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双海町誌

第八節 家の建て方

一 概   要
 住居はいこいの場であり、働くための支えとなる家族と寝食をともにする場所である。しかし、農・漁業を生活の中心としていたころは、現実には仕事の場、つまり生産につながる労働の場としての住居という性格が強かった。今日では仕事場が切り離されている住居が多くなった。
 住居を構えるときには、自然の地形を巧みに利用し(水・風向・日射)、その上土工を加え、つまり屋敷ごしらえをして住みよい場所とした。
 この屋敷内に母屋を建て、そのほかに便所・家畜舎・物置小屋・風呂場等の付属の建物をもって二戸とした。
 家の間取りは、土間と板間の二つの部分に大きく分けられている。
 土間の部分は普通ニワといわれ、働く場所や物を置く場所として利用された。例えばニワには、わらをうつ石が据えてあったり、また、もみすり臼、唐み、台がら、野道具など働くための道具や、生産された品物である米俵・麦俵が積まれたりしていた。また、食品保管の役目を果たす芋つぼも掘られていた。
 板間(よま)は家族の寝食、お客さんの接待所にあてられた。普通接客にあてられた部屋は、表の間や神様が祀ってある部屋が多かった。
 表の間の奥隣りの部屋が主人の平常の居間で、仏壇やえびす大黒を祭る神棚、取りつけ箪笥や重要書類入れ、さらに酒や焼酎などをしまいおく戸棚などがあった。寝室は二通りあって、主人夫婦の寝室はナンド(納戸)と呼ばれ、このナンド(納戸)を息子夫婦に明け渡すことは、家督を譲ることを意味した。
 板間(よま)の部分は、四つに仕切った四間通りの家が普通の型で、これには左勝手(人口より左の方に板問がある)と右勝手(入口より右の方に板問がある)があった。昭和前期ごろまでに建てられた家は、今でもこの原形をとどめている。
 多くは、草ぶき入母屋式の家であったが、(中にはよせ棟や切妻式のものもあった)草ぶきの家は、現在ではほとんど姿を消している。
 暗く粗末で勝手が悪く、便所・風呂場・炊事場は特に不便であった。畳は平常あげておき、お客さんのある時やお祭り、正月に敷く家がたくさんあった。
 食事の場所は、いろりが中心であった。いろりは、明りと熱をもたらし、調理の役割を担ったが、家族団らんの場所でもあった。冬の夜長にいろり火を囲んで、よもやま話に花が咲き、いもやもちを焼いて食べたり、カケ食の山兎汁もつくられたりした。寒い日に牛に与えるハミもこのいろりで煮られた。
 いろりの火の管理はカカ座にすわる者、すなわち主婦と嫁の大事な役目であり火種を切らさぬように、火つぎをした。
 材料はクヌギ、カシ、ツバキなどの硬い木の炭を、寝る前に残り火の灰の中に深くいれておく。この火種を翌朝かきおこして、コクバを一つかみそえて、火の勢いを新たにするのである。この火種のつくり方でたびたび失敗すると、離縁になっても文句が言えなかったと伝えられている。
 いろりに使用する燃料は、タキ木、ワル木、木の根、たき付用としてコクバ、マツカサ、シバなどを用いた。火棚といって、こえ松、つけ木、マッチ等を置く棚もあり、自在鈎、五徳(三徳もある)、火ばし、金網などはいろりの効果を発揮する道具であった。
 関東と関西では、客座と主婦の座の位置は多少異なっていた。
 風呂は、奈良時代ごろから社会的慈善事業の一つとしてお寺に設けられた。江戸時代になってから大地主級の家に風呂場が設けられ、小作人や生活に恵まれない人たちが、少々のたき木を持参して湯をつかわせてもらった。中流の家では組合を作り、交代で風呂をわかすモヤイ風呂があった。明治時代になってからぽっぽつ各家に五右衛門風呂を持つようになったが、それでも隣近所でモライ風呂をしたもので、貧しい人々は自分で持つことができなかった。当地方に銭湯ができたのは、大正の初めであったが、一九七五(昭和五十)年ごろ姿を消した。
 採光と照明は考えてはきたものの、あまり変化がなかった。シトミ戸といって扉板を上にはねあげて、かぎにつりかけ、部屋の中を明るくする。閉めるときはそれを下ろす。こんな扉が最近まで見かけられた。
 夜の明かりとしては、三本の棒をよせて結わえ、その上に油皿をのせ、糸芯を油に浸したものを燃やして明かりとした。油にはツバキ油、エノ油、ゴマ油等を用いた。朔やお十五日に神様にあげるともし火も、この油皿に糸芯を浸し、それに火をつけて供えたものである。菜種油を使うようになったのは江戸時代も半ば過ぎで、それが広く用いられるようになって、ハットク(行灯)が室内照明に使用されたり、夜間外出するときにも用いられたりした。明治時代になり石油が使われるようになって、ハットクの中にカンテラを入れて明かりとした。
 明治の末から大正の始めにかけて、ランプを常に使う家はたいへんな金満家で、大抵の家は高い台の上にカンテラをのせ、それによって食事をした。
 カンテラやランプの時代を過ぎて大正時代末期から電灯となり、生活史上大革命が起こった。夜間の外出も、ローソクが安価となったためにタイマツからチョウチンに、更に電気の発明によって懐中電灯となって、すべてが軽便な生活となった。
 法師地区に珍しい家があった。今から四二〇年前のものと推定されるが、屋根は入母屋式で草ぶき、桜や栗その他の下木を使って建てられたもので、杉・桧・松等は一本も使わず、板材も使っていなかった。つまり、まる水そのままを用いていた。天井はニガ竹を編んでつくり、その上に土をぬっていた。
 壁は大かべといって、外から見て柱が見えないように厚くしていた。

二 建築の行事
 屋敷をつくるとか建前の際には、必ず神官に依頼して、地固めや建築が無事終わるよう神に祈った。山々に伐採してある材木の運搬は、隣近所親類の人々のコーロク(合力)によってなされた。今でもコーロクに行くとか、コーロクのお返しなどの言葉が残っているし、実際に行われている場合も多い。
 家の土台をつくることは大切なことで、コーロクにより、また、人を雇って地づき歌もにぎやかにドスンドスンとつき固める。
 「ヤンサモヤンサー。ヤンサノおこえがよー・そろた。こなたの屋敷はよいやしき。ぐるりが高くて中低で。宝の山がころげこむ。エンヤンサモヤンサ」赤だすきに赤はちまき、実に威勢のよいものであった。
 棟上げのときは、大工の棟梁が神を祭り、列席の者もお神酒をいただき、棟梁が四方がためという意味で、家の四隅に向かって餅をまき、それに続いて餅まきをする。その後大工・左官等工事に従事した人や隣近所・親類・故旧相集い祝宴が開かれる。この時祝儀として八木をかざる。翌日大工送りといって棟梁の家まで八木や酒肴を持参して、棟梁の家で酒宴が開かれ、上機嫌で景気よく帰ってくる。最近まで残っていた風習である。

三 か ま ど
 かまどは煮炊きする設備であるが、「オクドさん」「オカマさん」と呼ばれ信仰的な性格もあった。かまどには二種類あって、一つはクドという。これは火網も煙突もなく、土台は石を赤土で固め、上部は赤土に瓦の破片等を入れて順序よく積む。普通煮炊き、湯沸しが目的で、暖をとることも兼ねていた。冬の朝晩はたき木を燃やしながら食事の支度をし、手足を暖かくしたものである。また、ここで食事をとることもあった。
 付属品としては、ドウコといって二連の釜の中間に設置した湯沸かしで、冬の手足の洗いや夏の行水を行った。客のあった場合には、このドウコの中へ酒徳利を入れて酒のカンをした。そのほか、火吹竹、十能、ひばし等があり、普通炊事場の隅の方か茶の間近くにつくられていた。
 その二は、オカマといって、これも火網も煙突もなく、普通のクドより大きいものであった。構造は赤土を練って、なかに瓦の破片等を入れてつくり、その上に大きなカマをのせておくものである。正月のモチ米を蒸すとき、味噌や醤油の材料であるダイス、コムギ、麦、ソラマメなどを炒るとき、法要のうどんをゆでるとき、たくさんご飯を炊くとき、豆腐を作るとき等に使われたものである。これも炊事場の隅やニワの隅に設けられていた。このオカマさんは、ときに民俗的信仰がある。家の火所とし、また、農神にも関係があるので、家の大事な場所であった。しかし、昭和三十年以後急速に電熱器具やガス等が普及したので、現在新築する家からは姿を消した。

住居の見取図(左勝手の家)

住居の見取図(左勝手の家)


いろりの座順

いろりの座順