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双海町誌

第二節 仏教(寺院)

一 概   要
 インドの釈迦によって始められた仏教は、その後、中国、韓国を経て我が国に伝わってきた。当時、聖徳太子の強い帰依を受け、国家の政治政策にも仏教が取り入れられるようになった。更に奈良時代には鎮護国家の道場として、天皇、貴族の保護のもと盛んに寺院が建立された。平安時代の初期には、伝教大師の天台宗、弘法大師の真言宗が日本的な色彩を帯びて新たに興ってきた。これらの宗派は、貴族仏教として国家や貴族の信仰、保護のもとに栄えた。
 しかし、鎌倉時代になると貴族仏教にあきたらず、大衆が入りやすく、かつ分かりやすく説いた新興宗教が次々と高僧らによって開かれた。浄土宗、浄土真宗(一向宗)、時宗、日蓮宗(法華宗)、臨済宗、曹洞宗などの宗派がこれである。
 南北朝時代から江戸時代に入るまでのおよそ三〇〇年間は、戦禍の中で衰微の一途をたどる寺院が多かったと思われる。南北朝時代における双海地域は、そうした戦禍は比較的軽微であったようだが、戦国時代には土佐の長宗我部元親の伊予攻略があり、その被害は甚大で、双海地域の寺院でその兵火にかからないものはなかった。
 一方、庶民の信仰はどのようであったか。ほとんど資料はないが、豪族の支援の絶えた後、各寺院は一部の信者の助力によって細々と維持されていったことが察せられる。
 江戸時代に入り、間もなく確立された封建制度の中にあって仏教は、従来のあり方とはまったく様相を異にしてきた。すなわちキリスト教追放の政策上、仏教が保護されながら、他方寺院法度などによって圧制の中に入れられ、民衆もその帰属を強制された。「信仰の自由」がまったくなくなり、しかもそれが不正常な状態で繁栄したところに江戸時代の仏教の特色がある。
 幕府はまず檀家制度を定め、民衆を一人残らず仏教信者としていずれかの寺院の檀徒とし、その名簿である宗門改帳を宗門奉行所へ差し出させた。また、キリスト教信者でないという証明を寺院からもらわねばならない寺請制度を定めたり、檀徒に移動があったときは、今までの寺院から相手の寺院あてに宗門送り手形、あるいは宗門請手形が発行された。このように寺院は幕府の支配機構の末端組織となり、宗門取り締まりにからんで戸籍権、警察権さえ与えられ絶大な権威を持つようになった。
 本町の寺院でも、禅宗寺院は大洲藩主加藤氏の興禅や盤珪禅師のような高僧の教化もあって代官、庄屋などもこれにならい崇敬の念をあらわしている。
 民衆とのつながりにおいても、強制的な制度のもととはいえ緊密な檀家関係のもとに葬儀・法要をはじめ地蔵講、大師講、観音講の各講、その他の宗教行事を通じて仏教は深く民衆の心に入っていった。
 こうして江戸時代の仏教は一応、大きな役割を果たしたが、反面為政者の庇護にあまえ、本来の宗教的使命を忘れ、寺院は信仰の場としての意義を失い、腐敗する傾向が強かった。しかしながら寺院法度の強制を受けて本山と末寺との関係は強化され、本山に対して地方寺院は絶対服従させられたこと、寺院の屋根葺替、修繕普請などの諸手続きにさえ長々とした連署の申請書を要していることを見ても、寺院もまた民衆同様、ある面では封建制度の犠牲者であったともいえる。
 一八六八(明治元)年、新政府は神仏分離政策を打ち出した。これにより衰えた寺院も多かったが、幸いにして本町では大した影響もなかった。また、同五年には、秀吉以来約三〇〇年続いたキリスト教に対する禁もとかれ、すべての宗教を自由に信仰することができるようになった。以後、終戦前まで本町の寺院は社会教化の面で大いに貢献を果たした。
 更に戦後は公民館活動など社会教育に努力したが、思想混乱と農地法改革により大きな打撃を受けた。とはいえ寺領の田畑や権威を失った今日こそが、長い間の束縛から解放され、仏教本来の活動に期待がかけられる時節が訪れたといえるのである。


二 本町の寺院
(1) 正光寺(久保)
 一六七五(延宝三)年、黙室和尚の創建であるが、西禅寺開山真空妙応禅師を勧請して開山とし、時の国主加藤泰常公より法輪山の額を賜うと伝えられる。
寺院名称 正光寺
山  号 法輪山
所 在 地 双海町大字上灘甲四〇一二番地
宗  派 臨済宗東福寺派(西禅寺末寺)
創  建 一六七五(延宝三)年
開  基 正光寺殿(実在の人ではない)
開  山 真空妙応禅師
本  尊 観世音菩薩(木造・座像)
社会教化 正月に般若会、八月に施餓鬼会。
 建 造 物 山門、本堂、庫裡(全て木造瓦葺)
 檀 家 数 約一二〇戸


(2) 大通寺(本郷)
 一六七三(延宝元)年、元昌和尚が堂宇を建立し、一八八四(明治十七)年に心田和尚が改築、現在に至る。
寺院名称 大通寺
山  号 智勝山
所 在 地 双海町大字高岸甲一〇七七番地
宗  派 臨済宗東福寺派(西禅寺末寺)
創  建 一三七五(天授元)年
開  基 大通寺殿霊鷲承命、大居士(戒名)
開  山 道山経禅師
本  尊 阿弥陀仏(無量寿仏)
建 造 物 山門、本堂、庫裡
仏  像 脇仏観音菩薩、勢至菩薩
書  画 涅槃像
古 記 録 過去帳・元禄二年よりのもの。
檀 家 数 約一〇〇戸


(3) 信福寺(唐崎)
一七七三(安永二)年に再建され、現在に至る。
寺院名称 信福寺
山  号 瑞雲山
所 在 地 双海町大字高岸甲一九九二番地
宗  派 臨済宗東福寺派(西禅寺末寺)
創  建 一五一四(永正十一)年
開  基 木下小四良
開  山 竹文和尚
本  尊 観世音菩薩
社会教化 般若会、施餓鬼会
建 造 物 本堂兼庫裡
仏  像 本尊は観世音菩薩像、脇仏は達磨大師像
経  典 般若経
檀 家 数 約四五戸


(4) 本覚寺(灘町)
 当山は、前方に海がひろがり、背後は山に囲まれた平地の少ない地形にある。伝説によれば、高僧がいて石崖を築くに優れ、信徒を督励して自ら築いた石崖が、現在の四方にある。大きな石には「ミシマヤ ワスケ キシン」と刻まれている。
 一六九一(元禄四)年、大阪西町奉行・加藤大和守藤原泰堅公は、本覚寺に遊歴し、次の詠歌を残す。
   前は海 右に名におう本尊山
        これぞまことの 本覚の庭

 過去帳には、大阪屋、姫路屋、宇治屋、河中屋、大和屋、大津屋、河内屋、米屋といった屋号が数多く記されており、阪神方面の交易が盛んであったことがうかがえる。当時、交通は船舶を主としていた。現在まで、二五代を数える。

寺院名称 本覚寺
 山  号 随縁山真如院

 所 在 地 双海町大字上灘五六一一番地

 宗  派 浄土宗

 創  建 一五三四(天文三)年

 開  山 念蓮社十誉上人修阿専相大和尚

 本  尊 阿弥陀如来

 社会教化 彼岸会(三月)・花祭り(四月八日)・施餓鬼会(八月一日)・お盆(八月)・巳午(十二月)・ご詠歌(月二回)・本覚寺だより(年二回)・掲示板伝道

 建 造 物
(本堂)
一五三四(天文三)年創建、一八三五(天保六)年改修、一八八九(明治二十二)年再建、一九八七(昭和六十二)年屋根銅版葺き改修
(薬師堂)
一六七八(延宝六)年創建、一七二六(享保十一)年再建
(山門)
一八四四(弘化元)年再建、一九八七(昭和六十ニ)年屋根銅版葺き改修
(鐘楼)
一七五三(宝暦三)年創建、一九四三(昭和十八)年梵鐘供出、一九六四(昭和三十九)年再建
(鎮守堂)
一七八四(天明四)年創建
(位牌堂)
一九九三(平成五)年創建

 仏  像 本尊は阿弥陀如来(立像・作者不明・製作年月日不詳)、脇仏は観世音菩薩・大勢至菩薩・阿弥陀如来(坐像・春日の作と伝えられる)・薬師如来三尊・十二神将像

 書  画 涅槃像(作者不明・元禄九年)・開山上人肖像画・法然上人絵傅四軸

 古 記 録 一六四四(正保元)年以降の過去帳

 檀 家 数 約三〇〇戸


(5) 地蔵寺(岡)
 本町開化時に山伏によって創建されたと伝えられるが、天保年間(一八三〇~四三)の火災で全焼し、由緒等は不明である。三島に「為意福院権大僧都覚霊」との墓碑があり、一六七六(延宝四)年八月十六日死没と記されている。日尾野の「為福院賢良快真法師」という山伏は、一七〇九(宝永六)年六月二十二日に死没した。これらの人が地蔵寺の開山または開基と伝えられる。一八三六(天保七)年に再建されたが再び火災に遭い、一九二五(大正十四)年に再々建された。
寺院名称 東向山地蔵寺
所 在 地 双海町大字上灘甲六一三番地
宗  派 新義真言宗智山派
創  建 一八三六(天保七)年再建、一九二五(大正十四)年再々建
開  基 権大僧都快真(口碑)
開  山 福院賢良快真法師(口碑)
本  尊 延命地蔵菩薩、脇仏像は弥陀如来三尊像
建  物 本堂・庫裡
檀 家 数 約一八〇戸


(6) 正法寺(本谷)
 高岸の元海辺城主、藤堂新七郎が建立し無極禅師を勧請して開山とした。
寺院名称 正法寺
山  号 瑞如山
所 在 地 双海町大字大久保甲一三二一番地
宗  派 臨済宗東福寺派(西禅寺末寺)
創  建 一六○○(慶長五)年。現在の本堂は一九〇五(明治三十八)年に再建。
開  基 不詳だが、藤堂新七郎と伝えられる。
開  山 無極禅師和尚
本  尊 聖観世音菩薩
社会教化 般若会、施餓鬼会
建 造 物 本堂・権現堂・山門・庫裡・土蔵
仏  像 聖観世音菩薩像(普門律師の作・年代不明)、脇仏は薬師如来像(木像・年代不明)・地蔵菩薩・賓頭嘸尊者像・誕生仏唐全像・開山和尚像
そ の 他
 (陣太鼓)
 藤堂新七郎の戦陣太鼓と伝えられ、一六○二(慶長七)年七月の記入がある。
 (半鐘) 
 一八〇〇(寛政十二)年と記入のもの。
経  典 大般若経百巻
書  画 涅槃画像、十六善神画像
檀 家 数 約一一〇戸。なお、平成十二年九月に住職亡くなり、以後、西禅寺の兼務となる。


(7) 道玄寺(富岡)
 黒山城主の久保源高実公が菩提寺として建立した。平成四年、火災により全焼。以下に掲げる文化財、その他重要文献等はことごとく消失した。同八年、本堂のみ新築された。
寺院名称 道玄寺
山  号 徳光山
所 在 地 双海町大字大久保甲四一〇番地
宗  派 臨済宗東福寺派(西禅寺末寺)
創  建 一三六九(応安二)年
開  基 予州下浮穴郡大久保村黒山城主久保伊予守源高公
開  山 太夏松和尚禅師 一三六四(貞治三)年十月十二日
本  尊 観世音菩薩
社会教化 般若会、施餓鬼会
建 造 物 本堂・位牌堂・山門・庫裡・土蔵
仏  像 本尊は観世音菩薩像、脇仏は達磨大師像、弘法大師像、六地蔵像
経  典 大般若経
書  画 涅槃像、応永年間(一三九四~一四二七)の十六善神
古 記 録 黒山城系図一巻
檀 家 数 約五〇戸
そ の 他 黒山城主使用の陣太鼓。平成元年道玄寺住職亡くなり、以後、大洲西禅寺の兼務となる。


(8) 長楽寺(奥東)
 一六一五(元和元)年に伝授和尚が村人だちとともに観世音菩薩を祀った。以後、大洲藩主らの信仰を受けて順次栄え、一七四二(寛保二)年定翁和尚の時に堂宇を改築。一七九六(寛政八)年には大修理を行った。一八三九(天保十)年には、大歳掬和尚が修繕改築。二〇〇二(平成十四)年、本堂、諸堂を新築した。
寺院名称 長楽寺
山  号 霊亀山
所 在 地 双海町大字串八一〇番地
宗  派 臨済宗東福寺派(西禅寺末寺)
創  建 一六五五(明暦元)年
開  基 不詳
開  山 真空妙応禅師
本  尊 聖観世音菩薩
社会教化 般若会、施餓鬼会
建造物 本堂兼庫裡
檀家数 約一五〇戸


(9) 慶徳寺(本村)
 昔は鎌倉建長寺の末寺であったが、一三九七(応永四)年三月、西禅寺三世無極善和尚を勧請して開山。その後、一七七八(安永七)年に火災のため全焼(当時の住職、雄峰和尚)。庄屋井久保満五六重全が三か年を掛け造営し、一七八〇(安永九)年に完成。一八五一 (嘉永四)年、文圭和尚の時、庄屋久保庫之進源晴家が寺改修工事を完成す。一九三八(昭和十三)年、禅叢和尚の代に屋根替を行う。一九八四 (昭和五十九)年、大分より宗隆和尚を迎え、一九九七(平成九)年九月から寺改修工事に当たる。屋根替・基礎・山門・山道改修・鐘楼堂は角田アヤ子より寄付新築したもの。
 慶徳寺の建物は、二〇〇三(平成十五)年現在、二言二年の歴史を有す。その昔、久保滝山城主の末孫が大洲藩主より本村に庄屋の格を取り、寺号を慶徳寺となし、大洲城主の城内見回り、参勤交代の塩待に庄屋と寺を利用するがために建立し、今に至る。
寺院名称 慶徳禅寺
山  号 北海山
所 在 地 双海町大字串甲二四七九番地
宗  派 臨済宗東福寺派
創  建 一三九七(応永四)年
開  山 無極善大和尚
開  基 大乗院殿法山道悟大居士 久保式部入道道春公
本  尊 西方無量寿如来
檀 家 数 約一四〇戸


(10) 願正寺(満野空)
 城主続谷加賀守高行(米津城主津々木谷家系図第六代の人で都築文叢に出ている)が、本寺西禅寺第二世定室和尚の法嗣心岩座元に深く帰依し、一門の興隆と国家安泰祈願の道場としてこの清地を選び、一宇を創建し、山号を祥雲と号し、寺名を願正とした。しかし、心岩座元は自ら開山祖となることを欲せず、定室和尚を屈請して開山となし、自ら第二世となる。
 その後、一七七三(安永二)年、笑道座元が寺を中興した。更に一八二六(文政九)年、火災に遭い、堂宇すべて消失した。雪耕田和尚時代の一八三八(天保九)年、西禅寺龍界和尚の発願で、時の兼務住職慶徳寺大珪座元が檀徒と協議の上、現在の寺を再建した。
寺院名称 願正寺
所 在 地 双海町大字串甲三四三七番地
山  号 祥雲山
宗  派 臨済宗東福寺派(西禅寺末寺)
創  建 一三六三(正平十八)年
開  基 続谷加賀守高行
開  山 定室静和尚大禅師
本  尊 薬師如来
社会教化 般若会、施餓鬼会
建 造 物 本堂・庫裡
仏  像 本尊は薬師如来、脇仏は日光・月光菩薩、地蔵菩薩、その他辛帰才天
檀 家 数 約八〇戸


(11) 諸   庵
顕密庵(本郷)
 大通寺の末寺。跡地が同寺の横にある。他に牛峯山に地蔵院がある。毎年四月、八月の二十四日を祭日としており、遠方よりの参拝客を集めていた。

日喰庵(日喰)
 道玄寺の末寺。子安観音ともいう。創建等詳細不明。
 石久保庵(石ノ久保)
 道玄寺の末寺。詳細不明。
 心照庵(下浜)
 一九七〇(昭和四十五)年以後は無住庵となっている。

西光庵(池之窪)
 慶徳寺の末寺。一五四〇(天文九)年十月に創建され、代々庵主がいたが、一九六〇年代に公民館が併設され、現在は無住庵になっている。
宗派 臨済宗聖一派
本尊 薬師日光菩薩

医王山護法庵(松尾)
 願正寺の末寺。室町時代に創建されたと伝えられるが、年代等は不明である。しかし、一四六六(寛正七)年四月六日没した秀山和尚の位牌が護法庵に現存している。歴代和尚が水田等の開発に努め、「シンガイ・ユノチ・ヒラヤマ」など和尚の名をつけた地名の水田が現存している。
 なお、一五三四(天文三)年九月七日に没した滝山城主久保正行公の「前伊州太守進中賢公大居士神儀」との位牌や経巻約五〇巻等が保存されている。また、庭には一七七九(安永八)年一月吉日付の五輪塔がある。現在は公民館が併設され、無住庵となっている。

富貴庵(富貴)
 願正寺の末寺。建立年代は不明だが、滝山城の一〇代目の城主であった久保織部入道行春公(一六一一[慶長十六]年七月七日没)の位牌がまつられてある。久保行春公は一念と号し、松尾の上方の深山から約八キロ山を切り開き水路をつくる(松尾深山井手として現存)など、地方開発に尽くした人である。

無量庵(高野川)
 正法寺の末寺。平安時代後期に創立されたと伝えられる。大洲如法寺の住職であった岡村耕堂という博学と風流に富む僧が、庵主になり住民の教化に努めた。

堂峯瑞松庵(元小網庵)(小網)
 慶長年間(一五九六~一六一四)には既に建立されていたが、一九一一(明治四十四)年火災により全焼した。その後、再建されたが老朽化が進み、一九七一(昭和四十六)年十一月に再々建され、堂峯瑞松庵として現在に至る。小網庵ともいわれていた。