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双海町誌

第一節 神道(神社・教会)

一 概   要
 古代人は自然現象の中に、また人間の間に一大奇異が勃発したとき、ここに神秘を感じ、大きな畏怖心を起こし、これを神と見るに至った。
 また家族制度が発達し、その一族が繁栄し、国家に大きな貢献をして社会に重要な地位を占めるようになれば、その恩を祖先の賜とし、祖先は神に近いものとして厚く礼を尽くすようになる。
 こうして氏の祖先が某の神として公に認められ、これが原始信仰から発した神との結合により、住民によって祀られてきた社の神が、その氏の祖先神として祀られることになり、ここに氏神と氏人との関係が生じてきたのである。

(1) 神社の成立と祭
 神社は神霊の坐すところであり、祭の場である。祭は本来、村落的なものであり、一度祭の場所とせられた所は、神祭視され、固定してくる。固定すると自然、そこには祭に必要な種々の設備も作られる。こうして社殿が建築され、殿内に御神体が安置される。このように社殿が整備されると、地域の人々によって神主が選定される。つまり神はもちろん、社殿とこれを守護信仰する人とが揃い、一神社としての体裁が備わるのである。
 神を認め、その偉大な力を信じて、事を行うに先立って神に祈り、事の成就した暁には神に謝する。これが我々の祖先の行ってきた祭であった。すなわち祖先は、農業を生活の基礎として、播種に先立ってはその年の作物の豊作を祈り、収穫を終えてはその豊かな神の恵みを謝し、その間も絶えず神に祈った。

(2)神社行政
 本来、神道は民族宗教であるが、国家組織が強固になるに従い、国家と神道との結びつきが緊密になるのは当然のことだろう。大宝律令の制定により、中央に神祗官を設け、広く全国の神社を監督して神社行政の大綱を統べることが明治初年まで続けられた。また各地方にあっては国司が神祗官の事務を取り扱った。
 古代国家としての組織が整うにつれ、神社は全国津津浦浦に祀られることになった。当地においては七〇七(慶雲四)年高野川に厳島神社が、またその一七年後の七二四(神亀元)年に高岸の三島神社が、続いて七二八(神亀五)年に上灘の三島神社がそれぞれ創立された。
 平安時代に移り、全国の神社調が行われた。全国の神社の代表的地位にある二二社が、諸国にはそれぞれ代表として一宮が、また郡、郷にも一宮がそれぞれ定められた。高岸の三島神社は伊予国一四郡の一宮の一として、また上灘の三島神社は九四郷の一宮の一としての地位が与えられた。
 鎌倉、室町時代には貞永式目の中で社寺行政の原則を明らかにしており、この精神は永く封建武家時代に厳守された。この時代の国民信仰は、文永、弘安の大国難に際し、幕府をはじめ武士が身を捨ててこれに当たるとともに、諸社神職もまた祈願に軍役に全力を注いだ。この期はいわゆる神国日本の観念が横溢した時代であった。
 江戸時代に入ると幕府は、寺社奉行を置いて神社行政に当たらせた。それとは別に「諸社弥宜神主法度」を制定し、神社の守るべきことを規定した。また社領を与え、朱印状、黒印状により社寺の安泰を図った。これは三〇〇年の長きにわたり継続された恩典であり、神職、僧侶がこれにもたれて気迫を失い、安逸に流れることになった。
 幕府はまた社寺に対し、法制的にも経済的にも徹底した保護政策を執り、日光束照宮、日枝神社、氷川神社を将軍家の産土神として崇敬した。諸国においても諸侯はそれぞれ幕府の制に倣い、崇敬社を定めて領内の鎮護としたが、これとともに領内に祈願所を定めて尊崇した。高岸の三島神社も大洲領祈願所一八社の一に定められ、天一稲荷神社も祈願所に当てられた。
 しかし幕府の宗門改めの政策は、神道界にも影響を及ぼし、仏が上で神が下という観念が植えつけられ、神道を奉ずる者も一律に仏教を信じさせられ、その習俗に従うこととなった。つまり、当地においても、葬式の権利は全面的に僧侶にあり、また神輿渡御の際の御霊代を神輿に遷す場合も、それを僧侶から神主に渡してなされていたのである。
 江戸時代二六〇年の間は、封建社会の秩序が完璧なまでに維持されていた。幕府の政策による祭祀の復興、社寺に対する保護政策は神社仏閣の繁栄をみた。ことに地域的関係に立脚する産土神の信仰は、当代に特に盛んで、これはかつての土地神祭祀の遺風であるが、これを古来の氏族神と混淆して広く一般には氏神と言い、守護する土地に居住する人々を氏子と称した。かくて神と人とは親子の親しい関係を結び、春秋の二季に鎮守祭を執り行うようになった。祭典のほかに神楽、相撲、芝居、煙火などの数々の余興も催し、娯楽の乏しかった当代の人々を楽しませるとともに、子ども衆、若衆の団結を強固にし、ひいては郷土愛の涵養にも役立った。
 このころ、当地からの伊勢参り、金刀比羅参りなども始まった。そのほか誕生後の宮参り、帯解、袴着、七五三の宮参りなど、更に神社崇敬のための講社組織もできた。講社のうち一七九九(寛政十一)年に始まった高岸の三島神社の明神講は今なお続けられており、毎年三月二十三日に祭典が執行されている。
 一方、この時代は神道の研究が盛んであった。このことが、一般の思想にも大きく影響して、明治維新の原動力となったところもあった。
 なお、この時代の末期には、神道によって神秘的な霊感を得て、独自の信仰に徹して教祖的な地位を確立した宗教的偉才も出現した。金光教の川手文治郎、天理教の中山みきなどがそれで、これらの教派は、神道十三派あるいは教派神道といわれた。ちなみに金光教・天理教は、本町において、今日でも活動が続けられている。
 一八六八(慶応四)年三月十四日、新政府の大方針である五箇条の誓文が発せられ、神社制度も刷新され、神仏の分離などが行われた。すなわち同年三月、太政官通達をもって神仏判然令(大教宣布という)が発布された。これにより従来まで僧形をもって神社に奉仕した別当社僧は還俗させられ、仏像を神体とすること、仏式により祭典を行うことを禁じ、仏像仏具を神前及び神社境内より撤去し、更には仏語をもって神号とするものを廃し、その他一切の神仏混淆の風習を禁止した。
 一八八九(明治二十二)年二月に、発せられた帝国憲法は、信教の自由を認めたが、同時に神社の国法上の特殊的位地を認めたものでもあった。一九〇〇(明治三十三)年四月、内務省の社寺局を分けて神社局と宗教局との二局とし、神道一三派、仏教等は宗教局の所管に移り、神官及び一切の神社の事務は神社局が管掌し、大正を経て昭和へ移ったが、終戦の結果、神祗院をはじめ地方の社寺課等一切の国や地方の神社に関する行政組織は廃せられた。

(3) 社   格
 神社に社格が附されたのは一八七一(明治四)年のことである。官社と諸社の二等に分かち、官社は官弊社と国弊社の二種、諸社は県(府)社と郷社の二等に分かれ、郷社は郷邑の産土神であって地方官の管理を受けた。郷社の下に村落の氏神と仰がれるものを村社と言い、それ以外は無格社とした。この社格も終戦に伴い廃止された。本町における神社の社格は次のとおりである。
   (郷社)
  高岸の三島神社、上灘の三島神社
   (村社)
  天一稲荷神社、高野川神社、黒山神社、豊田神社、圓山神社
   (無格社)
  若宮恵美須神社(小網)
 神社の経済面においては、明治四年一月に社寺に対して上地令が発せられて、境内地を除く一切のものが府県の管轄となった。それに変わって官国幣社の経費は、一切が国庫支出となったが、府県社以下の神社は公費の供進はあったものの、経費に関する限り国からの援助は一切なかった。
 一方、明治四十二、三年ごろ、神社の尊厳維持を掲げてその体面を具えていると認められたものは、一般の民意に反して合併を実行した。本町においても、圓山神社・豊田神社・黒山神社・高野川神社が、それぞれ数社を合併して新たに創立され、今日に至っている。

(4) 終戦と神道
 一九四五(昭和二十)年八月十五日、終戦。この年の十二月十五日、連合国軍総司令部(GHQ)から日本政府に対する覚書「国家神道、神社神道に対する政府の保護、支援、保全、監督並に弘布に関する件」、いわゆる神道指令が発せられた。その趣旨は政教の分離であり、軍国主義的ないし超国家主義的イデオロギーの除去であり、また信教の自由であって、ここにこれまで国家の宗祀としての地位にあった神社は、国家の手より分離されるに至った。更に同年十二月二十八日にはそれまでの宗教団体法が廃止され、新たに宗教法人令が公布された。
 翌二十一年一月一日、天皇は、現人神否定の詔勅を発し、人間天皇を宣告された。同年二月二日、神道指令に基づき神社関係の諸法令は廃止され、神祗院の廃止に伴い神社事務は他宗教と同様に文部省宗務課の所管となった。ここにおいて神社も他宗教教派と同様、宗教法人として立つこととなった。同年十一月三日、日本国憲法が公布され、宗教を国家の干渉外に置き、その自主性を認めた。
 またこの年の二月三日には、神社本庁を創立した。これは伊勢神宮を奉戴し、全国神職の総意に基づき、その包括団体として成立したものである。ここにおいて神社の社格を外し、従前の官・国弊社を宗社、府県社以下の神社を諸社と呼ぶこととなった。また、中央の神社本庁に対し、地方には地方神社庁(愛媛県神社庁)及び支部、分区を置き、事務の連絡を計ることとなった。一方、全国の神社総代にあっても神社庁の機構に準じて総代会を結成し、両者が提携して新しい時代に対処することとなった。

二 本町の神社
(1) 三島神社(高岸)
 大字高岸亀の森にあり、祭神は大山積神、雷神、高?神で、元明天皇の七二一(和銅五)年八月二十三日の詔勅により、伊予国一四郡の一宮の一として七二四(神亀元)年越智郡大三島の大山祗神社より勧請鎮座したものである。
 伊予国神社集に「一宮三島神社在伊予郡神戸郷灘浦、号別宮地之御前高岸大明神。祭神大山積大神、雷神、高龗神、人皇四三代元明天皇御宇和銅五年八月二十三日勅詔有、自大三島宮雷神・高龗神二座合祀勧請、宮号伊予郡一宮大明神、弥三島別宮地之御前云々」とあり、また伊予旧記編に「元明天皇御宇和銅五年八月二十三日勅詔奉国史散位小千宿弥玉興自越智郡三島宮雷神・高龗神二座勧請、是伊予国一四郡一宮所例之一也其名日(中略)伊予郡神戸郷灘浦三島云々」とあり、伊予国一四郡の一郡一社の一つであった。
 社記には「現今者此地浮穴郡由並郷結替在鎮座高岸村(中略)住吉神亀改元春正月亀海上於守護森之社中爾入留、万民此所之地名於亀守登唱(今は亀之森)古今村内格社乃吉凶有時者浮海上奈利云々。大山積大明神求馬嫡子藤原左近新御殿乎造営遷宮須于時神亀元申子春正月吉辰日云々」とある。
 戦国時代、津々喜谷加賀守高行が再興。その後、一六二七(寛永四)年社頭が消失し、棟札等は灰焙に帰した。更に一七七六(安永五)年正月三日夜火災があり、本殿、拝殿、宝蔵など残らず消失した。その節、録記由来書、各再興の棟札、河野家より奉納の甲冑、藤堂新七郎公奉納の具足、かぶと、太刀、軸物なども悉く消失した。
 当時、神社境内の坪数二九一一坪(九六〇六平方メートル)。氏子は上灘村、高岸村、高野川村、大久保村、串村、石畳村、麓村、境村の八か村で構成されていたが、上灘村は文化年中(一八〇四~一七)に、境村は明治十八年ごろに分離した。本社所属村社(旧社格)五社、境外末社五七社を有していたが、一九〇六(明治三十九)年の勅令第二〇号に基づき、四十三年に前記五社へ合併奉祀した。

(2) 三島神社(三島)
 三島宮之下にあり、祭神は大山積神、雷神、高龗神で、相殿に伊弉諾尊、伊弉冊尊を祀る。七二八(神亀五)年秋、八月二十三日の勅詔により九四郡九四社の一として鎮座する。
 伊予国神社集に「伊予郡神戸郷方今由並郷灘邑鎮座一宮大明神、祭神大山積、雷、高龗三座」とある。また、浮穴郡誌に「浮穴郡由並郷灘部五社大明神と号す。古書に見る灘部神是なり」、二名洲神社令抄伊予国古神社勅祭国社の部に「一郡一宮人山積大明神一御一宮大山積大明神」と記してある。
 本社左殿に安置する御石体は、一五七四(天正二)年九月に土州浪人吉広という者が富岡(今の三島)に居住し、常に狩を好み、夜山野を歩き、出淵村の小池という所で休んでいたとき、怪しい光が闇を照らして現れ、「我は此の所に永く沈められたる三島の神なり。今社のおとろえたるにより、汝が里に我を迎えよ」と告げて消え失せた。吉広はその所をさがして見つけた霊石を背負い、佐礼谷から唐川に出て三島の里に帰り、今の社に安置したものという。今、吉広の墓は神社前右の畑の中にあり、この石体は普通、四人でもなかなか動かすことができないという。
 氏子は大字上灘の久保、三島、岡、日尾野、柆野、犬寄、東峰、高見、大栄、奥大栄である。

(3) 天一稲荷神社(灘町)
 灘町宮崎にあり、祭神は天御中主神、少彦名命、大巳貴命、倉稲魂命、伊井冊命、瓊々杵命を祀る。灘部五社大明神の一で、伊予国造の命灘部山井阿森に神籬を立て、この浦の鎮守に奉斎した神である。当神社を天一稲荷神社と呼ぶのは、一九〇八(明治四十一)年二月十日に発令された愛媛県令第六号の趣旨に基づき、明治四十三年一月五日、上灘村大字上灘字仲之宮に鎮座の村社稲荷神社を宮崎鎮座天一神社へ合併し、改称したためである。
 九四六(天慶九)年の記録には、灘部の神として往古より尊崇厚く、元宇賀の森の嶺や本尊の高嶺に鎮座されていたことが記されている。一三三〇(元徳二)年二月、得能伊予国守通時が海防要害のため、この本尊の山へ築城のとき奇異に感じ、霊地であることを恐れ、守護神と仰ぎことのほか尊崇祭祀した。
 本尊山は古よりホトトギスで知られ、南北朝のころ、得能弾正大弼道政が征南将軍の宮満良親王を由並本尊城で守護していたとき、親王の詠じられた和歌がある。
  ほととぎす灘の浦べの本尊山
     ほそむかけたか城の戸かけに

  千早振神もめづらん広前に
     おのが時とや鳴くほととぎす

 得能通政の歌に
  あづさ弓春たちすぎし本尊山
     ほととぎすきく時はきにけり

 得能備後入道了雲の歌に
  世をはなれ思のままに身はやすく
     時鳥きく月夜なるかな

 なお、当社は大洲藩公の祈願所で、享保のころは上灘村ほか一一か村の祈雨所だった。氏子は灘町、両谷、城之下、小網である。

(4) 高野川神社(高野川)
 高野川片山にあり、高岸三島神社所属の神社で、祭神は市杵島姫命外八柱である。一九一〇(明治四十三)年八月に元厳島神社へ成組から河内神社、金刀比羅神社、山神社、西組から若宮神社、原組から水明神社、河内神社、田中神社を合併して高野川神社と改称した。
 元厳島神社は七〇七(慶雲四)年の創立で、「伊予国司散位小千宿弥玉興玉純父子」と記した棟札がある。一八七九(明治十二)年九月、村社に列せられ、一九四五(昭和二十)年終戦に伴い社格を廃し、現在に至る。

(5) 黒山神社(大久保)
 大字大久保の黒山中腹、元黒山城跡の下方にあり、高岸三島神社所属の神社である。八三四(承和元)年、黒山城主藤原高延が菊理姫命を勧請し、瀧野権現と称した。
 のち一三九六(応永三)年、黒山城主久保伊予守高実が紀伊熊野神社より速玉男命、事解男命を合祀し、大字大久保の崇敬神社となる。明治四十三年十一月十三日、本谷の目白神社、石久保の山神社・厳島神社・空神社・河内神社、日喰の岡田神社・一宮神社・聖神社、富岡の河内神社・聖神社を合併して黒山神社と改称した。同年、村社に列せられ、昭和二十年に終戦に伴い社格を廃し、現在に至る。

(6) 豊田神社(奥西)
 奥西にあり、三島神社所属の神社で、祭神は瀬織津姫命ほか一〇柱である。創立年代は不詳だが一七九五(寛政七)年の神社調に載せられている。
 明治四十三年十二月、元河内神社へ寺中より一宮神社、浜より金刀比羅神社、住吉神社、奥西より天満神社、祇園神社、奥東より和霊神社、池之窪より弓削神社を合併して豊田神社と改称した。上串地区の崇敬神社で、一八七九(明治十二)年九月、村社に列せられ、昭和二十年に終戦に伴い社格を廃し、現在に至る。

(7) 圓山神社(本村)
 本村にあり、三島神社所属の神社で、祭神は菅穂積別命外一三柱である。元天満宮と称し、九二七(延長五)年九月、京都北野天満宮より勧請した社と伝えられる。初め丸山に社を構え、のち現在の社地に移す。瀧山城主の累代尊崇した社で、延宝年中(一六七三~八〇)に厳島神社を合祀、一八七六 (明治九)年宮神社外五社を合併し、更に明治四十三年十月西の上より富貴神社、満野より八王猿丸神社、松尾より一宮神社、ウ子より三島神社、駄馬より金刀比羅神社、空の上より宮神社、松の下より秋葉神社、サジボより坪神社、横久保より妙見神社を合併し圓山神社と改称した。
 下串地区の崇敬神社で、一八七九(明治十二)年九月、村社に列せられ、昭和二十年に終戦に伴い社格を廃し、現在に至る。

(8) 若宮恵美須神社(小網)
 元若宮社と称し、天一神社の境外摂社として一六一○(慶長十五)年、小網浦に鎮座する。祭神は若産霊命蛭子命を祀る。一九一一 (明治四十四)年二月十六日、淡島社、蛭子社を合祀して現在の社号に改称
した。
 境内には龍神社(海津見神)、金刀比羅社(金山彦命)が祀られている。口碑によれば小網集落の開拓当時、不漁続きで村人は甚だしく疲弊したことがある。あるとき木製の恵美寿様(蛭子様)のご神像が網に引かれて上がったので、それを御神体として祀った。それが旧蛭子社の起源であり、当神社が蛭子命を祭神とする由緒とされている。

三 教派神道
(1) 天理教伊像分教会(灘町)
代表者 石田 肇
沿   革
 一九〇二(明治三十五)年二月、喜多郡内子町の天理教内子分教会(当時は内子出張所)から上灘に派遣された教師榊原金太郎は以来、この地にいて人心の救済、布教伝導に専念した。信者は二〇〇余戸に及び、信者の懇望により教会の設立に至った。
 このころ、喜多郡五十崎村大字古田に井上幸吉を担任教師(明治三十一年二月十九日付をもって本部認可を受けていた)とする天理教五十崎出張所があったが、有名無実の状態のため、実力のできた上灘の地に相応しない名称の教会が設立されることになったのである。
・愛媛県伊予郡上灘村大字上灘甲五五三五番 甲五五三六番合併地ノ一
・天理教五十崎宣教所 担任教師 榊原金太郎
・本部認可 明治四十二年三月二十日
・地方庁認可 明治四十二年七月二十三日
 このようにして上灘に初めて天理教が設立された。その後、同教会の伝導者を三津浜、広島、中山町、北九州、郡中へ各々派遣して教宣拡張、部属教会を設置した。その概略は次のとおりである。氏名は担任教師。
・大正 二年 愛三津宜教所設立(三津浜町)石田丑太郎
・大正十二年 高子宜教所(広島県)土井猶蔵
・大正 十四年 中山町宜教所(中山町)札本リョウ
・昭和 十四年 南郡中宜教所(郡中村)伊達忠雄
・昭和二十三年 枝國分教会(福岡県)宮田石五郎
・昭和二十四年 伊像理分教会(松山市)札本好松
教会改称及び担任変更
・大正元年 五十崎宣教所を五十崎支教会と改称昇格
・昭和五年 担任教師の榊原金太郎辞任。同時に天理教内子支教会の後任教会長に就任。後任に石田丑太郎。また、五十崎支教
 会を伊豫支教会と改称する。
・昭和十五年 後任教会長に石田英和。
・昭和十七年 伊豫分教会と改称。
  戦時中は大阪島屋国民学校疎開児童五〇名を当教会に一か月あまり収容した。
・昭和五十四年 後任教会長に石田肇就任、現在に至る。

境内建物
 境内建物には木造瓦葺平屋建(約九〇平方メートル)の神殿及び教職舎三棟がある。現在の神殿は大正十五年に建築されたもので、平成六年には屋根専門左官の参川角助氏(勲六等瑞宝章受賞)指揮のもと、屋根葺替並びに内外部改修を行った。
 旧神殿は、一九〇九(明治四十二)年の建築。老朽化のため昭和五十三年に取り壊し、跡地に客殿と神殿前方の信者詰所を順次建築した。

祭 典 日
春季大祭一月十三日、秋季大祭十月十三日、月次祭毎月十三日教義(昭和三十四年四月二十六日公布)
 第一章 総則(平成十一年三月一日 一部変更)
第五条 天理教は、親神の思召による世界一れつ陽気ぐらしの実現を立教の本旨とする。
第六条 天理教を信奉する者は、立教の本旨を体し、教祖ひながたの道を履むことを修行の要義とする。
第七条 天理教の教義は、原典及びこれに基づいて、天理教教会本部が編述し、真柱が裁定した前項の原典とはおふでさき、みかぐらうた、及びおさしずをいう。
と定められている。この原典は神憑によって教祖自ら筆をとられたもので、天理教信者にとっては、心の指針、生命ともいうべきものであるけれども、現在のように公布され、信者としてどこに遠慮することなく、その全部を拝讃し、また宣布することができる今日に至るまでには、幾度か筆舌に尽くせぬ道程を歩んできたのである。昭和に至っては全国一万数千の天理教会に本部より配布された原典も、戦時中、軍国色一色に統一された時はおふでさき、おさしずは全部本部に預けられ、みかぐらうたの一部は骨抜きのやむなきに至った。
 三代真柱とせられては本教の形ある大建築、諸施設よりも教祖の教えにすべてが復元され、全国教会へ原典を返還することが生涯の悲願であったと言われている。しかし、ついに終戦とともに復元され、教祖七〇年祭及び八〇年祭を目標に原典は全教会へ(刊行配布)返還された。
 なお、終戦とともに海外教会の一部、韓国にあった教会は内地に引き揚げてきたが、それまでに教化されていた韓国民が布教伝道して数百の教会を韓国に設立している。今や北・南米、ハワイ、コンゴ、ヨーロッパなどに青壮年層によって教会設立、伝道の歩みを進めている。

(2) 天理教豊田浜分教会(上浜)
代表者 山本 豊
沿   革
 一九〇二(明治三十五)年十月ごろ、喜多郡長浜支教会より鎌田キン布教に来る。上灘村、下灘村及び喜多郡柳沢、田処方面を布教する。信者もしだいに増加し、一九〇七(明治四十)年十月ごろ、下灘村豊田の上浜を中心として集談所を設ける。
 大正元年ごろ、教会建築の予定であったが、上灘東谷の民家を買い受け、下浜の一二一三番地に建築し、大正九年七月二十五日、豊田浜宣教所の許可を得る。

担任教師
・初代担任教師の田宮三松は、大正十三年、神戸に布教に出るまで務める。後任として大洲より河村猶義が二代目として就任する。
・河村は昭和十五年八月まで勤務。昭和五年ごろ、長浜支教会に住込み布教に従事していた法師の山本熊義が、河村退任を受け、三代目の担任教師に就任。同時に下浜より現在地に移転す る。このとき宣教所を分教会と改称。
・昭和二十四年十一月、山本死去。長男義高が翌二十五年十一月に四代会長に就任する。
・昭和四十三年山本義高の長男、豊か五代会長に就任。現在、多数の信者とともに、ここを道場として日夜、布教に取り組んでいる。
・平成十年、現教会神前を新築する。

(3) 金光教上灘教会(灘町)
    代表役員 中島昭
 天地金乃神を主神とする金光教は、江戸時代末期川手文治郎(後の教祖 生神金光大神)が陰陽道による金神信仰によって、当時、厳しく制限されていた日柄方角・普請などに関する迷信を打破したことから始まった宗教である。
 大正時代に、中島政明(初代教会長)が灘町に仮の教会を設け、上灘を中心に布教した。その後、中島イチ(二代教会長)とともに昭和の初期に現在の教会を設立した。
 現在は、中島昭(三代会長)の教導のもとに、毎月八日、十八日、二十八日に月例祭を行っている。大祭は、春季が五月八日、秋季が十一月八日にそれぞれ行われる。