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双海町誌

第一六節 郷土芸能・娯楽

一 盆 踊 り
 地域をあげての夏の行事である盆踊りは、農事に関するまじないの儀式から生まれ、それが共同体の娯楽と結びついたものである。かつては、稲の虫害や、風害、水害、疫病の流行などは、すべて邪悪な霊たちのしわざだと考えられていたため、踊りの所作で地面を強く踏みつけ、更にハヤシの音も加えて悪霊を驚かせて追い払うようにする呪術的行為があった。この儀式と盆行事とが融合し、地域のすべての男女が豊作を祈り、悪霊を遠ざけ、精霊を迎え送る祭りの行事へと発展したのが盆踊りである。
 近代に入ってからも、八月のお盆の時期になると、各集落の寺社や広場(この地方では、例えば豊田の上浜、下浜、灘町や小網など)にヤグラが組まれ、そこに音頭人やハヤシ人があがり、念仏小歌やクドキの声と太鼓、三味線、笛、拍子木の音を響かせ、人々をにぎやかな踊りの輪に誘いいれた。灯火に照らされた踊り手たちの輪のまわりには、焼酎や清酒で上機嫌となった男たちの赤く光る顔もあった。
 かつて盆踊りで歌われた「ハヤシ音頭」には、以下のようなものがある。
・扇子投げたが、届いたかしらん。なんで届かや、投げもせず。
・そろた、そろたよ。踊り子そろた。稲の出ホコより、まだよくそろた。
・地蔵様には御遷座願て、港を築いて船入れる。
・本尊の山から港をみれば、出船入り船よくみえる。
・上灘よいとこ、お山を受けて、酒は島屋の島錦。
・太鼓たたいて踊り子寄せて、品のよいのを嫁に取る。
・なんぽ思うてもおまえはきらい、磯のアワビで片思い。
 また、踊りの種類には、次のようなものがあった。
・手踊り 昔から伝わる踊りで、最初に踊るならわしだった。
・花踊り 左手にボデン、右手に扇子を持って踊る。
・傘踊り 女は日傘、男は刀を持って踊る。
・ボデン踊り 二人が組になり、右手にボデンを持って踊る。
・両ボデン踊り 両手にボデンを持って踊る。
・扇子踊り 二人が組になり、両手に日の丸扇子を持って踊る。
・牛若踊り 二人が組になり、女は長刀、男は刀を持って踊る。
・団七踊り 三人が組になり、前は長刀、中は刀、後ろは鎖鎌を持って踊る。
 なお、特徴的な踊りとして、池之窪地蔵堂の盆踊りがある。一八八七(明治二十)年、地蔵菩薩に奉納するため、石ノ久保の弥吾という人が手ほどきしたといわれ、踊り手はすべて子どもであった。このエピソードからわかるように、石ノ久保地区の手踊りは有名であったが、後継者不足などの理由で昭和四十四年ごろに途絶えた。
 現在本町の盆踊りには、池之窪や灘町など地区ごとに行われるものがあるが、その起源であった呪術や祖霊崇拝のおもかげはなく、夏の夜の地域のふれあいのひとつとなっている。

二 獅 子 舞
 獅子舞は、一般に獅子頭をかぶって舞い踊る伝統芸能だが、かぶりものには、外来のライオン系と、日本固有のシカ(カノシシ)・イノシシ系がある。獅子神楽、シシ踊りともいう。ライオンを意味する獅子(漢語)とイノシシのシシ(和語)は、本来無関係なことはだか、民間で同一視されて、「シシ舞い」「シシ踊り」といった名称が、どちらの意味にも使われるようになったらしい。
 ライオン系の舞いは、奈良時代に中国(唐)から移入され、宮中の散楽、舞楽、伎楽として行われたが、民間では田楽や神楽に取り入れられて、五穀豊穣と悪魔払いを祈願する行事となった。獅子のほかに、獅子アヤシと呼ばれる天狗オカメ、猿なども演じられ、笛や太鼓のハヤシ方が伴奏を務める。両谷地区に残っている獅子舞は、このライオン系の舞いである。
 シカ・イノシシ系の舞いは、盆の祖霊供養、祭礼、雨ごいなどの際に演じるもので、胸に太鼓をつけて打ちながら踊るのが特徴である。かつて、三島の三島神社、高岸の三島神社、天一稲荷神社の秋祭りでは、氏子たちが急テンポの太鼓、笛に合わせて踊る姿がたいへん勇壮な見ものだった。
 戦後途絶えていた獅子舞も、一九七〇(昭和四十五)年に岡地区で復活し、ついで一九八五(昭和六十)年に両谷地区でも復活をみた。
 現在両谷地区の獅子舞は、双海町文化祭で毎年披露され、昔ふままの力強さをみせている。

三 神   楽
 神楽は神に捧げる芸能の一種で、お神楽、巫女舞、里神楽の三種に大別される。本町では、巫女舞と里神楽が昔から伝えられている。豊田神社では、四月十五日にお神楽が演じられるが、演じる太夫は藤縄(大洲市田処)から来ていた。
 巫女舞は社殿で演じる舞伎で、二人、四人、六人で舞うのが本式だが、一人だけで舞うこともある。下げ髪に天冠をいただき、白無垢に緋色の長袴をはいて、手に鈴または檜、扇、榊を持って、ゆったりと清楚な所作をみせる。現在も九月一日に小網の若宮神社で一人舞が行われている。
 里神楽は、主に神社の春祭りのときに奉納される。笛、太鼓、鉦などの神楽バヤシに合わせ、仮面のダイバ (建御名方神=たけみなかたのかみ)や女神が舞うことが多い。ダイバは現在でも高岸三島神社・本郷地区の秋祭りに登場し、みこしとともに地区を練り歩いている。
 神楽の内容は、古代神話を劇化したものである。天の岩戸を出た天照皇大神が舞う「岩戸開き」や、大国主命の国譲り神話にまつわる建御名方神と建御雷命の格闘などが、滑稽なしぐさをましえて演じられる。建御名方神は勇ましい武神なので、子どもがこの神様に抱いてもらうと元気な子に育つといわれ、頼んで抱き上げてもらう姿がよくみられた。

四 ほうらく
 「ほうらく(法楽)」は、もともと仏教用語で、仏の教えを受ける喜び、悟りの境地の喜びのことで、更には仏前に芸能を奉納することでもあった。それが一般に、娯楽・慰安の意味をもつようになり、ここで紹介する「ほうらく」は、かつて庶民の数少ない娯楽のひとつだった芝居見物を意味している。
 テレビもラジオもなかった明治・大正のころは、農村漁村の人々にとって、まれに訪れる旅まわりの芝居や人形芝居を見ることは、またとない楽しみだった。豊田の下浜には特にしばしば旅芸人がやってきたし、小網や灘町の海岸ばたにも、ときどきムシロ小屋が立つことがあった。これらの芝居小屋では、通常はもちろん木戸銭を取ったが、網元や漁業組合が請け元として後援している場合は、無料でみせるのが普通だった。近隣の人たちは、寿司や魚を重箱につめ、酒も忘れずに用意して小屋につめがけ、土間に腰をすえて飲みながら食べながら見物した。むしろ飲食のほうに主要な目的があるようでもあった。こうした無料開放の観劇が、漁師たちの法楽であった。
 なお、木戸銭を取らない興行では、有志がお花(心付け)を出す習慣もあった。芝居の幕間には、そうしたお花が、景気のよい口上で披露された。
(拍子木の音カチカチ)「トーザイ、トーザイ。ただいま下しおかれるおん花金一封。……様ごひいきとあって、請け元に下さる。またまた下しおかれるおん花。右は……様ごひいきとあって、これも請け元だけに下さる。またまた下しおかれるおん花。おん樽一荷、おん肴。右は……様ごひいきとあって、芝居連中に下さる。高うはございますが、幕内より花の御礼」(拍子木の音カチカチ)

五 相   撲
 「日本書紀」に相撲の起源説話が記されていることや、「奉納相撲」ということばがいまも記憶されていることなどをみても、この競技が神事と深い関係をもっていることが分かる。
 「相撲は馬鹿がとって利口が見る」などと、失礼な言い方もあるにはあったが、昔は神社の祭礼や地域の特別な行事として行われたものである。祭りの日に境内で(つまり神前で)相撲大会が開かれると、近郷から力自慢の若者が競って参加した。

六 賭 け 事
 賭け事は自分の運を試すものだが、これはもともと神意を問う占いから発した。サイコロを使って行う丁半バクチも、昔、神社の例祭をとりしきる頭家が、住民を代表してサイコロをふって神様の御こころをたずねたことに由来している。相撲にしても、バクチにしても、昔は勝負事が行われる場には常に神様の目が光っていることを、人々は意識していた。庚申待ちの夜などに若者たちが行ったかけ食いも、やはり賭け事の一種である。
 そのほか、近代以前の娯楽の少ない時代には、余暇を利用しての勝負事は、どこの地域にもみられるものだった。おとなたちは、冬の夜長にカガス転がしをして楽しみ、子どもたちは昼の路上でパッチンコの腕を競い合った。

七 子どもの遊びと玩具
 子どもたちの遊びの中には、もともとおとなの宗教儀式だったものが少なくない。鬼ごっこ、目隠し鬼、かくれんぼなどは、神様の事績を讃える演劇だったものを、子どもがおもしろかってまねたことが始まりである。女の子が遊ぶ手まり、お手玉、品玉も、はじめは年頭の年占いの道具として使われたもので、玩具となってからも正月になくてはならないものだった。
 コマもまた、正月の遊び道具の代表的なもので、我が国には平安時代に渡来した。大昔は、コマを使って神意を問う儀式(人々の輪の中でコマをまわし、倒れたときの向きを見て、神様が選んだ者を知る)もあったというが、やはり何よりも子どもの玩具として喜ばれた。正月には、男の子は竹馬、陣取り、ベースボール、女の子はゴムまりつきなどもして楽しんだ。
 はっきりと呪術的な性格を表わしていたのは、夏祭りで売っていたお面である。鬼、狐、天狗、おたふく、おかめ、ひょっとこなど、お宮やお地蔵さんの祭りでは必ず売っていた。お盆には、扇子や花火なども買ってもらった。
 そのほかに、石けり、まるとび、国取り、片足相撲、腕相撲など、道具を必要としない伝統的な遊戯が、極めて日常的に行われていた。