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双海町誌

第一〇節 物資の運搬・交易

一 かつぐ道具
 肩でかつぐ場合には、穀物、野菜、いも類、きゅう肥等をニナイホゴにいれて、サスで肩でにない、平たい道も坂道も運んだ。もちろん、かごも相当に利用された。
 木製の桶(タゴ)で下肥を運ぶときは、タゴをになう(かつぐ)といい、同じ容器でも飲料水を入れたとき運ぶものをニナイといった。土や石を入れて二人が棒を持ってかつぐときにはモッコが使われた。肩でかっぐ(テンビン又はサス)ことは上灘のほうが多く、例えば薪や牛の草をとってかえるのも上灘のほうはテンビンで肩にかつぎ、下灘のほうはカルイ子で背負った。昭和三十年ごろから農林道が急速に整備され、耕耘機に荷車を付けて運搬するようになり、更に自家用自動車が普及したので現在はほとんど使用されていない。

二 背負う道具
 背に負う運搬具としては、カルイ子(オイ子)があった。最近までときどき利用されていた運搬具である。これは最も重要な道具であった。はしご型の木製のもので、胴には縄を巻きつけて(ていねいなものはその縄に布を巻く)、背に無理のあたらぬようにしている。
 そのカルイ子の下の方には鈎型の足が二本ついているのがあって、荷物が下のほうにずれ落ちるのを防いだものもあった。もちろん、荷物は荷綱でしばって運ぶのである。このカルイ子は、米俵、イモ、畑の作物、薪、にぶ木、牛の草、肥料などを運ぶほか、お嫁入りの道具から、子どもを畑へ連れて行くのもこれに乗せた。
 ホゴやカマスに入れたものもこのカルイ子に乗せて運ぶので、まことに重宝な運搬用具であった。背負う人によるが、近い所へ運ぶには約八〇キログラムのものを乗せた。上灘から下灘へ嫁いだ人が(明治十五年ごろ)、カルイ子を背負わねばならぬので、人に会ったときかくすこともできず恥ずかしくて困ったというエピソードがある。これは、下灘でカルイ子が一般的に使用されていたことに対して、上灘ではほとんど使われていなかったことを表している。上灘ではテンビンを使う家がほとんどで、地域の違いが出ている。

三 ひっぱる道具
 肩につなをかけてひっぱるものにフネ(ねこ車)というものがあった。もちろん、これには一輪・二輪・四輪があるが、普通四輪である。このねこ車は材木の運搬に従事する若者にはなくてはならぬものであった。主として材木(松・杉・桧・竹)、にぶ木(クヌギ・ナラ・雑木)等を運んで現金収入を得たものである。このねこ車にテコ、テンコロ、綱等運搬に必要な完全装備をすると六〇キログラムほどの重さになる。この重いものを肩にのせ材木の集積場所(峠とか木かけ場)から一日に二回海岸の集合所へ運んだ。普通六〇〇~七二〇キログラム程度の材木を、テコと車しぼり(急な坂道で車の一つ二つを綱でしぼり、車を動かないように危険を防ぐ)、それからテンコロを打ち込んだ材木を二・三本地面に下ろして引き荷として、急にねこ車が進んだとき、操っている人間の危険を防いだ。それでも、時たまねこ車の下敷きとなって命を失った者もあった。
 このねこ車は大栄地区の吉太郎というコビキが、大洲藩主の参勤交代のとき、お供をして江戸に上がり、江戸で子どもが持って遊んでいたおもちゃにヒントを得て発明したものと伝えられている。このねこ車を操るテコ(梶棒)の使い方であるが、上灘のほうでは、これを股の中に入れて、ねこ車を操り、下灘のほうでは、人は右(又は左)におりてかじをとった。なお、特に坂道とか狭い道では、スラ(木馬)といって、船形に枠を組んだはしごのようなものを利用した。これは車がないので、地面をすらすので、木炭、薪、にぶ木等を坂道を利用して運搬するのに使用された。もちろん、人が操ったのは、ねこ車と同じである。
 昭和中期ごろには、農林道が整備され、自動車での運搬になった。

四 牛・馬・スミカゴ
 牛や馬に引かせたり、背負わせたりするときは、大量に物を運搬するとか、また、遠方へ運搬するときに利用された。牛馬に鞍をつけ、ムナガイ、ハラオビ、シリガイをつけて、鞍が背中を動かないようにした。材木は四〇〇から七〇〇キログラム程度の大きな材木をすらしながら運び出した。この仕事をする牡牛に山道で出会うと実におそろしいものであった。豊田の浜へは、田処や石畳の方から、牛や馬に炭俵を積み、首につけた鈴をチリンチリンとならせながら運んで来て、帰りは塩とか海産物、肥料などを積んで帰った。荷物のないときには、馬に人が乗り、馬子歌ものどかに帰る。
 「千両とるとも馬方おやめ。山の狼までまごまごと」
 稲の穂先もだんだんと重くなる旧暦九月十五日、豊田の浜で、シュロ皮市が開かれていた。田処や石畳方面から、シュロ(棕櫚)の皮を持参して売買の市が立つ。もちろん、牛や馬の背にはシュロ(棕櫚)皮をいっぱいつけ、人々もオイ子で運搬した。娘さんや若い婦人は尻をからげ、赤や桃色のゆもじを風になびかせながら出てきた。豊田の浜はたいへんにぎわった。これらの風習は昭和初期ごろまで続いた。
 そのほかの運搬用具で、スミカゴというのがあった。結納の時の品物、酒肴を入れて嫁方へ持っていくとか、嫁の里帰りのとき品物を運搬する入れ物、その他祝儀のときよく使われた竹のかごである。もちろん、かごをかっぐ人はニンソクといって別にあった。また、リョウガケ(両掛=)といって、木の箱に鉄の金具のついた入れものもあり、嫁入り、婿入りなどの荷物を入れて運んだ。

五 海上輸送
 海上の運搬には、伝馬船が多く利用された。もちろん、これは近距離である。長浜や郡中へ物を運ぶときにはこの伝馬船によることが多かった。三津と三机間を航海していた宝安丸、阪予丸等は、人間や貨物の大きな輸送力であった。もちろん、今から三〇〇年ほど余り前から、六反帆の大型和船が上灘の方にもできて、阪神・九州方面への運搬に当たった。
 千石船(どぶ船)が材木等を積んで瀬戸内海を往行していたが。昭和初期には海のトラックといわれる機帆船の出現や鉄道の設置で姿を消してしまった。
 四国民具研究会発行の「民具集積」や高岸三島神社に奉納されている帆船絵馬から、江戸時代後期の双海地域の海運業の様子がうかがえる。『民具集積』によると、江戸時代は大洲藩の領域にあり寛文年間当時は、家数五五軒、船数三艘うち六〇石積一艘、漁船二艘、加子数四一となっている。松山三津港へ出入りした記述では、一八六四(文久四)年に一三回、一八七〇(明治三)年に九回の入港となっている。このほか高野川にも船が存在していたことも記されている。
 一八四一(天保十二)年に奉納された三島神社の帆船絵馬には三七艘の船が描かれており、積荷のある船が二六般と積荷のない船が一一般描かれている。百石積の小型の弁財舟である。この船には船名が記されており、船名の頭に大洲藩の家紋である蛇の目が描かれていることから三島神社は大洲藩加藤家の累代の祈願所であるがゆえにこの紋章を使うことが許されていたのであろう。
 この帆船絵馬からみて江戸末期から明治時代にかけてこの地の林産物・農産物・海産物などが阪神方面へ積み出され、双海地域に必要な生活物資を買い求め関西地方との交易があったことが推測される。

六 交   易
 物がはしければ、そこには自然と交易つまりカエコト、カイモノが起こってくる。カエコトは主に、訪れてくる売り手を迎えて行い、穀物と塩、塩魚、海産物などを交易した。
 それが、ある一か所に諸所から品物が集まり、多角形的に交易するようになって市が発達し、カエコトも活気を帯びてきた。
 奥東地区の上ヶ市、満野や本村の久保開市など市のつく地名は、神を祭ること、つまりイツク(斎く)から出たもので、神祭りする場所であったことが推察される。人々が神祭りにやってくる。そこで生産物や収穫物を持ってきた者が、お互い物質を交換する。このカエコトをする場所をイチといったのではなかろうか。灘町や豊田の上浜は、新しい交易の場所として市がたち、遂にそれを専門にする商人が集まったところである。
 昔は市場の開かれているときに訪れて交易をするとか、アキンド(行商人)の訪れを待ってカエコトをしたのである。アキンドには男も女もいたし、ニナイカゴ(アキナイカゴ)といって、かごに品物を入れて、サスでになったり、大きな風呂敷に入れたりしてやってきた。
 漁師の女房が米や麦との交換や、また、魚を売るために農村を訪れるのも大きな交易であった。例えば米・アスキ・ダイスなどと煮干しを交換する、シュロ皮と塩を交換するといったようなもので、昭和初期まで残っていた。