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久万町誌

1 鎌倉時代の小田・久万郷

 中世の久万山の中心となるのは、道後湯築城主河野氏の部将で大除城主大野氏である。大野氏に関する記録としては、「予陽河野家譜」をはじめ、この地方の旧家に「熊大代家城主大野家山来」「大野直昌由緒聞書」「大野家四十八家の次第」などが残されているが、ほとんど同文であって信用し難い記事も多いので、ここでは正史に照して信用できる大体のことがらを記すことにする。
 「吾妻鏡」巻一七、建仁三年(一二〇三)四月六日の条に、河野通信が年末鎌倉にいたところ、たまたま暇を得て明朝帰国するという時に、頼家将軍より御教書を賜わり、伊予国守護佐々木三郎兵衛尉盛綱の命令を受けることなく、国内の近親郎従を指揮することを許されているのは有名な事実であるが、更に同巻、元久二年(一二〇五)閏七月二九日既に将軍は三代実朝となっているのであるが右の特例を裏付けするような記事がある。すなわち幕府は、伊予国の御家人三二人に守護の指揮を止めて通信の統率下においたというので、その三二人の名前が列記されている。その中、一七名ほどの名乗りに現在の地名と符合するものがある。
 浅海太郎頼季 浮穴社太夫高茂 田窪太郎高房   垣生太郎清員
 井門太郎重仲 余戸源三入道  久万太郎大夫高盛 日吉四郎高兼
 別宮大夫長員 三島大祝安時  寺町五郎太夫信忠
などで、これらの御家人たちは河野氏と特別な関係があったらしく、名乗りの地名が高縄山を挾んだ北・中予地区に限られる所からみて、河野氏の勢力圏が偲ばれる。
 久万・寺町などの浮穴郡山方に属する地名は、この地方を根拠とする御家人がいたのであろうかと考えられる。ただ、大野系図には太田六郎、太田十郎、あるいは久万弥太郎、久万小太郎などと、太田、久万が盛んに出てくるのであるが、吾妻鏡と同名の者はない。彼らは御家人とまでいかぬ地方有力者だったろうか、あるいは架空の人物であろうか。
 大野系図一九代の綱頼は承久三年宇治橋で討死、二〇代成俊は一〇〇余歳で元寇に軍功あり、二三代直国は同じく元寇の軍功によって肥前神崎郷に土地を賜わり彼地に移り、二四代直利が家を継いだとしている。

大野系図

大野系図