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双海町誌

第八編 人物小伝

一 教育家 大塚長助   (奥大栄)
                 〈不詳~一八〇四〉
 戦国時代、四国統一に乗り出した土佐の長宗我部が各地を席巻していったとき、中山町にあった雨山城も開城し、その城主は奥大栄の国木原に逃れてそこに住みついた。
 村人たちは城主の死後、神殿を建ててこれを祀った。それは通称玄羽の宮といわれた。城主の子孫は、村の中心人物として活躍した。特に村人の教育に努めた。
 大塚長助もその一人であった。彼は漢学に造詣が深く、浴川と号して和歌・俳句にも堪能であった。後に灘町に出て塾を開き、子弟の教育に当たって大いに実績をあげたので、その名は近郷近在まで広まっていった。
 一八〇四(文化元)年に四〇歳を待たず他界したが、弟子たちはその徳を伝えるべく、一八二八(文政十一)年に追善供養を兼ねて立派な位牌を正光・本覚両寺に贈った。


二 孝行箕の千代次   (日尾野)
               〈一七八〇~一八三五〉
 一七八〇(安永九)年、千代次は日尾野の常八の子として生まれたが、二歳のときに父親が死んだため、叔父の宗八に引き取られて養われた。宗八はもともと病身であったうえに、眼病をわずらって失明してしまったので、生活は特に苦しかった。
 そのため千代次は、八歳のころから箕のつくり方を習い、日夜その製作に励んで生活の糧を得るとともに、宗八の医薬を買って看病に努めていた。なかには宗八のもとを離れて他家の養子になってはとすすめてくれる者もあったが、千代次はまったく耳をかさなかった。
 このことが大洲藩主(一〇代泰済公)に聞こえ、一七九五(寛政七)年、おほめのことばと賞金を賜っただけでなく、箕を藩主に献上するという光栄にも浴した。
 それから人々は、千代次のつくった箕を「孝行箕」といいはやすようになった。

  海山も千代よびかわしたすけなん
     親につかふる人のまことは

 これは、千代次の徳をたたえてっくられたものである。
 千代次はその後、妻をめとって幸福な生活を送り、一八三五(天保六)年に亡くなった。


三 村の用水を確保した 門田九郎左衛門   (本郷)
                    〈生没年不詳〉
 天下統一の一環として豊臣秀吉が四国征伐の軍を送った際に、四国に君臨していた土佐の長宗我部元親から「高岸村からも一人出陣せよ」との命令がくだされたが、誰一人として自分から従軍しようと申し出るものはなかった。
 当時、本郷川の東一帯の田は水利の便がよかったので、少しぐらいの日照りには平気であったが、西側の田は水が不足していたため、農民たちは毎年のように困却していた。その有様を見ていた門田九郎左衛門は「楠原谷の水を高岸川西側の田に用水として渡すなら、自分が出陣しよう」と申し出た。高岸村の人々は、喜んで彼の言い分を受け入れ、楠原谷の水を優先的に西側に引くことを承知した。
 従軍した九郎左衛門は敗戦ではあったが、無事に帰郷することができた。彼の村を思うまごころによって西側一帯の田は救われたのである。
 その後一八六〇(万延元)年七月にも、日照りが続いて極度に水が不足したことがあった。このときも東西の両者が楠原谷の水をめぐって対立し、役人や庄屋たちが調停に入った。しかし結局は九郎左衛門時代からの習慣が認められることとなった。なおその際、東側の人々の悲願も聞き入れられて、池の堤防も築かれることとなった。
 現在も、本郷の光久保に四〇〇年の歴史を伝える碑が残っている。


四 まごころ傘の創始者 好五郎   (久保)
                〈一七九七~一八六二〉
 一七九七(寛政九)年に現在の伊予市大平で生まれた好五郎は、二五歳のときに久保の一農家(現在の鷹尾家)の養嗣となった人である。体格が頑丈で力持ちでもあった彼は働き者であった。
 正月のお宮参りのときでさえも、礼服の懐に仕事着を入れて行き、帰途に着替えて仕事をし、何食わぬ顔で帰ったと伝えられている。それでいて、暇さえあれば本を読み、ときには和歌や俳句に非凡な才能を見せていた。特に当時としては珍しく数学に秀でていて、人々にも教えることもあった。情け深い性質の彼は、生活に困っている者があれば惜しみなく金品を与えていた。
 彼は、通行人が急に降りだした雨で困っている様をたびたび目にしていた。ある日、ついに意を決して近くの地蔵尊のそばに小屋をつくり、蓑・傘を一〇人分備えつけ、「入用の節は勝手に使用すべし。ただし使用後は元へ返しておくべきこと」と書いた立札を掲げて人々の便宜を図ったのである。
 一八六二(文久二)年に彼が六五歳で亡くなったときには、誰一人としてその死を惜しまない者はなかったと伝えられている。


五 村のために池を築いた おきよ   (岡)
                    〈生没年不詳〉
 岡の岡崎家の先祖五郎兵衛の妻おきよは、温厚で忠実でそのうえ大変思いやりの心の深い人であった。
 徳川九代将軍家重の時代に、大洲藩主の加藤泰衡は前藩主泰温の遺子泰武(泰衡の次の藩主)の乳母を探していたが、おきよのことを聞きつけ、さっそく保育の任に当たらせることにした。
 一家だけではなく、村全体の喜びの声に送られて大洲へ出たおきよは、真心込めて泰武のために奉公し、その大任を果たした。
 泰武が六歳になったときにおいとまを願い出て、郷里の岡に帰ることになったが、その際藩主はその功績を褒めたたえ、「そなたに願い事があるならなんなりと叶えてとらそう。遠慮なく申せ」と言葉をかけたという。いろいろ考えたおきよは。
「私の村はほとんどの者が農業をしています。農家にとって大切なものは水でございますが、私の村にはその水が少なく、わずかの日照りにも困るありさまです。この村人たちの難儀を救うために、犬寄か東峰のあたりに池を掘っていただきたいと思います」
と答えた。思いもかけないおきよの願い事に藩主は驚いたが、郷里の人々を思う一念にいたくうたれて「その願い事、きっと叶えてとらすぞ」と力強くうなずいたという。
 その後まもなく実地調査が行われ、東峰に池づくりが着手された。


六 孝養を尽くした 魚見ツネ   (下浜)
                    〈生没年不詳〉
 ツネは、下浜の魚見寅吉の妻であった。彼女が嫁いできたころは、魚見家の生活は苦しく、そのうえ老いた父母と盲目の姉を抱えていたために、ツネの労苦は言語を絶するほどであった。
 老母が臨終の際にツネを枕もとによんで、「二〇年もの長い年月、まことに至れり尽くせりのお世話を受けて、心のなかで手を合わせて拝まぬ日とてなかった。この大恩に対して、何一つ残してあげるものもない。ただ墓場の下からお前たちの幸福を一心に祈らせてもらいまするぞ」と涙を流しながら感謝の言葉を残して他界した。このことからも、ツネの孝養のほどが察せられよう。
 しかし、まことに苦しい生活との戦いの連続であった。帯をほどいてゆっくり休める夜もなかったほどだという。
 ある晩、例によって姉を背負って、近くの風呂に連れていく途中で役人に出会った。役人はそのことを役所に知らせた。役所はその感心な行いに対して、再三再四表彰を行ったため、近郷近在にその名が知られるようになったということである。


七 書道家 都築覚兵衛   (灘町)
                    〈生没年不詳〉
 覚兵衛は幼いころから勉学に励んだ。成人してからは、漢学に造詣が深かったため、近隣の人々の指導にも当たっていたが、特に能筆家として有名であった。
 一八五〇(嘉永三)年ごろ、大型帆船の幟に書いた彼の字が中国人に知られ、「名も知らぬいなかに、これはどの達筆家がいるか」と感嘆されてから、春草(彼の号)の名が一躍広まり、文人墨客のあいだで彼の書が高く評価されるようになったという。


八 楽焼の名手 帯屋与衛門   (灘町)
                    〈生没年不詳〉
与衛門は、焼物師である帯屋治兵衛の子として灘町に生まれたが、父とともに諸国を転々とした。一八一〇(文化七)年ごろ、治兵衛が兵庫県に落ち着いて窯を築き、焼物に精を出すようになる。このころから、与衛門も本格的に楽焼の研究を開始した。
 生まれつき器用であったうえに、熱心な研究がむくわれ、その作品は人々に称賛された。特に茶器類は大名たちのあいだで評判をよんで名声はますます高くなり、時の将軍から号をたまわるとともに葵の紋(徳川家の紋)の使用を許された。
 晩年は盲目となって淋しい生活ではあったが、八〇余歳の長寿を全うした。
 幕末のころ、墓参のために本町に帰った際に楽焼を知人に配ったといわれている。


九 種痘を接種した 井上新吉   (三島)
               〈一八三五~一九〇一〉
 一八三五(天保六)年に三島の医師であった井上松契の子として生まれた井上新吉は、幼いころに父と死別し、母サトの手によって養育された。
 そして一四歳のときから大洲の山本典医のもとで勉学に励んでいたが、成績が秀でていたため、藩主に見いだされて現在の徳山市に漢学の勉強に派遣された。
 その後如海と号し、山本典医のもとにかえって医学を学んでいたが、一九歳のときに藩の命令によって江戸に行き、大村益次郎(後の兵部大輔)の門に入って洋学や医学の勉強を開始した。
 当時は幕末の風雲急を告げる騒がしい時代で、大村益次郎も軍学の研究に心を向けていたため、如海もいつしか軍学の勉強を開始した。その結果、藩からの学資の支給は止められてしまった。
 しかし彼はひるまず、軍学の研究を続けた。益次郎らに従って国事に奔走する覚悟を決めた彼は、今生の思い出にと墓参のために帰国した。その際に種痘の種を持って帰り、郷土の人々に接種したのである。種痘の接種は、当地方では初めてのことであった。
 如海はすぐに上京しようと考えていたが、藩主は領地を離れることを許さなかった。しかたがないので、三島に落ち着いて村人の診療に当たることにした。
 その後、砥部へ移って医所を開業していたが、まもなく藩主から大洲の明倫堂でオランダ語と英語の教授をするよう命じられた。
 廃藩後新吉は、郷里の上灘に帰ってようやく落ち着いた生活を送ることになった。しかし彼の医師としての力量は衰えてはいなかった。彼の赤痢に対する治療は特に有名であった。
 一八八七(明治二十)年ごろには、上灘雄弁会を結成して自ら会頭を務め、青年たちの演説を奨励したり体育の振興に努めたりしていたが、一九〇一(明治三十四)年五月、人々に惜しまれながら六六歳で波瀾にとんだ生涯を閉じた。


一〇 学問をすすめた 玉井琢磨   (本村)
                 〈不詳~一九〇七〉
 山口県の吉川藩医武中の家に生まれた琢磨は、幼年のころに両親と死別して孤児となり、八歳のときに上京して野口左門の家に住み込んで医学の勉強に励み、立派な医者になった。
 その後、玉井道碩の養子となって玉井姓を名のるようになり、友人であった栗田右仲のすすめで、一八五八(安政五)年に本村で医所を開業した。
 琢磨は医師としても高名であったが、漢学にも秀でていたので、その教えを乞うものが多数参集した。彼は診察の合間や夜間などに、自分が生きた幕末から明治初期の出来事や思想などを熱心に教えた。
 彼の謙虚な人柄と、熱心な態度にうたれた人々は、「先生、先生」と彼を慕い、彼の家は門前市をなす状態であった。
 琢磨は一九〇七(明治四十)年に八〇歳を越えて病没したが、その教えを受けた門弟たちは、彼の墓に記念碑を立ててその業績を後世に伝えた。


一一 濯漑の便を図った 赤尾政太郎   (高見)
                   〈生没年不詳〉
昔の高見は、その名のとおり土地が高く、大栄川の水を引く井出(通称旧井出)はあったが、水量が少なくて水田はわずかであった。
 赤尾政太郎たちは常々これを嘆いていたが、あるとき大栄川上流の冷水(地名)が豊富な水量をもち、しかも高見より土地が高いので、そこから水を引くことを思いついた。しかしそれには、隧道を設けなければならなかった。
 一九〇二(明治三十五)年、村人と協議を繰り返した結果、率先して私財を投げ出そうという政太郎の誠意にうたれて、結束して工事に着手することになった。
 工事は順調に進行し、豊富な水が高見を潤すこととなった。それまで畑や山であった土地も、立派な水田に生まれ変わった。村人たちはこれを新井出と呼んだ。
 直径約一メートル・長さ四〇メートルにわたってくり抜かれたこの隧道は、政太郎たちの功績と水を求める農民の不屈の魂が刻まれている。


一二 村民の福祉に尽くした 都築三喜太郎   (奥西)
                   〈生没年不詳〉
 都築三喜太郎は、下灘の旧家である都築弥六の長男として奥西に生まれた。
 明治二十三年の町村制の実施に伴って下灘村の初代村長に就任して以来、村長として連続五期・一五年間在任した。
 その問、日清・日露戦争が勃発したため、民心を安定させることと、村民の教育・福祉・生活向上に全力を傾注した。また、産業の振興と副業・貯蓄の奨励にも努めた。
 県議会議員として愛媛県政にも参画したが、常に人心の安定策を第一義とする政治家であったと伝えられている。


一三 医学者 本田重次郎   (灘町)
               〈一八七九~一九一五〉
 一八七九(明治十二)年三月十五日、灘町で本田右一郎の四男として生まれた本田重次郎は、一八九四(明治二十七)年に岡山の私立関西中学校に入学した。その後、第三高等学校医学部を抜群の成績で卒業した彼は、京都帝国大学医科薬物教室の助手を経て一九〇五(明治三十八)年に岡山医学専門学校の教授に就任し、高等官七等に叙せられた。二六歳のときであった。
 また一九〇九(明治四十二)年七月には、東京帝国大学より医学博士の学位を受け、ドイツに留学した。更に一九一四(大正三)年には高等官四等、翌年には正六位に叙せられたが、一九一五(大正四)年三月一日に三五歳の若さで病死した。
 彼の将来に多大の期待を寄せていた人々は、短い一生を学究に捧げた本田重次郎の死を心から悲しんだという。


一四 『上灘村郷土誌』を編纂した 井上右市   (久保)
               〈一八五〇~一九一七〉
 井上右市は、一八五〇(嘉永三)年二月二十三日に久保の井上半次郎の次男として生まれた。明治維新の際に、十代の若さで中央の勤皇家の感化を受け、それに激情を傾注したと伝えられる。
 その後、弱冠二〇歳で大洲騒動の鎮定に奔走し、神山県赤川参事(県知事)より上灘村横目付に補された。
 廃藩置県当時に上灘村の山林や源太石山等が全部官有となったときには、県を説得してすべてを民有地にするなど、優れた業績を残した。
 一八七四(明治七)年には上灘川大洪水後の復旧工事に尽力し、一八九八(明治三十一)年には奥組に村会議員の配分がなかったことに起因する町組との抗争の和解に努めた。更に郡会議員として郡政でも活躍した。特に、明治末期から彼が編纂委員として灘町の宮崎に居住する富永正男に代書させた『上灘村郷土誌』の原本は、唯一の郷土資料として現在でも大切に役場に保管されている(『上灘村郷土誌』の原本は、厚さが六センチで、すべて毛筆で記述されている。明治四十三年に起稿して大正四年に完成した。相当数の編集委員が取材を分担したと考えられるがその記録はない)。
 右市は、郷土誌の原本を完成させた二年後の一九一七(大正六)年七月三十日に六七歳で没した。


一五 漁業の開発者 栗田愛十郎   (上浜)
               〈一八六〇~一九二三〉
 栗田愛十郎は、一八六〇(万延元)年に串の農家に生まれた。愛十郎は、一九〇二(明治三十五)年、豊田郵便受取所が開設されるとともにその取扱人となり、同三十八年には豊田郵便局長に任せられ、その後の一八年間、郵便事業に従事した。設備の改善・事業の拡張等に尽力して数々の功績を上げたため、たびたび表彰を受けた。なお、豊田郵便局が下灘郵便局となったのは一九一九(大正八)年のことである。
 愛十郎はまた、一九〇四(明治三十七)年に長浜町の有志らと図って、当時の松山市三津浜や西宇和郡二名津等との間に定期航路を開くなど、運輸事業にも貢献した。
 一方、一九一三(大正二)年、下浜の若松儀平ら二二名の者が共同出資して西宇和郡三机村から巾着網を購入し、三机の三と豊田の豊を組み合わせて「三豊巾着網」と名付けて、大規模ないわし漁を開始した。しかし、この画期的な事業も運営が思わしくなく、借金のために経営が四苦八苦の状態であった。
 彼らの懇望を受けて、愛十郎はこの三豊網の再建にも乗り出した。まず株制度を採用して自分も組合員の一人となり、全組合員に一株ずつをもたせ、網は株主の労力で動かして、利益を平等に分配することとした。また、日掛貯金を実施して借金の返済にあてた。
 こうした様々な方策が功を奏して、組合は見事に立ち直ったのである。
 彼は一九二三(大正十二)年に六三歳で没したが、組合員たちはその功績を永久に伝えようと記念碑を建立し、その碑文に「三豊巾着網ハ大正二年成立セシモ解散シ悲境二迫リ翁に救済ヲ乞翁快諾孜々画策激励ヲ加へ連中大二発憤シ今日ノ成効ヲ見ル…」と刻み込んだ。


一六 篤農家 東熊吉   (富貴)
               〈一八五九~一九三三〉
 東熊吉は、一八五九(安政六)年十月三日に富貴で生まれた。温厚篤実な人柄で、誰に接しても謙遜と親切に徹し、常に公共の利益を考えて行動した。特に農事改良には熱心で、郷土の指導等に尽力した。
 また、村民の信用が厚かったため、村会議員・学務委員・村農会長・郡農会議員等を歴任した。更に、愛媛県知事より農事督励委員に任命され、大日本農会総裁より名誉賞も授与された。
 熊吉の人生は、農業の振興にすべてを捧げたものであった。


一七 江山焼の創始者 槙鹿蔵   (灘町)
               〈一八六〇~一九三六)
 鹿蔵は、一八六〇(万延元)年に灘町の河村家の常茂の三男として生まれた。
 父の常茂は画の名手であった。天一稲荷神社(灘町)に掲げられている「農家の年中行事」の絵からも、その非凡な画才がうかがわれる。また、浄瑠璃の道でも一家をなし、「雨乞虹の掛橋」という台本までつくった人でもあった。旅行が好きで各地に遊び、至る所で逸話を残した。
 一方、鹿蔵の兄の常吉もまた、板金細工や料理等に他人がまねできない手腕をもっていた。
 しかし鹿蔵は、父や兄より更に手先が器用であった。彼が一二歳のとき、高野川の焼物家に遊びに行き、土をいじっている姿を山口県から来ていた陶工が見て驚き、父の常茂に懇願して萩市に連れて帰ることになったのである。
 鹿蔵は、陶工のもとでいろいろと焼物の勉強をし、一八歳にして一人前の陶工となった。そして、帰郷して今の伊予市三島にあった高橋陶器製造所の職長となり、楽焼の研究にも取り組むようになった。特に同郷の先輩である帯屋与衛門に刺激されるところが大きかったということである。
 二一歳にして高知県の政治家であった林有造の妻の実家から、その手腕を認められて招かれ、人形その他の細工物を焼いた。その際、有造から江山という号を贈られた。
 二七歳ごろに再び帰郷して砥部で陶工として働いた後、伊予市郡中の槙家を継ぎ、同市に居を定めて楽焼に打ち込み始めた。
 その作品は人々に賞賛された。一九〇二(明治三十五)年に皇太子殿下(後の大正天皇)が御来松の際、お買上げの光栄に浴した。また一九〇九(明治四十二)年に伊藤博文が郡中に来られたときには、茶碗と徳利の楽焼を披露した。更に一九二二(大正十一)年に皇太子殿下(後の昭和天皇)からもお買上げの栄を受けるなどして、彼の名声は全国に広まった。
 各地の展覧会や博覧会等でも、数々の賞を受けた。
 しかし、天才とまでうたわれた彼も、一九三六(昭和十一)年一月に七六歳でこの世を去った。
 安芸の宮島の七浦焼も彼が始めたものと伝えられている。


一八 地方自治功労者 井上熊太郎   (久保)
               〈一八八〇~一九三八〉
 久保に半次郎という農夫がいた。父母への孝養が抜きんでて立派であったため、それが藩主にまで聞こえて、表彰された人である。
 井上熊太郎は、この半次郎の孫として一八八〇(明治十三)年に生まれた。一九一七(大正六)年、三七歳の若さで上灘村長となった熊太郎は、以降一九三七(昭和十二)年に退職するまでの 二〇年間を郷土発展のために尽力した。彼がなしとげた事業は、一九二一(大正十)年九月の町制の施行、電話電灯の架設、道路の新設や改修、由並・翠両小学校の校舎改築と敷地の拡張、火葬場の設置、木炭倉庫の建設、産業組合並びに役場の改築等、数えきれないほどである。
 彼の偉大さは、未来を洞察する英知と、俗論に迎合することなくそれを実践したことにあるといえよう。全国町村長会から自治功労者として表彰されたのも当然のことだと考えられる。
 彼は意志が強固だった反面、大変に情け深い人でもあった。家人に対してはいつも「己に薄くして他に厚くせよ」と教えていたが、近所の貧しい家へ米を送って生活を助けたこともあった。
 一九三八(昭和十三)年六月、彼は五八歳でこの世を去った。上灘町は、彼の多年にわたる功労に対して同年四月に感謝会を開いていたが、更にその功績を永久に伝えるべく、彼の死後に現在の双海町役場前に頌徳碑を建立した。
 彼が亡くなった年の正光寺(彼の墓があった)の盆踊りには、「井上さんのために」といって、七〇・八〇歳の老人までが踊りに集まったと伝えられている。


一九 薬学者 奥島貫一郎   (灘町)
               〈一八八二~一九四五〉
奥島貫一郎は、一八八二(明治十五)年に奥島清三郎の長男として灘町に生まれた。
 彼は幼少のころから神童と称されるほど知力に優れていた。当時の岡山医学専門学校を首席で卒業し、薬理学を専攻して博士号を受けた。その後、岡山医科大学の教授となり、欧米にも前後二度遊学した。
 彼の名は、パビナール(鎮痛剤)とイルガピリン(治療剤)の臨床家として全国的に知られるようになった。
 温厚な人柄で、詩人としても優れていた。教えを受けた後輩も多く、幾多の秀才を輩出したともいわれている。
 彼は、薬学の功績が認められて正四位勲二等に叙せられたが、一九四五(昭和二十)年十二月一日に六三歳で病没した。


二〇 地方自治功労者 栗坂一眞   (満野)
               〈一八八六~一九五〇〉
 栗坂一眞は、一八八六(明治十九)年二月二十七日に満野の栗坂善三郎の長男として生まれた。
 彼は、早くから果樹栽培を営んでいたが、一九二八(昭和三)年に下灘村長に就任し、以来連続四期在職した。また、一九三〇(昭和五)年には圓山園芸組合(下灘園芸協同組合の前身)を創設して初代組合長に就任し、下灘地区の果樹園振興にも尽くした。その後、一九三五(昭和十)年から四年間、愛媛県議会議員としても活躍した。彼が郷土に残した最大の業績は、当時の国鉄予讃線を本町経由にしたことといえよう。その時の計画では、郡中(伊予市)・中山・内子を経て大洲に結ぶ案と、上灘・下灘・長浜を経て大洲に結ぶ案の二案があり、時の政党は二分して激論を交わしていた。彼は、上灘町長井上熊太郎、長浜町長西村兵太郎とともに猛運動を続け、ついに海岸経由を実現させたのである。今日の双海町があるのは、JR海岸線によるところも大きい。なお彼は、県道下灘・内子線にも尽力したが、開通したのは没後の昭和四十二年のことであった。


二一 漁業の振興者 上岡義計   (小網)
               〈一八九七~一九六一〉
 上岡義計は、一八九七(明治三十)年十一月三日、小網で生まれた。幼少のころから進取の気性に富み、合わせて周到・緻密な英才であった。
 一九四九(昭和二十四)年に高岸漁業組合、一九五六(昭和三十一)年には高野川漁業組合を合併して上灘漁業協同組合の発足に尽力し、その組合長・理事に就任した。
 組合長となってからは、組合員に貯蓄を奨励し、購買事業を盛んにして福利を図った。また一九六〇(昭和三十五)年には、鋼船を建造して漁業の近代化を期した。反面、彼は不正・不法に対しては追求が厳しく、組合員の違反漁業は組合員そのものを殺すことに直結するとして、その防止に努めた。彼が組合長として在職している間に、組合は再三全国的表彰の栄を受けた。
 彼はまた、伊予灘海区漁業調整委員を四期一二年勤めて、愛媛県漁政に多大の貢献をした。
 一九六一(昭和三十六)年十二月三十日、将来の大成を惜しまれながら六四歳で病死した。


二二 地方自治功労者 米岡伊太郎   (高野川)
               〈一八八七~一九六八〉
 一八八七(明治二十)年一月十三日に高野川で生まれた米岡伊太郎は、温厚な性質ではあったが、不正や安易な妥協を極度に排斥した意志強固の人物でもあった。
 半生を愛媛県庁に勤務した彼は、愛媛県庁宇和支庁長を最後に辞任し、一九四六(昭和二十一)年一月三十日、郷里の仲間に迎えられて上灘町長に就任した。そして一九四七(昭和二十二)年四月の公選制による初めての上灘町長に就任し、大戦後の郷土の再建に尽力した。
 彼は、上灘中学校の設置、県立松山南高等学校上灘分校(定時制・家庭コース)の開設、産業道路上灘・内子線の着工、上灘漁港の改修五か年計画の完成など、多大の業績をあげた。また、民生事業や軍人遺族の援護等にも尽力した。
 一九五五(昭和三十)年三月の町村合併によって町長を退任したのちも、上灘農業協同組合長に就任して老齢をおして郷土の産業振興に努めた。
 一九六六(昭和四十一)年、長年にわたって地方自治に貢献した功績が認められて生存者叙勲の栄に浴し、勲六等旭日章を受けたが、一九六八(昭和四十三)年二月十五日、八一歳で没した。


二三 民生事業に尽力した 水沼寿丸   (本村)
                〈一九〇三~一九七〇>
 一九〇三(明治三十六)年に本村に生まれた水沼寿丸は、昭和の初めに宮崎県延岡市に渡り、養蚕教師として指導に当たっていた。その後、満州国に渡り、養蚕振興に尽くしたが、再度延岡に戻り、終戦による食糧難時に故郷下灘に帰った。
 帰郷後は、農業に従事しながら下灘村初代の民生児童委員に選任されて総務に就任し、外地からの引揚者援護・貧困者救済・季節保育所の開設運営などの民生業務に尽力した。また、下灘村公民館運営審議委員長として、戦後に設立された公民館の基礎づくりに重要な役割を果たした。
 一九五五(昭和三十)年の本町発足後も、引き続き民生児童委員総務として活躍し、伊予郡民生児童委員協議会会長や愛媛県民生児童委員協議会会長(一九五九〈昭和三十四〉年から四年間)などを歴任した。
 これらの功績が認められて藍綬褒章を受けたが、一九七〇(昭和四十五)年に六七歳で他界した。


二四 強い意志で裁判官となった 谷本仙一郎   (本村)
                〈一八九八~一九八〇〉
 谷本仙一郎は、一八九八(明治三十二年十一月十四日、本村に生まれた。仙一郎は、持前の人一倍強い向学心と精神力及び強い体力で運命を切り開き、意志を貫き通して裁判官となった。
 明治・大正・昭和の三時代にわたって、八二歳の生涯を閉じるまで、二十世紀を力いっぱい生き抜いた人物である。
 [主な経歴と表彰・受賞]
・愛媛師範学校を卒業して南宇和郡の小学校に勤務(大正八年三月)
・小学校を退職して上京、日本大学法学部に入学(大正九年八月)
・高等文官試験、判検事・弁護士試験に合格(大正十三年十二月)
・日本大学を卒業し、東京・大阪・仙台裁判所の判事となる(大正十五年)
・松山・宇都宮地方裁判所長を経験し、東京高等裁判所の判事となる(昭和二十八年十二月)
・六五歳で定年退官し、千葉県で弁護士となる。調停委員も務める(昭和三十八年十一月)
・四〇年近い裁判官としての功績で正三位勲二等瑞宝章を受賞する(昭和五十五年)


二五 園芸組合・果樹園の振興者 角田工美吉   〔本村〕
                〈一八九二~一九八一〉
 角田工美吉は、一八九二(明治二十五)年十二月十五日、本村で生まれた。
 一九一九(大正八)年ごろにミカン栽培の有利なことをいち早く察知した彼は、温州ミカンの苗を導入し、ミカン産地形成の先駆者となった。また一九三〇(昭和五)年には、当時の有志とともに圓山園芸組合を設立した。
 その後、一九四五(昭和二十)年から昭和四十三年まで下灘園芸組合長、昭和三十年から四十七年まで伊予園芸農協組合長を勤めるなど長期間にわたって果樹園の振興はもとより園芸組合の充実に尽力した。また、農業経営に企業的な機能を導入して農業者の経済的・社会的地位の向上を図り、他産業との格差の縮小に努めた。
 特に、果樹栽培の研究、オートメーション選果機の導入と選果場の建設、伊予園芸農協の完全統合と組織整備、園芸作業簡素化のためのシトラー箱の導入、種々の生産改善対策、早生伊予柑の出荷販売などに力を注いだ。これらすべての事業は、彼の誠実で温厚な性格と強固な意志・情熱によって成果をみたのである。
 一九八一(昭和五十六)年四月十九日に惜しまれっつ八八歳でこの世を去った。
 [主な経歴と表彰・受賞]
・愛媛県青果農協連合会理事
・下灘園芸組合長(昭和二十年~四十三年)
・伊予園芸農協組合長(昭和三十年~四十七年)
・愛媛県知事表彰(昭和三十七年十月)
・黄綬褒章受賞(昭和三十八年五月)
・勲五等瑞宝章受賞(昭和四十一年十一月)


二六 地方自治功労者 北松好栄   (岡)
                〈一九〇二~一九八二〉
 一九〇二(明治三十五)年に岡に生まれた北松好栄は、三〇歳のときに当時日本領土だった台湾の台北市に渡って商社の外交員をしていたが、一九三八(昭和十三)年に帰郷して土木建設業を始めた。そして、上灘町議会議員・上灘町森林組合長・上灘町商工会長・上灘町消防団長や本町初代の消防団長に就任するなど、地域の第一線で活躍した。
 一九四七(昭和二十二)年四月には愛媛県議会議員(民主党)に当選(昭和二十二年四月三十日~昭和二十六年四月二十九日)し、総務警察・土木委員として活躍した。当時の双海地域の漁業は、沖合で操業するイワシ巾着網の全盛時代で、小網に新・旧、下灘にも新・旧の四統の巾着網があり、種々の紛争が絶えなかった。彼はこれらの紛争の調停に奔走し、ついに漁業区域や入漁順位等を定めた「協定書」の締結をみた。四巾着網代表者とともに、立会人として名をとどめている。
 その後、一九五五(昭和三十)年四月に再び愛媛県議会議員(無所属・その後中正クラブ会長・自民党)に当選(昭和三十年四月三十日~昭和三十四年四月二十九日)して総務警察委員長や建設委員として活躍した。また、この当時には犬寄から柆野を経て久保・灘町に至る県道広田・双海線が開通していたが、更に高見から大栄を経由して久保に至る中山・双海線の県道昇格にも尽力した。以後、同県道は数か所あった急カーブ等が順次大幅に改修され、本町の海岸を走行する国道三七八号と国道五六号を結ぶ主要路線として面目を一新した。
 一九八二(昭和五十七)年、八〇歳で没した。


二七 地方自治功労者 松田彌太郎   (閏住)
                〈一九〇三~一九八六〉
 松田彌太郎は、一九〇三(明治三十六)年二月十一日、閏住に生まれた。
 一九四二(昭和十七)年、下灘村議会議員に選ばれ、終戦前後の混乱した村政に参画し、一九四九(昭和二十四)年には議長も務めた。一九五一(昭和二十六)年には、下灘村長に就任し、村政最後の長として困難な町村合併をなしとげた。
 一九五五(昭和三十)年四月、本町の初代町長に就任し、二町村の対等合併による旧町村意識が残存するなかで、本町の実質一本化と、大幅赤字を抱えた町財政の再建に尽力し、新町建設の基盤を確立した。
 また、その温厚誠実な人柄と識見をもって町政の発展に尽力し、特に教育・福祉・文化施設の整備、県道・町道・農道・漁港の改修整備等を献身的になしとげた。
 これら数々の功績により、一九七五(昭和五十)年四月、本町初の名誉町民となった。一九八六(昭和六十一)年三月二十五日、八十三歳で永眠した際には町葬が営まれ、町民こぞって彼の死を惜しんだ。
 孫の眞雄は、彌太郎を偲んで次のように語る。
 「人は彌太郎のことを偉かったと言い、町のために尽くしたと言う。しかし、家族に対しては優しいほうではなかった。『大事を成すは、犠牲を生む』がモットーだったのか、それが愛情表現の足りなさにつながったのかもしれない。とにかく、郷土愛と使命感を持ってそれを貫く姿には、幼いながら感心させられていた。粉骨砕身の奉仕とは、こういう人を指すのかとも思った。厳格さに加えて無欲だったことが、様々な功績を残すことになったのではないかと思う。今になって、厳しさと信念を持つことを教えてくれたのは、祖父の愛だったと気づかされる」
[主な表彰・受賞」
・全国町村会長表彰(昭和三十七年一月)
・全国高等学校PTA連合会長表彰(昭和三十九年八月)
・全国町村会長特別表彰(昭和四十二年一月)
・文部大臣表彰(昭和四十三年十月)
・勲五等双光旭日章受賞(昭和五十三年四月)
・叙正六位(昭和六十一年三月)


二八 民生業務に尽力した 中田悟   (城之下)
                〈一九〇三~一九八九〉
 一九〇三(明治三十六)年に城之下に生まれた中田悟は、太平洋戦争ごろまでは当時別子銅山からの銅鉱石積出港として繁栄した新居浜で食堂を経営していた。業績は順調であったが、食糧品が統制下に置かれて徐々に深刻になり、ついには営業不能となったため、終戦を機に帰郷した。
 その後、上灘町及び合併後の双海町民生児童委員として弱者救済に尽力した。
 昭和四十年代には、総務として、母子家庭や貧困者への無利子での小口貸付資金の設置や、法務局と提携して心配事相談事業の開設に尽力した。また、老人憩いの家や保育園を拠点とした老人福祉活動や児童支援などについても、地道な努力を重ねた。
 更に、地元の諸問題についても、区長として一〇余年対処した。とりわけ、水源地に中型の貯水槽を新設して生活用水を確保するなど多大な業績を残した。
 民生児童委員を勇退後は、心配事相談所所長を勤めるなど、まさに体力の続くまでその半生を郷土の民生安定に捧げた。一九八九(平成元)年、惜しまれながら八六年の生涯を閉じた。