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双海町誌

第五節 織物と染料

一 麻
 江戸時代まで農漁村に住む人々は、麻や木綿の衣料を着用するよう義務づけられていた。そのため集落内には、麻をつくる麻畑があった。この麻畑は主に女性が耕作していた。麻の皮をはぎ、糸をひき、布を織るまで一切の仕事も女性がした。麻は畑で葉を取り去り、茎だけにして家に持ち帰って、釜で蒸し、蒸した麻から芯を引き抜いて、皮のついた繊維の部分だけにする。これを皮ソといい、この皮ソを水の中に浸しておいて、ふやけたところを小さい包丁のようなもので軽く押さえつけつつ麻の根本の部分から引くと、皮や余分なものがとれて、そのあと黒ソというものが残る。この黒ソに小糠をませて煮、固く絞り、両手で揉むと、糸のようにほぐれてくる。それを撚り合せてできるのが苧績である。こうしてできた麻糸に更に撚りをかけ、カセにかけてくだに巻いていき、これを半日ほどアクで煮て石の上において小槌でたたく。これを水洗いして、アク糠にたっぷりつけて、寒い晩に外気にさらすと、麻の織り糸ができる。それに撚りをかけ、車にかけて、機を織った。これを使って衣類・袋物・かや等をつくった。昭和初期ごろまで多くの農家で見受けられた情景である。
 今では野菜畑であっても、その昔、麻をつくっていたので「麻畑」という呼び名が昭和中期まで残存していた。

二 木綿と絹
 綿から木綿車で糸を引き出し、竹のくだに巻きつけて(しのまき)それを桛車にかけて、何綛かをつくり、それを染めてわく車にかけ、反物の長さを計算した。また、色模様やしま模様を工夫考案して機を綜る。それからトンカラ、トンカラと機が織られ布になる。明治・大正のころの着物は、ほとんど女性の手によるものであった。雨の降る日や祭日などに、表の間と奥の間の戸障子をはずして、機を織っていた。綛勘定もやっていた。
 絹織物は、繭を湯で煮て、一〇個から二〇個ぐらいの糸を集めて一本の生糸にし、木綿車で撚りをかけ、桛車にかけて何綛かをつくりそれをわく車で計算し、機を綜て機で織る。この生糸で織った絹織物は、いろいろ染模様にして、祝いの日の衣類等をつくった。

三 染   料
 桐の木の炭をすり鉢ですりつぶし、そのアクで染めるねずみ色、タカキビの茎をせんじた汁で染める赤色、クチナシの実をすりつぶしてその汁で染める山吹色、桐の皮を干し、それを焼いて粉にして、せんじた汁で小豆色、フシの実をすりつぶして鉄くずとまぜ、水を加えてせんじるあさぎ色、ヤマモモの皮をはぎ、ミョウバンに水を加えてせんじる黄茶色、以上の工法はあまり詳しく伝えられていないが、当地方に残り伝えられている染料である。