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双海町誌

第一三節 年中行事

 年中行事とは、一年の中で一定の日・期間に慣例として行われる行事や祭事のことをいう。それには、信仰にまつわるもの、健康にかかわるもの、仕事や苦しみからの解放の願い、生産活動に結びつくもの、報恩の行事、家族や社会の連帯意識の触発等数多くの意味を含んでいる。
 今は行事に対する意義が伝えられなくなりつつあり、単なる迷信とか古いしきたりとして片付け、忘れられかけた行事もある。しかし、どの行事も、時代を経て地域住民に愛され、それぞれの地方で風習となって伝えられてきたものである。
 地域の年中行事に参加することは地域社会から認められることにつながり、しだいにその行事に必要とされる人物になることが往々にあったことからも、地域の連帯感育成や次世代への伝承という一面も担っていた。
 なお、ここでは民間の習俗という見地から関わりの薄いものもあるが、現在の生活に根づいているという考えから年中行事として記している行事もある。

「一月=睦月」
正月の祝
 元日は、一年の最初の行事として昔から尊んできた。前年の年の暮れに、お飾りを家の入口・風呂場・便所・炊事場・神棚・仏壇・農具・船・牛小屋・井戸端等に飾りつけておく。元日は早朝に男性が起き、小川で若水を汲み心を清め四方へ礼拝する。その水で雑煮を炊きお正月の神様に供え、家族が新年の挨拶を交わしてお神酒を頂く。新鮮な気持ちで新年を迎えられたことを喜び、今年も豊かな生活を営む決意をするのである。またこの正月の三日問は、挨拶に来る客に対してお神酒でもてなす。家の玄関に立てる門松は、もともと年神来臨のための依代であった。現在は松を保護するため、生活改善運動の一環としてで門松の代用品(門松を印刷したもの)を配付している。
 正月料理は、その年の幸せを願い、災害を避けたいという心の現われが各所に盛り込まれており、おせち料理や雑煮は正月を代表する食べ物である。雑煮のことを古くは「餅に菜肴を加えて羹(あつもの)にしたものなり」といっていた。双海地域では、いりこだしに野菜や丸餅を入れ、うすくち醤油で味をつけるものが主流である。
おせちの詰め合せ(四段重ねの場合)
 ・一の重(祝肴)……照りごまめ(田作り)、黒豆、カズノコ、昆布巻き、小梅、かちぐり、ちょろぎなど
 ・二の重(取り肴)…口取りを詰める。ときには焼き物も詰める。きんとん、かまぽこ、だて巻、魚の照焼き
 ・三の重(煮物)……野菜の旨煮。ハス、クワイ、ニンジン、ゴボウなど
 ・与の重(酢の物)…四の音は縁起が悪いときらい、与と呼ぶようになり、食事の終わりに口をさっぱりさせるため酢の物や香の物(紅白なます、菊花かぶなど)を詰める。

 初参り(初詣)
 夜中の除夜の鐘を聞きながら神社やお寺へ初詣に行き今年の家内安全等を祈る。本来は正月三が日のうちに参拝するものといわれている。

 年始まわり
 普段お世話になっている知人・友人・親戚などに年始の挨拶に行くこの風習は、いつの時代になっても残したい日本の美しい風習とされていた。

 書 初 め
 若水を汲み墨をすって吉の方角に向かって、めでたい詩や歌を書くことにある。今年も豊かな勉学になることを期している。

鍬 初 め
 正月二日は、餅・干し柿・ミカン・クリ・煮干しを紙に包んで、裏白とともに畑に埋める。これが一年の鍬の使い初めとされている。また、この日の朝食はぜんざいをつくって食べることになっている。

乗り初め
 正月二日、漁家では今年の大漁を願って、舟玉様に大きな重ね餅を供え、お神酒をあげて飲み、乗り初めの儀式をする。また、竜宮様にこの年の海上安全祈願をする。なお、魚の穫り初めの儀式もこの日に行われている。

山の口開け
 その年初めて木を切る場所に、カキ・ミカン・クリ・餅・煮干しを供えて山の神を祀った。木は切って売られた。

七 草 粥
 正月七日に春の七草粥として七種の野草(セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコペラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロ)を入れた粥を食べる。消化をよくし、血圧を下げるのに効果的で一年中病気にならないよう祈りを込めたものである。また、同じ日の風呂には七草(ナズナ)を入れ、一年の健康を祈る風習もある。

おひまち
 一月十日未明に小網地区で行われる大漁祈願の行事である。漁業に従事している地区の青年たちが海中でみそぎを行い、海水に浸したわらでつくった注連縄を張り、餅をついて神棚に供えて大漁と繁栄を祈願する。

念仏の口開け
 十六日は、組中の者がお堂か当番の家に集まり、念仏を唱えて仏の供養をし、一年中の安全を祈る。供養したあとは飲食をする。

藪 入 り
他家へ嫁いでいる娘や、手伝い奉公の出稼ぎの人たちが、十六日に里方の親のもとに帰り、日ごろの労苦をいやして心の安らぎを得る。彼らにとっては、一年中で最大の楽しみとしている日であった。現在は、正月の帰省にその風習が残っている。

大   寒
 一月五・六日が小寒の入りとなっている。この小寒から一五日後が大寒(一月二十日か二十一日)で立春の前日(二月三日)が寒の明けとなって、この約一か月を寒の内といっている。寒の季節は人間の精神の鍛錬をする期間として剣道・柔道・弓道等の武道や日本古来の芸道の寒げいこを行った。中でも坊さんの寒念仏は厳しい修行の一つといわれている。一般庶民は、寒参りといって誘い合わせてお寺や神社へ参詣した。
 寒の水に餅をつけておくと長持ちするといわれ、正月餅を水餅にしたものである。

[二月=如月]
節   分
 節分は立春前夜二月三日ごろの行事で、衣食住すべてに気分転換をする日である。節分の夜には厄払いといって白紙に一円玉とダイズのいり豆を入れて四辻に落として帰るか、橋の上から川に落とす風習があった。家では「福はうち、鬼はそと」といって家の内から外庭へいり豆を撒いて悪魔や病気払いをする。自分の歳の数だけいり豆を食べると健康でまめな一年が過ごせるといわれている。また、家の入口の神仏に、たらの木を小さく割ってトベラの葉をはさんだものと、イワシの頭を竹の先に刺したもの、及びダイズのいったものを供える。節分にカキモチを食べるのが子どもたちの楽しみであった。

針 供 養
 昔の女性は裁縫ができないと一人前の嫁と認められないことから、花嫁修業の一つとして裁縫を習っていた。この和裁の作業で使い損じた針や折れた針を集めてコンニャクや豆腐にさし、紙に包んで川に流す行事が針供養である。針の大切さと手につけた技術の尊さに感謝を込めて供養をした。

[三月=弥生]
ひな祭り
 三月三日はひな祭りで女の子の行事である。桃の節句と呼ばれ平安時代に人形をつくり、それで体をなで、災厄を払い川に流すということが行われたことに由来している。江戸時代になってから、女子の誕生を祝ってかざりひなを飾り、ひな祭りをするようになったといわれている。その後、女の子が生まれた初の節句に飾るおひなさまが母の実家から贈られる風習が定着している。女の子の健やかな成長を願い人形をひな壇に飾っている。
 ・一五人揃いのひな人形(内裏びな一対・三官女・五人囃子・右大臣・左大臣・三衛士)
 ・調度類(箪笥・貝桶・長持・挟み箱・かご・茶道具など)
 ひな祭りには菱餅やさくら餅、ひなあられ、ハマグリ、白酒をつくり振舞った。

彼   岸
 春分の日と秋分の日の前後合わせて七日問の彼岸に、お寺やお墓にお参りし先祖の供養をする。祖先の墓を清掃し、彼岸餅・マンジュウ・だんごをつくって仏前に供える。なお、新仏を迎える彼岸を「アラヒガン」という。親戚は特に墓参する。

[四月=卯月]
お 節 句
 本町では、四月三日に月おくれのひな祭りを行い、翌四日にひなあらしを行っている。四日はちょうど桜の花が見ごろの時期であり、花見も兼ねて地区ごとで酒宴が催され、地区内の融和を図っている。昔から「ノラの節句働き」という言葉があるが、これは休日には物忌して、つつましく平素の働きをひかえるべきだという考えである。休日を休日とせず仕事をするような者を怠け者と言ったのであって、平常遊んでいて節句に限って仕事をする者を指したものではない。

濯 仏 会
 四月八日に釈迦の降誕を祝して行う行事である。お寺のお堂の中で水盤にお釈迦さまの誕生仏を安置し、参詣の人は甘茶をお釈迦さまの頭上に注ぎ、それを頂いて帰り家族で飲む。これを飲むと善男善女になれるといわれている。なお、二十一日はお大師様の縁日、二十四日はお地蔵様の縁日でにぎわう。

[五月=皐月]
菖蒲節句・端午の節句(こどもの日)
 五月五日は端午の節句といい、軒を菖蒲で葺き、武者人形を家に飾って柏餅をべた。菖蒲を屋根に上げ毒気を払ったり魔除けにしたりした。また、菖蒲を風呂に入れ薬草風呂にしたり、菖蒲酒をつくって神様に供え、飲んだりするところもある。五月の空に泳ぐ鯉のぼりと吹き流しは戦のときの目印に用いられた。これらは、勇壮な男児を意味し、鯉は出世魚で天に登って竜になるといわれたことから男児の出世を願って立てられたものである。
 この日は、柏餅を作って食べるが、これを包むサルトリイバラの葉は薬であり、香りも高く毒気を払う(祓う)のに都合がよいといわれる。ヨモギは腹の薬、茅は毒気を払う猛々しいものとして、田植前の清めとして使用されてきた。
 現在は、男児のいる家で鯉のぼりを掲げたり、武者人形を飾ったりしている。これらは男の子が生まれた初の節句に母の実家などから贈られる風習が定着している。また、本郷や大栄では吹流しや鯉を谷に渡し、地域の風物詩となっている。

母 の 日
 五月の第二日曜日は母に感謝する日と定めたもので、戦後アメリカから伝わって一般化したものである。お母さんが健在な人は赤いカーネーションを、亡くなった人には白のカーネーションを贈ることがならわしとなった。
 かつてはこの祝日にちなんで母の日のバレーボール大会を催していた。普段町内行事の慰労会の料理は女性が担当しているが、この日は男性が料理をして女性選手を招待する公民館もあった。

[六月=水無月]
父 の 日
 六月の第三日曜日を父の日と定めている。もともとはアメリカから伝わった風習だが、母の日が定着するに伴って普及してきた。「母の日があって、父の日が無いのは男女同権の立場から不都合である」という考えもあったようだ。家族のために一所懸命に働き家族の生計を養う父に感謝を表す日である。

大 掃 除
 梅雨期の太陽の照る日曜日を選んで家族総動員で家の大掃除をした。家の周囲や軒先の塵・戸棚の隅まで風を通し、畳を上げて外で日光や風にあてて湿気を払い、一年中の埃を除いて害虫やネズミ退治に備えたものであった。

【七月=文月】
ご祈祷会
 田植えも終わってやや落着いた七月中にお寺で祈祷会が行われていた。大きなじゅずを皆がまわしながらお祈りする。地区によっては、一〇八周まわすと決まっているところもある。祈祷会は悪病よけ、虫退治の意味が深かった。田や畑には作物に害虫おっかないように、竹の先にお祈祷札をはさんで立て、地区の入口や境にしめ縄をはって、それに大きな草履をつるしたり、お守り札をはさんで立てたりした。方法は簡単になったが、現在も農村地区に伝承されている。

おこもり
 毎年一回田植え後、産土神や付近の由緒あるお宮、お堂などで、田休みのおこもりをした。植付が無事に終わったことを神仏に感謝するとともに、慰労会をかねて地区内の親善融和を図った。各自が、カボチャ、コンブ、ジャガイモ、こんにゃく、豆腐、キュウリのあえもの、ぬた等をつくり、重箱に入れて持参し、お互いに交換しあって食べ飲みした。更にドジョウスクイやイソブシの歌と踊り、皿踊りなども出現して陽気な一日を送った。
 正月のおせち料理に欠くことのできないタツクリ(田作り)の風習や植えつけの感謝と今後の豊作を祈るおこもりの風習は、米作りを大切にしてきた日本の農民の素朴な心の表れである。

夏 祈 祷
 地方神に頼んでご祈祷をし、夏を元気で過ごすことを祈る。地域の入口にしめ縄を張ってそれに大きな草履をつるしたり、祈祷札を立てて組中に悪病が入らないようにして、祈りを込めた。また、氏神様のご祈祷札を田や畑のなかに立てて、虫封じをした。

七夕(月おくれの八月七日)
 七月七日の七夕は中国から伝えられた星まつりの節句である。七夕の神話は、天帝の女の織女星が天の川を隔てた牽牛星と結ばれたが、甘い結婚生活に溺れ仕事を怠ったため天帝の怒りにふれ、天の川を挟んで引き離されてしまう。一年に一度だけは逢うことを許されるという話である。
 この日は新竹笹を軒に立て、これに短冊の色紙に自分の願いや詩、和歌や星に関する文句を書き止めたものを吊るしたり、折紙や紙細工の手毬を作って吊るしたりした。灘町商店街では夏祭り合わせて大型の七夕笹飾りを出し、各丁目の対抗で品評会をするなど名物となったこともある。
 この日、祭壇には、ウリ、ナスに足をつけて牛形にして供え、糸になぞらえてそうめんを供える風習があった。スイカやブドウ、ナシ、モモ等の果物や野菜、柏餅等を供えた。七日の夕方には七夕送りといって、笹を川や海に持って行き流した。この行事は文字や女児の裁縫の上達を願うものであり、子どもが管理することが多かった。

土用・虫干し
 七月二十日ごろからの土用は一年のうちで最も暑さが厳しい時期である。体力は消耗し、食欲は低下して油っこいものは敬遠したくなる。そういうときにうなぎのような脂肪分の多い食べ物を摂るのは、夏バテ防止に効果があるとして食べるようになった。このほか土用餅といってあんこの入った餅や、川魚・ハモ・ナスなどを食べ夏バテ対策にした。
 土用の虫干しとは、寝具・衣類・敷物・書物・掛け軸等の日干しや、梅干などを屋外で夜露に当てて乾かすことである。長く湿っぽい梅雨の季節に必要な暮らしの知恵といえる。

夏 越 し
 七月三十日に氏神様の拝殿に大きな茅の輪を作り、その輪をくぐって厄を祓う行事である(詳細は、第四編第二章参照)。

[八月=葉月]
お施餓鬼(水祭り)
 その年に亡くなった人の魂を祀るため八月の初めに親戚が参加してお寺で供養する行事である。

孟 蘭 盆
 八月十三日から十六日までは孟蘭盆といわれ、正月と並んで大きな年中行事のひとつである。十三日の夕方、迎え火をたいて先祖の霊を迎え、鐘をたたいて家へ入れる。三日間珍しい食べものを供えて共に過ごす。十六日の夕方、送り火をたいて先祖の霊を送る。その期間は玄関先に新竹を四本結んだ棚を作り、供物をする。
 この日は、オクリダンゴ、野菜なます、ごま豆腐、かんぴょう、豆腐料理などを作って霊前に供える。おはぎ(ボタモチ)や精進料理を作って集まった人にもてなす風習があった。

藪 入 り
 藪入りは冬の一月十六日に行う慣わしがあることから、八月十六日のお盆の休みは後の藪入りといわれていた。年間二回だけは定期的に家族の待つ我が家へ向かうことができた。
 現在でも郷里を離れていた者が長期の休みをとって帰省する習慣がある。

盆 踊 り
 盆踊りは芸能・神仏・魚や生きものを殺生した供養のための念仏踊りから変化したものといわれている。池之窪の土山地蔵・石ノ久保の西森地蔵での盆踊りは、古来からの弁慶踊・薙刀踊・おそめ久松踊・弓扇子踊・手踊りが伝承されてきた。下浜・小網の踊りも漁業を営むことから魚の供養のための手踊りであった。石灯籠を背負って踊る人・女に変装する若者が踊りの雰囲気を盛り立てていた。今は民謡や流行歌に振り付けしてほとんどの地域で現代風潮へと様変わりしているが、池之窪土山地蔵では手踊りの盆踊りを行っている(詳細は、第四編第二章参照)。

[九月=長月]
敬老の日
 一九五一(昭和二十六)年に国民の祝日に定められたもので、九月十五日(平成十五年から九月の第三月曜日に改められた)を敬老の日として町内各地で祝賀の催しが行われている。この一週間を老人週間とし、敬老会や慰安会で老人をねぎらったり、老人ホームを慰問して高齢者表彰を行ったりしている。双海町では一〇〇歳を迎えた人には永年社会に貢献された祝い金として一〇〇万円を支給している。

お 月 見
 陰暦の八月十五日を中秋といって一年のうちでいちばん澄みきった大きな月を鑑賞する風習がある。中国の中秋節に由来したもので中秋の名月ともいっている。次第に農耕的なものと結びつき、ススキを生け花として、月見団子・サトイモ・エダマメ・ウリ・サツマイモ・果物などを縁先へ供えた。最近では鍋にサトイモなどを入れて調理し、夜涼みを兼ねたいもたきによる月見の宴が催されている。

[十月=神無月]
名   月
 栗名月・芋名月・豆名月がある。収穫を感謝し、健康を祈る行事である。サトイモに味噌をつけて食べたり、エダマメを茄でて食べたりする。

道つくり
 秋祭りが近づくと、組中が奉仕で道づくりをする。これはお社日の作業とされていた。社日とは、春分と秋分の日に最も近い前後のツチノエの日のことである。この社日には、土の神を祀って、春は作物の成育を祈り、秋は収穫を報餐した。また、昔から社日には田や畑には入らない信仰上の風習があった。

秋 祭 り
春夏の祭りは簡素化されているが、秋祭りは収穫を感謝する祭りとして氏子総出で盛大に開催される。昔は親類や知人を呼んで、ともに酒を酌み交わしながら親睦を深め、神に感謝する一大行事であったが、戦後その姿が次第に失われてきた。
 下灘では十月十九日・二十日、上灘では十月二十二・二十三日が祭礼の日であったが、一九九四(平成六)年から町内統一日として十月二十二・二十三日に行われている。
 祭礼の日には若衆が神社に集まり、お神体をお神輿に移して氏子の家を巡回する。神社から神様をお迎えする場所をお旅所と呼んでいる。お旅所は、神社と最も縁が深かったところとされ、普段でもしめ縄が張られ、霊地とされていた時代もあった。
 秋祭りは、作物の豊穣や魚介類の大漁を祝うものなので、神社に五穀や魚を供える。鯛めんや鯛めしを作ってお祝いするという当地方ならではの風習もあった。
 現在では、集落によっては若者も少なくなったので、総出でみこしをかついでいる。天一神社では神楽や獅子舞の奉納が行われている。

[十一月=霜月]
亥 の 子
 亥の子は十一月の亥の日に農神(おいべす)大黒様を祀り、作物の五穀(米・麦・粟・マメ・キビ)豊穣と家内安全を祈って祝うものである。
 亥の日の夕方、子どもが石造りの亥の子を担ぎ各家の門前に行く。亥の子歌を音頭だしがうたい、他の子どもは一節ごとにヤンサモヤンサと拍子をとって唱える。それに対して家主は祝儀を出す。特に新婚の家では亥の子の亥の意味は猪のことで多産系にあやかって子宝に恵まれ子孫繁栄を祈ったものである。
 亥の子の日に家の入口に柚子をつるすと盗難にあわないといわれた。また、一番亥の子に「炉開き」(こたつを出したりいろりのたき初めをすること)をすると、火災を起こさないともいわれた。
 石造りの亥の子ではなく、ワラで作った「ワラボテ」や自動車のタイヤでついたり、みこしをかついだりして祝う地域もある。

文 化 祭
  一九四六(昭和二十一)年十一月三日、新憲法が公布され、日本は平和への意思を基本に文化国家の道を歩むようになった。この日を記念して十一月三日を「文化の日」と定めた。戦前の明治節である。
 本町では上灘・下灘両地区で文化祭が開催され、三六年の歴史を誇っている。発足当時公民館では花いっぱい運動を展開し全公民館へ菊の苗を配付して栽培の指導を入念行った。秋には見事な花が咲き各公民館から品評会の要請を受けて文化祭の口開けとなった。今では一年かけ丹精込めて作った農産物の品評会や芸能発表、民俗資料・生花・絵画・書道・手芸・幼小中の児童生徒の作品などの展示、お茶席・バザーによる食堂などが催され町内随一の文化の祭典となっている。自治公民館では水族館やせり市・手作りコンニャク・餅・魚の天ぷら・ドーナツ・果物等の出店を行い、賑わいをみせている。

[十二月=師走]
田 楽 焼
 十二月八日には、一年間の生活のなかで数々の嘘をついた罪を焼き払って捨てる田楽焼きの儀式が行われる。この儀式は嘘払いとも呼ばれている。
 田楽焼きとは、豆腐を厚さ一センチ余りの長方形に切り、軽い重しをして水を切り、竹の串に刺して両面を焼き、さらに練り味噌を塗って二度焼きしたもののことをいう。この行事は、日本人の潔白性や正直性を表しているといえる。特に禅宗の寺で行われた行事であった。

念仏の申し納め
 組中の者が巡回する当番宿において行われる念仏講のことをいう。一年中の不幸が終わりをつげるという意味から、寄り合い仏の供養と併せて念仏を唱えた。終了後は、酒肴が出て、世間話に花が咲く。

冬   至
 冬至は十二月二十一・二十二日ごろである。一年中で昼がもっとも短く、夜が一番長い日である。この日を境に昼が返ってくるという季節の境目である。冬至の日にカボチャを食べると、中風・風邪・霜焼けにかからないといわれている。この日は柚子湯がつきもので柚子を入れた風呂で体を温めると風邪を防ぐといわれ、柚子湯を立てて飲むと健康にょいとされている。

クリスマス
 十二月二十五日はイエス・キリストの誕生の日といわれクリスマスとして西洋で最も華やかな祝日になっている。
 子どもたちは、深夜、サンタクロースのお爺さんが大きな袋に宝物を入れて家を訪れ、枕元に置いてくれると信じている。家庭では楽しい夕食を囲みクリスマスケーキのロウソクに火を点してお祝いし、楽しい団梁の中でプレゼントの交換をしてパーティを盛り上げている。

手まりつり
 柳の枝に餅菓子と手まりをつるし、女の子の成長を祈る風習。手まりはもともと女の子の遊び道具の一つである毬を手で突く遊戯のことを指したが、しだいに毬自体を指すようになった。

大 晦 日
 月の末日を晦日といい、一年の最終日の十二月三十一日は大詰めに当たる日であることから大晦日といわれる。昔から、冬至のことを小蔵といい、大晦日を大蔵といってきた。
 大晦日は正月を迎えるためお金の収支や正月準備に忙しい年の暮れの一日である。家族総動員で住宅の周りの清掃を行い、日頃手の届かない天井や神棚、ガラス、軒下などの埃を払う。また正月のしめ飾りを張り、床の間に正月の神さまを祀って元旦の日に備える。さらに朝から煮炊きを始め、おせち料理づくりに忙しい。正月準備が片付くと夕食の年越しそば(地方によっては運そば)を食べる。この日そばを食べることには諸説あるが、そばは細く長いので縁起がよいとした説や、そばが切れやすいことから、一年の苦労や厄災、借金を断ち切るのによいとする説がよく知られている。いずれにしても、年越しそばは、今なお歳末の風物詩として定着している。
 新しい年を迎えるに当たって除夜の鐘を聞きながら心静かに去る年の思いを振り返り、来る年の幸せを祈る風習こそ、長い人生を歩むかぎり久しく続く美しいしきたりといえる。