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双海町誌

第四節 衣服と仕事着

一 衣   服
 衣服は祝いの日と普段の日に分けて考えねばならない。婚礼や葬式、外出着などのよそ行き着物と、暖をとるため身体をおおったり仕事をするときに着用したりする実用的な普段着がある。普段着とか仕事着は、移り行く時代の影響を受けることが少なく、地方的特色を持つ古いものが残っていた。特に仕事着は安価で長持ちし、使いやすさを優先したものを長く愛用してきた。
 双海地域では、ツツッポ、ソデナシが仕事着として、ハンテンが普段着として多く用いられた。ソデナシは、袖のない着物であり、ツツッポは、筒袖といって、きっちりわきの下にくっついた筒のような袖の着物である。ハンテンは、袖口にいくにしたがって袖が小さくなっている。つまり三角形の袖がついているものである。これらの上に結ぶ帯がヒロテといわれた。
 襷、ウワッパリは、晴着をぬぐまでもないちょっとの働きに、晴着の上にひっかけて、小労働をしたり、冠婚葬祭の時の料理作りをしたりするときに用いられた。もちろん女性が農耕作業に従事するとき、家のなかで籾摺り・臼挽きをするとき等には襷をかけて働いた。
 下半身につけるものとして、六尺フンドシ、エッチュウフンドシ、サルマタ、寒さや働くときの泥などを防ぐものでパッチなどがあった。また、太平洋戦争中から女性のモンペが盛んに用いられた。それ以前、女性は着物のすそをまくり上げ落ちないようにしたコシマキ姿で仕事をしていた。
 また、テオイ(手覆い)、キャハン(脚半)等も用いられ、着物に縫い付けずに、手足の活動を自由にしたのは、いかにも純日本的といえよう。男子が仕事をするときのハチマキ(祭りの神輿かつぎのときに限らず)、冬の寒いときの(仕事以外にも)ホオカムリも、昔から用いられた。手拭は元来頭を包むものであったが、今日では、手ふき、入浴、洗面具等として用いられるように変わってきた。
 子どもの服は、「おさがり」と言って兄や姉の着古しを着せてもらっていた。衣服はもともと暖を取り、身を守るなどの役割があったので特にファッションを重要視したものではなかった。一般庶民にとっては特にそうした傾向が強かった。
 しかし、衣服に対する考え方や身に付ける服の種類は時代を経るにつれだんだんと変化してきた。高度経済成期には、ほとんどの人が洋服を身に付けるようになり、更に、昭和五十年代以降になると庶民にもファッション意識が顕著になってきた。労働着、普段着にもファッション性重視の傾向が見受けられるようになった。かつては家庭でミシンを購入し裁縫を習得して洋服を着用していた若い女性だけでなく、老若男女を問わずほとんどの人がメーカーの既製品を着用するようになった。テレビやファッション雑誌からの情報と流通の発達による大量消費社会の到来が、かつての「おさがり」や「一帳羅」という風習さえも衰えさせた。


二 履物と髪形
 昭和初期ごろまで、労働をするときの髪としては、ソクハツ(束髪)、ヒキツメ(引詰め)といわれるものが主流であった。祝いの日になると娘はモモワレ(桃割れ)、既婚女性はシマダ(島田)、マルマゲ(丸髷)を結っていた。
 履物もよそ行きと普段のものがあった。ワラジ、ゾウリ等が使用され、旅行にも用いられた。仕事用として多く用いられたのは、アシナカ(トンボムスビ)で、山で仕事をしても、足の腹にくいが立たぬといわれた。
 ミノカサ(蓑笠)は、田植えや夏の草ひき、こく落しのときなどによく用いられた。頭につける笠は円い形をしているのでマンジュウ笠と呼ばれていた。梅雨時の田植えになくてはならなかったミノ笠やマンジュウ笠は、今では文化財としてもそのおもかげを残している。
 その後、化学製品の発達によりミノ笠より軽便で雨漏れのしない完全装備のナイロン製の雨合羽が用いられるようになった。

赤だすきに赤こしまき、おはこ帯の田植え
 しとしとと五月雨の降り続く山田に、田植えの季節がやってくると、女性、特に娘さんや花嫁さんは、美しく身支度して早苗を植えたものだ。
 かすりの着物に赤だすき、おはこに帯をむすび、赤ごしまき姿の自由のきかぬ服装であった。しかし、いかにも優美で魅力的で、人々の心情をひくに十分な光景であった。その田植えの列の中ある年配の女性の音頭で歌が始まる。ゆるやかなメロディーにのって田植歌(労働歌)の聞こえるのも、のどかなものであった。
  ・山田の稲はあぜにもたれかかる。娘は殿御にもたれかかる。
  ・苗もちゃ一の大役。ばんには筍のみそしる。
 のどかな牛の声にかわって、現在は忙しい耕運機の機械音が山や田に響いている。


仕事に使用されてきた服装

仕事に使用されてきた服装