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久万町誌

2 南北朝時代の大野氏

 貞治三年、南朝年号では正平一九年(一三六四)の末、阿讃の細川頼之が伊予に侵入し、湯月城の河野通朝は周桑郡三芳町にある瀬田山に進んで防いだが敗れ、自害した。その子通堯は北条市難波の恵良城にこもって細川勢を防いだが抗しきれず安芸国能美島に逃れ、更に九州に走って南朝方に降り、征西将軍懐良親王に従って名を通直と改め、筑紫にとどまっていた。
 正平二二年一二月に義詮将軍が死去し、北朝側の動揺に乗じて伊予国では、河野通堯配下の吉岡、大野、森山らが活発な行動を開始した。この報を受けた京都では、正平二三年、仁木義尹を将として伊予国に差し向けた。伊予の北朝方に迎えられた仁木軍は宇和・喜多の方から兵を進めて、山方衆の根拠である浮穴郡大田で一大決戦を試み、遂に大野、森山らは敗れ、ことの次第を九州にある通堯に報じた。この時、北朝の仁木義尹を迎え撃ったのは、二六代義直及び父直頼であって、この時の大野にも二派あって、義直の弟詮義は北朝に通じ、細川頼有の感状を貰っている。
 南朝側の敗北の報を受けた通堯は、やがて九州をたって六月三〇日、伊予郡松前浜に上陸し、北朝側の完草人道、同出羽守らと戦って勝利をおさめた。通堯の軍には土居、西園寺、山方衆らが加わって意気大いにあがり、温泉郡大空城に完草入道を討ち、花見山城を陥れ府中を攻めた。翌正平二四年(一三六九)八月には新居、宇摩郡に向かい、一一月に新居郡高外木城で大いに細川軍を破った。こうして通堯を中心とする伊予の南朝方は大いに振い、この年に四国の総大将として若宮良成親王を迎えようとする計画もあり、懐良親王も東征を企てられるというように、肥後の菊池氏と呼応して優勢となった。建徳二年(一三七一)には征西将車から通堯は伊予国守護職に補せられている。
 こうした中で大野詮義は、松前合戦に利なく大田に帰城したが、やはり細川方にあって働いていたと見え、応安五年(一三七二)に頼有から出された次の文書がある。
  予州に於て忠節を致すの条、以て神妙也、弥、戦功を抽んずべきの状如件
    応安五年十一月十三日        細川右馬頭頼明
      大野十郎左衛門尉殿
 しかし、西国の南朝軍も応安四年(一三七一)今川貞世が九州探題となってからは振わなくなる。こうした情勢の中にあって、通堯も大勢に順応して将軍方に帰したものらしく康暦元年(一三七九)七月八日、義満から伊予国守護職に補せられている。
 この年の閏四月一四日、管領細川頼之は失脚し、讃岐に帰った。同じ将軍方であっても河野氏と細川氏は元来宿敵の関係にあり、加うるに九月五日、義満将軍から頼之寵誅罰の御教書が通堯にも発せられた関係もあってか、頼之の軍が伊予国に侵入してきた。
 一方、河野通堯は、これを迎え撃つため、宇和郡の西園寺公俊とともに周桑郡佐志久原に出陣し、大いに細川勢と戦ったが一一月六日、武運つたなく討死した。この時、通堯の二子、兄の亀王は一一歳、弟鬼王は九歳であったが、これ以後河野家は全く振るわず、衰亡への道を辿ることとなった。
 また、大野家について言えば、当主義直及び父の直頼は通堯とともに佐志久原で討死し、二七代の家督は細川頼有らの推挙によって詮義と決定した。