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双海町誌

第三節 近・現代の交通①

 本町の交通網は、国道五六号・国道三七八号とJR予讃線(町内に五つの駅)が基幹となっている。四国縦貫自動車道には伊予インターで結ばれている。
 県道・町道・農道・生活道のネットワークも整備され、町民の利便性は確保されている。
 国鉄(現在のJR)が開通して以来、松山・伊予市方面への通勤・通学は、ほとんどこれに依存していた。しかし、一九六五(昭和四十)年代から自家用車の普及が著しくなり、鉄道やバスの利用者は急激に減少し、便数や車両数が制限されるようになった。現在では、通勤者のほとんどが自家用車を使用し、鉄道を利用するのは学生や老人等が主体となってきている。


一 道   路

(1) 四国縦貫自動車道
 一九九七(平成九)年二月に、伊予ICが伊予市市場にでき、交通アクセスが非常に便利になった。
 二〇〇〇(平成十二)年に、伊予ICから大洲ICまで開通した。本町の柆野・東峰・高見を通過し、双海トンネルと高見橋が設置された。

(2) 国   道

国道五六号
 明治になると各地で県道の改修が行われるようになった。
 一九〇四(明治三十七)年、当時県道であった現在の国道五六号が、県の認定を受けて改良された。この路線は、犬寄ー東峰ー高見を経由していたが、一九七〇(昭和四十五)年に犬寄隧道が開通したことにより、犬寄峠の難所が解消された。

国道三七八号
 一八九七(明治三十)年ごろから海岸道路改修の要望が強くなったため、米岡総衛門らが中心となって郡内をあげて事業完遂に全力をあげた結果、一九一六(大正五)年、郡道として全線開通した。
 その際、横松郷川に架かる橋には、当時の郡長であった倉根是翼の尽力を記念して、倉根橋と名付けられた。更に一九一五(大正四)年、この道路沿いに大正天皇の即位の大礼を記念して松が植樹された。この松は、私有地だったところを除いてところどころに残っていたが、昭和四十年代後半から五十年代前半に松くい虫(マツノザイセン虫)の被害で全滅した。
 なおこの郡道は、一九二一(大正十)年五月に四号県道に認定された。その後、いったん県道をはずされて主要道路と位置づけられたが、再び一九五五(昭和三十)年に県道伊予長浜線として認定され、改良が加えられた。特に砂利の路面からアスファルト舗装の路面への工事が急がれ、一九七〇(昭和四十五)年には舗装工事がほぽ完成した。
 しかし、このころから自家用車の普及やトラックの増加・大型化による交通渋滞が発生しはしめた。離合所が設置されたが、渋滞は解消されず、バイパス路線が必要になった。そこで、海岸を埋め立てて二車線化を図った。
 一九七五(昭和五十)年には、国道三七八号に昇格した。下浜地域から小網・灘町・日喰・上浜方面に至る町内の全区間には、改良工事が実施され、一九九三(平成五)年に二車線道路として全面開通をみた。現在は、「夕やけこやけライン」と名づけられ、どこからでも瀬戸の島々をシルエット状に写し出す美しい夕日が眺められる国道として、ツーリングを楽しむ人々のメッカとなっている。なお、現在は伊予市三秋から高野川の間の第二次改良工事が行われている。

(3) 県   道

広田ー双海線[一九三四(昭和九)年に県より認定]
 国道三七八号(灘町)より分岐し、日尾野ー柆野ー犬寄ー中山ー広田村に至る。一九二四(大正十三)年から翠小学校前ー日尾野ー柆野間を、また一九二九(昭和四)年から柆野ー犬寄間をそれぞれ施工した。この記録から推測すると、灘町ー翠小学校前までの間は、それ以前の開通と思われる。
 橋梁については、昭和五十年代から幅員拡張・路線変更工事がなされ、木橋からコンクリート橋へと変わっていった。二瀬橋は延長二一・一メートルだったものが三三・〇メートルに、渡瀬橋は一八・〇メートルが三〇・六メートルになった。また、土屋橋五四・五メートル、唐子谷橋一〇・五メートルが新設された。

中山ー双海線
 広田双海線の翠小学校前(大栄口橋)から分岐し、大栄ー高見を経て国道五六号に至り、更に国道東峰トンネル近くから犬寄の集落内を通り中山に至る。完成は、昭和三十年ごろであった。

内子ー双海線[未完成]
 本郷から内子町に至る間が計画され、昭和二十年代から工事に着手した。その中間を起点として林道が開設され、一九九一(平成三)年から牛ノ峯を越え、内子町(石畳)に通じている。工事は本谷の上部で中断している。

串―中山線[一九二三(大正十二)年に県より認定】
 串ー内子線(鳥越峠の直下)より分岐し、鳥越峠を越えて内子町(石畳)、中山町に至る。一九八六(昭和六十一)年に開通した。

串―内子線
 豊田川河口から奥西―朝が峠ー法師―大洲市(田処)に至る。一九六七(昭和四十二)年に産業開発道路として完成した。

(4) 町   道
 路線が六六線あり、総延長は一二万一四一・五メートルである。

(5) 救農土木事業によって整備された道路(農道・林道)
 農道・林道の整備は、昭和初期の農村の不況対策として、土木事業の一環として実施された。しかし当初は、道路ができるとますます失業者が増えるとの事由で農民の反対が強く、事業の進捗ははかばかしくなかった。
 救農土木事業として全額国庫負担によって整備された道路は、次のとおりである。

本村道路
・第一期工事 一九三二(昭和七)年起工 幅員三メートル 延長一七〇メートル
・第二期工事 一九三三(昭和八)年 延長一六○メートル(総延長三三〇メートルとなる)
 総工費 五六一円(一メートル当たりの工費は一円七〇銭)
一九四二(昭和十七)年と一九四三(昭和十八)年に工事が再開され、延長一三○○メートルが完成した。その後、町道に編入された。

池之窪道路
 一九三二(昭和七)年に第一期工事、第二期工事は翌年に着工されたが、着工の起点が悪かったために完通しなかった。一部整備された箇所の利用度も低かった。

その他の農道
 救農土木事業による農道の整備は、日喰・富岡・閏住・石ノ久保・本谷・上灘各地の集落で施工されていった。救農土木道路はその後、延長・拡幅等が加えられ、現在は町道に編入されている。

壷神林道(現在町道)
 満野・富貴・松尾の三集落を結ぶ幅員三メートル、延長約五〇〇〇メートルの林道。一九三三(昭和八)年に第一期工事に着工し、その後第二期工事・第三期工事が継続された。第一期工事に要した工費は、一メートル当たり六〇銭であった。ちなみに、当時の一人役の人夫賃は六〇銭である。

池之窪林道(現在町道)
 一九五〇(昭和二十五)年に竣工した、幅員二・五メートル、延長四三〇〇メートルの林道。地区の所有林を売却した五九万七〇〇〇円を充当して、総工費二七九万一八九四円を要して完成した。

その他の林道
 高野川道路(一九三三〈昭和八〉年二月完成)、奥大栄林道(一九四七〈昭和二十二〉年三月完成)、両谷道路(一九五七〈昭和三十二〉年四月完成)などがある(いずれも現在町道)。

(6) 農   道
 太平洋戦争後は、農業の近代化が進み、農機具の改良、運搬車・自動車の普及が農業経営を合理化させていった。
 農業機械や自動車の普及が、必然的に農道の延長や拡幅等の整備を促進することとなった。

(7) 農免道路(現在町道)
 町が主体となって、国庫から補助を受けて奥西から池之窪地区までの道路整備に着工した。一九六七(昭和四十二)年度に、全長二〇六二・四メートル(幅員五メートル)の道路が完成した。


町内の国道の現況

町内の国道の現況


町内の県道の現況

町内の県道の現況


町道路線 1

町道路線 1


町道路線 2

町道路線 2


農道一覧

農道一覧


林道一覧

林道一覧