮干加工は多くの人手と時間を要し、かつ、自然条件に左右されていたが、共同加工場の整備によって一変し、漁民の暮らしも変化した。かつて砂浜や屋根の上一面に銀色に光る煮干し干しの風景を、「双海の風物詩」と称し、予讃線の窓から乗客が身を乗り出して眺めた時代も、終わりを告げたのである。
 その後、魚群探査機による操業が乱獲につながった上、海砂の採取、埋め立てによる浜の消失、農薬・汚水による海の汚染が水産資源に影響し、年々漁獲量が減少するようになった。
 また、養殖漁業の発展と物産流通の広がりにより、特に、タイ・クルマエビ・トラフグ等の高級魚をはじめ、外洋性のマクロまでもが潤沢に供給されるようになった。加えて、海外からの安い一次産品の輸入によって、魚価は低迷し、本町の漁業の衰退を後押ししている。