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双海町誌

第三節 近・現代の交通②

二 鉄   道
 交通の根幹をなす鉄道は、本町においては昭和に入ってから敷設された。まず、一九三二(昭和七)年十二月一日に国鉄(現JR)予讃線の伊予上灘駅までが開通し、続いて一九三五(昭和十)年六月九日には下灘駅までが開通した。そして、同年十月六日には長浜駅までが開通した。
 敷設工事に伴い、本町には鉄橋が、畑(一二六メートル)・小谷(二九メートル)・上灘(一三四メートル)・高岸(三二メートル)・豊田(一六メートル)・本村(八一・七三メートル)に架けられ、トンネルが上灘地区の三か所に建設された。県道との平面交差(踏切)も下灘地区に三か所つくられた。
 その後、一九六三(昭和三十八)年二月一日に高野川駅が、翌一九六四(昭和三十九)年十月一日には串駅が無人駅として開設された。
 一九八三(昭和五十八)年七月に国鉄予讃本線(現海岸回り)維持存続総決起大会(大洲市・長浜町・双海町・保内町の一市三町)を開催するなど、本町の大切な交通機関の維持活動を行った。
 しかし、一九八六(昭和六十一)年三月、国鉄最後の新設路線の一つとして内山線(現予讃線)が開業すると同時に下灘駅が無人化され、運行本数も減少した。更に、一九九一(平成三)年十一月には、伊予上灘駅も無人化され、町内五か所のすべての駅が無人化となった。
 鉄道の開通に伴って、それまで船を利用していた旅客は、鉄道に吸収されることとなった。一方輸出貨物は、九割が船便、残りの一割が荷馬車・鉄道での輸送となっていった。なお自動車は、八台の予州自動車と五台の三共自動車が、長浜・大洲・宇和島・八幡浜方面の輸送に当たった。

乗降者数の推移(一日平均)
 利用者は、年々減少の傾向にある。これは、双海町の総人口が減少したことと、自家用車の増加による。
 なおこの数字は、乗降者の延べ人員であるから、実人員はこの約半数と考えられる。

列 車 数
双海町内を通過する列車数は次のとおりである。

運賃の変遷
開通した当時(一九三五〈昭和十〉年ごろ)の運賃は、伊予上灘ー下灘間と下灘ー喜多灘間がともに大人が一〇銭、子どもが半額の五銭であった。また、下灘から大洲及び松山間は大人四〇銭であった。
 二〇〇四(平成十六)年現在の運賃は、伊予上灘駅-下灘駅間が二〇〇円、伊予上灘ー松山間が四四〇円(一九七五〈昭和五十〉年ごろは一〇〇円)である。

鉄道輸送の変遷
 鉄道が大洲まで開通したことによって、船便が取り消されることになり、貨物の輸送もしだいに鉄道が取って代わるようになっていった。そしてついには、運送店が常設され、貨物輸送のほとんどが鉄道利用となった。
 しかし一九六〇(昭和三十五)年、国鉄が運営の大改正を行い、旅客輸送の合理化・スピードアップを図るとともに、貨物の包数の拡大を図ったため、貨物駅は限定されることとなり、小口・大目の荷物の取扱いは中止されることとなった。
 以降、いよ上灘・下灘・喜多灘の各駅の貨物は、日本通運によるトラック輸送となった。


三 海   路
 明治の中期になっても、本町には定期航路はなかった。初め上灘の港・下灘の港に汽船の寄港をみたのは、一八九三(明治二十六)年のことであったが、すぐに中止されてしまった。
 一九〇六(明治三十九)年、交通の不便を痛感した栗田愛十郎は、貨物の輸送と地区の開発を図るために長浜の有志とともに奔走し、再び三津ー二名津間に汽船を回航させることに成功した。この船便は、上り下り合わせて四航海であった。
 就航した船は、宝安丸・大和丸・海勝丸・相生丸等であった。当時山で働いていた人々は、これらの回航船が通過するのを見ることで、時間を知ったといわれている。
 こうして、航路は昭和の初期まで存続し、本町の貨物の輸送に貢献していたが、鉄道の開通に伴って廃止されることになった。航路の廃止に伴って、上灘の港・下灘の港は、ともに純漁港となった。

海上輸送の変遷
 上灘の港は、寛永年間から年貢米などの物資の集散地として船の出入りで賑わっていた。
 薪の積出しは、明治中期から大正年間までが最盛期であった。下灘には、大久保・豊田・本村・満野から木材・クヌギが阪神方面に積み出されていった。ちなみに当時の船主は、大下松太郎、久保高次郎、上田常太郎、岡井門太郎、久田春蔵等であった。
 下灘の港から積み出されるものには、田処・麓・石畳地区のものも多く、朝が峠・鳥越峠・佛堂峠から牛馬を使って運搬された材木・クヌギが、大久保・豊田から船積みされた。なお、朝が峠のものは、一部を池之窪に出すこともあり、峠を越えてからは、猫車で海岸まで運搬して船積みされていた。


四 交通機関等

駕   籠
 竹製又は木製で、人の乗る部分を長柄の中央につるし、前後から担いで運ぶ乗物。江戸時代に普及したが、特定の人たちが利用するものであった。

人 力 車
 海岸道路が完成した大正中期ごろから利用されるようになった。上灘地区では吉岡寅信・宮内万衛・宮内都太郎・都築弥太郎・門田三代吉が、下灘地区では続田浅太郎が開業していた。
 まったく使用されなくなったのは、一九五〇(昭和二十五)年ごろである。

客 馬 車
 一九二〇(大正九)年ごろに門田三代吉が開業したが、長くは続かず、後年人力車に転業した。

自 転 車
 明治の終わりごろからは、自分で運転して、自分の思うところに行くことのできる乗物が出現し始めた。自転車は、その代表的なものであった。
 初めて購入して使用したのは、下灘地区では一九〇九(明治四十二)年の栗田忠度、上灘地区では高岡チヨノであった。

オートバイ
 昭和に入ると、オートバイなどの機械による乗物が出現した。下灘地区では、越智が一九二九(昭和四)年ごろに初めて購人した。
 オートバイも、時代とともに年々改良されて、新式化されている。

伊予鉄バス
 町内を走る路線バスは、一九四三(昭和十八)年に認可された長浜線(北山崎村ー長浜)によって運行を開始した。自家用車のないこの時代には、貴重な住民の足として歓迎された。その後、一九五一(昭和二十六)年ごろに大栄線(役場ー大栄口)が、一九五九(昭和三十四)年に日尾野線(役場ー日尾野)が認可された。当時のバスはいつも満員であった。
 その後、自家用車の時代が到来するとともに、路線数や便数はしだいに少なくなり、利用者数も減少していった。しかし、小学生や保育園児の通学・通園用としての役割は重要で、路線を継続するため、一九七三(昭和四十八)年から過疎バス運行助成金として運行会社へ補助が行われるようになった(一九七三〈昭和四十八〉年度二四〇万円~二〇〇三〈平成十五〉年度七二〇万円)。
 二〇〇四(平成十六)年現在、長浜ー大栄線(一日三往復)、郡中ー柆野口線(一日一往復)、郡中ー長浜線(一日一往復)が伊予鉄南予バスによって運行されている。

営 業 車
・どるばハイヤー(灘町、現在五台)
 一九五八(昭和三十三)年三月に免許を取得して、同年十月から開業した。下灘出張所は、一九六二(昭和三十七)年十一月に開設されたが、三年後に閉鎖された。
 現在は、東峰・高見地区の翠小児童と上灘中生徒の通学(帰路)の交通機関としても利用されている。

自家用車
 普及し始めたのは、一九六〇(昭和三十五)年ごろからである。年を経るごとに台数が増えていった。


五 貨物輸送
 人力による貨物の輸送には、肩に担ぐ、背に負う、天秤で前後にになう方法、振分けで担ぐなど、様々な方法がある。山村では、背に負うオイコ(カルイコ)が最も多く使用されていた。
 しかしいずれにしても、これらの方法では多くの荷物を運ぶことはできない。荷物を多く運ぶ方法としては、この地方独特の猫車があった。

猫   車
 猫車の始まりは、藩主の参勤交代のお供をして江戸に出た大栄の吉太郎という木挽が、たまたま子どものおもちゃである車を見たことにある。ヒントを得た吉太郎は、種々工夫して二輪車をつくり出し、薪炭の運搬に利用した。これを見ていた仲間の政治や利平などが、「二輪車を狭い山道に利用することはできないものか」と考えて様々工夫を凝らしてできあがったのが猫車である。
 政治たちは、それまで山道などで使っていたすらし舟に車輪をとりつけることを思いついたのである。これを駆使すれば、細い山道でも運搬は可能であった。猫車は、その重宝さから広く利用されるようになっていった。
 猫車は、明治・大正・昭和になってからも、山間農家における材木・薪等の搬出に使用された。この地域の人々の現金所得獲得に大いに貢献したのである。上灘で考案されたことから、灘車と言われたほどであった。ちなみに、一般的に使用された猫車の寸法は、縦一八〇センチ・横八〇センチのものであった。なお、この猫車には一時税金も課せられ、焼判が押された。

運送機関
 貨物の輸送は、鉄道が開通すると同時に各駅に運送店が設置されてその業務に当たっていた。しかし一九四二(昭和十七)年三月に伊予通運株式会社がそれらの業務を引き継ぐこととなり、更に一九四四(昭和十九)年十月には日本通運株式会社松山支店の営業所が鉄道輸送と陸上輸送を行うこととなった。
 その後、国鉄の改正があり、一九六〇(昭和三十五)年に喜多灘・下灘・いよ上灘の各駅へは貨物車廃止となった。それに伴い、大口・小口荷物の取扱いは伊予市駅扱いとなり、その他の荷物はトラックによる陸上輸送によることとなった(なお、町内の各駅は一九六四〈昭和三十九〉年まではミカンの積出しの季節駅として認められた)。
 陸上の輸送は、日本通運、名鉄(前・中予)運送、予州自動車などがあたることとなった。町内では、園芸自動車、双海陸運、愛媛トラック運送などが営業を開始した。

荷 馬 車
 大正時代から昭和二十年代にかけて、物資の輸送には荷馬車が使用された。主に材木やミカンの運搬用として、郡中や長浜へ運行されることが多かった。最も多いときには、地区内に一五台あったが、一九五五(昭和三十)年ごろに姿を消した。

便利運送者
 便利運送者とは、渡海船やリヤカーなどで貨物や客の輸送を行っていた者のことをいう。
 一八九七(明治三十)年から一九三〇(昭和五)年まで、上浜の松田浅太郎は息子の徳太郎とともに親子二代にわたって、豊田-長浜間の輸送を行っていた。この便利運送は、満野・富貴・本村などの各集落にも寄ったため、多くの人々に親しまれていた。
 また、上浜の山下与市は、一九三五(昭和十)年から一九四五(昭和二十)年まで、豊田ー郡中間を最初の一年はリヤカーで、その後は自転車を使用して荷物の運搬や委託商用などを行っていた。家から家までの宅送業務も請け負っていたため、その便利さが重宝がられた。


予讃本線のあゆみ 1

予讃本線のあゆみ 1


予讃本線のあゆみ 2

予讃本線のあゆみ 2


予讃本線のあゆみ 3

予讃本線のあゆみ 3


予讃本線のあゆみ 4

予讃本線のあゆみ 4


上灘駅開通当時の模様

上灘駅開通当時の模様


駅別乗車人員 普通

駅別乗車人員 普通


駅別乗車人員 定期

駅別乗車人員 定期


駅別乗車人員 合計

駅別乗車人員 合計


列車通過本数

列車通過本数


車両台数

車両台数