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双海町誌

第一二節 別火・墓制

一 お産・月経・死亡時の風習
 お産の場所は、家の特定の場所である納戸(ナンド)を使用することがほとんどであった。
 産気づくと、畳をあげて荒こもを敷き、座ったままでお産をした。トリアゲバアサンを雇うこともあったが、慣れてくると自分ですべてを処理した。近所の人に来てもらうのは、念のためという程度のことであった。自分で産んで自分でウブ湯を使わせ、へその緒も自分で切った。ちなみにへその緒は、とりあえず「わっぱ」に入れて主人が床下に埋め、後に墓場の近くに埋めなおした。
 お産のあとの二~三日は、別火とか切り火といって、休養もかねて静かに過ごした。いずれにしても、今から考えると人間のお産とは思えない。
 別火は、月経のときが厳格であった。月経は不浄なものであるとされ、女性は家族とは別に食事をしなければならなかったのである。家の風習によって異なるが、三日間土間にむしろを敷いてその上で食事をしたり、オクドさんのそばに腰掛けて食物をとった。また、ついでもらったご飯を別の食器に移して食べたりもした。
 この不浄の期間中は、女性は神事一切に参加するどころか、神様が祭ってある座敷に入ることも遠慮した。神社の前などを通っても、決して拝むことはなかった。
 もっとも厳格な家になると、小屋・納屋などに起居させて、家族とは別の火を使って食物をつくり、それを食べさせた。仕事も少し遠慮させた。これらの風習は、明治とともにほぽ姿を消した。
 また、月経中に牛小屋の上に登ると、火事が起こるという迷信もあった。
 一方、死亡の場合は別火というほどのことはなかったが、忌明けは四九日目で、その期間中は家族一同は神様を拝まなかった。また、完全に忌明けになるのは、正月を迎えてからのことであった。今日でも「喪中につき新年のごあいさつを遠慮いたします」という通知を出すのは、忌中を意味しているからである。

二 墓制の変遷
 昔、地方の特別の家には墓場が二つあった。石塔を立てて祀る場所と、埋葬される場所が分かれていたのである。埋葬される場所に石塔が立つようになったのは近代のことである。
 つまり、埋葬場所に石碑を立てなかったから、時間の経過とともに、埋葬場所が分からなくなってしまったのである。閏住の岡部宅の裏山に農道をつけた際に、雑木林のなかから一個の壷が発見された。その壷のなかには骨が入っていた。これは、埋め墓と、おがみ墓の二つの墓制があったことを示す例と思われる。
 ちなみに、墓制のうちでも一番重要なのは、タマヤ(喪屋)とされている。元来タマヤは、親族が喪に服してこもる小屋であった。