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双海町誌

第六節 食事

一 特別の日の食事
 朔(お一日)・お十五日・お社日・その他年中行事等の祝いの日の食べ物は、まず神様や仏様に供えておいてから家族一同が食べた。それには、餅、だんご、小豆がゆ、小豆ごはん、たきまぜおすし、うどん、そば、そうめんなどがあった。餅やだんごは年中行事や冠婚葬祭に合わせて作った。誕生祝の餅、法事の餅、嫁の里帰りの餅、新築祝の餅、正月や祭の餅等があり、その意味は異なり、俗信、禁忌を伴っていることが多い。

二 毎日の食事
 一九五五(昭和三十)年ころまで、主食には麦・米・粟・サツマイモ等が使われた。主食ではなかったが苗代ごろから田植えごろには、焼米、夏は焼とうきびも食べた。おじや(雑炊)、おいれ、いもがゆ等も珍しいというより、常に用いられた。
 一般的には麦が主で、麦と米の割合は麦七対米三が普通以上といわれ、米の入らないす麦飯を食べていた家もあった。
 学校の弁当も、正月ごろからしばらくの間、餅を焼いてきな粉をつけ、それをコリという弁当箱に三個から五個程度入れて持参した。これは冷えると硬くなるので、懐に入れて冷やさないようにして、勉強した。また、サツマイモのできる秋はいもの弁当というように、極めて簡単なものであった。麦飯の弁当を持参する生徒もたくさんあって、おかずは漬物・梅干・煮干しに味噌で、魚の塩物などは少なかった。
 副食はオサイといい、漬物・野菜・海草・煮干し・味噌等が多く、自家製の豆腐・こんにゃく等も時々使われた。普段の日は、生魚・クジラの肉・肉類はあまり食べなかった。
 漬物は、野菜を長期的に保存する手段として考え出されたもので、ダイコン・カブ・ウリ類・ナス・ナッパ・セリ・ワラビ・ゼンマイ・タケノコ等昔からつくられている。特にダイコンの漬物は、コーコと呼ばれ大切な副食であった。昭和三十年ころまで、朝食やお茶のこ、弁当のおかずはほとんど漬物だけというのが一般的であった。台所を預かる主婦にとって漬物は大事な食べ物で、その漬け方のコツや知識を記した覚書を台所の柱につるしていた家もあった。漬物の味や種類によって、その家の主婦の価値が分かるとまでいわれたもので、「糠味噌くさい女房」とか、「味噌桶が出ると雨になる」等の言葉は、庶民の家の主婦を指していうありかたくなくて、実はありかたい民俗学的言葉である。
 昭和五十年代に入ると家庭の収入が増加し、生活水準も高くなって貧富の格差も少なくなった。それに伴い、食材も豊富になって食生活も地方を問わず均等化され、西洋化してきた。

三 調 味 料
 調味料として一番早く知られたのは塩である。塩屋の地名は汐を汲み釜に入れて煮るための家が建っていたところであると伝えられている。
 江戸時代末期までは、塩は全部行商人によってもたらされ、その行商人を塩チチとか塩トトと呼んでいた。明治になってから一定の店で売るようになったが、大変貴重なものであった。
 塩をマメ・麦等と釜で炒り合わせてつくる味噌がしだいに一般化して、ダイズ・コムギソラマメ・麦等をこうじにし、それに塩を混ぜてつくる醤油は随分古くから作られていた。その材料をつくり桶に入れ、細長い竹で編んだ円筒形の道具を入れて、そこからたまりをとる。これが液体調味料の醤油である。
 自家製の味噌や醤油も昭和中期ごろに姿を消し、工場で製造されたものを買っている。

四 食事の変遷
 食事は普通、朝・昼・晩の三度であったが、夏の日の長い間や農繁漁繁期には「お茶づけ」といって、昼と晩の間にも食事をとった。これは簡単で普通食を少な目にした食事であった。焼米や餅、イモなども用いられた。そばのおねり、ハッタイ粉等も時々食べた。また、早朝暗いうちに起きて、朝飯前に山へ牛の草を刈りに行くといったような仕事の前の簡単な食事をお茶の子といって、これは特にそばねり・ハッタイ粉・イモ・餅などがよく用いられた。これら飯米の準備は、雨降りの日や夜なべ作業で、台がら臼を使ってよく子どもたちがついた。また、暇なときに一度に数か月分ついておくことがあった。特にセツヅキといって年末に正月餅の材料、翌年の飯米等何日も要して準備した。これにも子どもたちの労力がたいへん役に立った。粉食の材料も、夜なべや雨降りの日の作業としてヒキウスで製造された。
 臼ひき歌に「臼をひくときやほろほろ涙、だんご食うときや猿まなこ」というものがあるが、これらの歌は単純作業の退屈しのぎに歌われたのが始まりであろう。
 昭和時代になると、水車や機械による精米、製粉所が各所に共同で設置され台がらはしだいに使われなくなった。
 食物の調理道具の一つに臼があり、ツキウス(つき臼)とヒキウス(ひき臼)がある。ツキウスとヒキウスの中間でスリバチが出現して、食物調理上大きい改良が加えられた。トロロ・ヌタ、アエモノ等の調理法が進み、明治になってから食べ物の種類も増してきた。このスリバチは別名カガスともいわれ、現在も使用されている。
 高度経済成長期以降、生活が豊かになり、家庭電化の時代へと進んで食卓は美食があふれるようになった。冷蔵庫に保管できるようになるとスーパーマーケット等で数日分の食材を買いだめするようになった。食品加工の技術が進み、外国からの輸入食材の増加や冷凍食品の開発により、調理方法も軽便となった。核家族や共働きの家庭が増え、惣菜や外食が増えたこともあり、包丁やまな板をあまり使わなくなった家庭もある。昔の郷土料理や手づくりの昧、おふくろの味は過去のものとなりつつある。

五 食事の場所
 かつて家のなかでの食事は、茶の間、いろりの周辺などでとった。特に忙しい時期の昼食は、おくどさんの付近で食べることが多かった。
 野良仕事で遠方に行くときは、弁当を持参して山で食べた。弁当はわっぱやこうりに入れられ、弁当袋・弁当ほごで運ばれた。
わっぱのふたは茶飲みにも使われるなど、食器の代用にもなった。
 飲料水も竹でつくった筒で運ばれた。近いところへ弁当を持参するときは、オヒツやツルカケに入れたまま持参することもあった。春の暖かい山で、れんげ草の咲く田のすみで、麦の穂の出たあぜで、一家そろって楽しく食べる弁当の昧は特別なものがあった。
 食器は、茶わん・汁わん・手塩ざら・ちょくなどで、これを箱ぜんに入れて一人ひとり別に管理した。
 これらは、昭和中期ごろまで農家等で見受けられた食風習である。