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久万町誌

4 応仁の乱と大野氏

 応仁元年(一四六七)に起こった細川勝元対山名宗全の、いわゆる応仁の大乱において、大野氏三一代通繁の去就はいかがであっただろうか。もちろん当時の大野の勢力は、伊予の総帥河野氏の下にあったはずで、この乱における河野の動きにより大野の去就も察知されるわけである。
 ところが、この時の河野の去就については諸説あって、今にわかに断ずることができない。当時河野には、湯月城にある河野宗家の教通と、東予を根拠としたと思われる予州家の通春がいたが、両家の間にはしばしば内抗があった。「予陽河野家譜」によれば、予州家の通春は一族を率い東軍細川方にくみして忠戦しており、宗家教通は細川家との長い反目から、周防の大内政弘と通じて西車の山名方に加わったとしている。
 これに対し、「築山本河野家譜」には、河野通春は大内政弘に従って京に上り、二〇〇余騎をもって摂津の小町墳で東軍細川方の赤松政則の軍と戦い、自ら手創を負ったが大いに軍功あり、凱歌をあげて入洛し、在京一三年とあるが、宗家教通については何も記録されていない。
 また、「経覚弘要抄」によれば、伊予の河野氏は大内政弘と共に西軍に加わる。とあって通春、教通のいずれとも判明しない。
 しかし、一方、大野氏関係の文書を見ると、いろいろ疑問な点もあるが、応仁の乱の進退に関する限り一致している。すなわち、湯築の河野宗家は東軍細川方であり、大野もこれに従ったが、縁につながる土岐成頼、河野通春のすすめに従って中途で西軍山名方に加わったというのである。この大野家に関する記録は、どの程度信用していいものだろうか。
 この応仁の乱における河野両家の進退について、郷土史家景浦勉は「応仁の乱では河野氏は本家も予州家も西軍山名氏に属したのである。『予陽河野家譜』はこれまでの通春、教通の小ぜり合いが未解決のまま応仁の乱に突入したため、同陣営にあっても反目していたし、乱後も対立するのでこのように記述したのであろう。」と注目すべき見解を発表している。