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久万町誌

7 山城守直昌

 直昌は利直の四男、享禄三年(一五三〇)一二月二八日に大除城で誕生、母は平岡大和守房実の娘、幼名を熊王丸といい、天文一一年に一三歳で元服して弥六郎、また九郎兵衛尉、山城守に任ぜられた。
 天文二二年の直昌家督相続については、ちょっとした内紛があったようである。長男友直が夭折し、二男直秀、三男直澄は妾腹に生まれ、四男直昌が正室の子であったため兄を越えて大除城主となったので、三男直秀は大いに憤って中国に立退くなどのことがあったが、他の兄弟はみな直昌に従ったという。
 ところで、直昌は利直の弟であるという説がある。「予陽河野家譜」巻之四に、
  直家一男紀州利直早世に依りて二男山城守直昌其跡を相続す。
とあって、西園寺論文などもこれを採っているが、これは利直の一男友直早世のため、弟直昌が家督を継いだことの誤記であろう。大野系図のほとんどは、すべて利直の子となっており、「予陽河野家譜」も、利直の小手ヵ滝城・大熊城・花山城の攻略のことを記しており、また石手寺鐘名から見ても、利直早世は符合しない。
 さて、三代直昌については、「予陽河野家譜」は、
  元来武勇父祖に超え度々無双の誉を抽て、一族幕下四〇余人各掻上を所々に構へ、之に居住す。
と記されているが、彼の代となってようやく身辺多端となってきた。
 永禄一一年(一五六八)正月、土佐一条家の家臣福留隼人、桑名太郎左衛門は五○○余騎をもって久万山に打ち入った。直昌は尾首掃部介・船草出羽守・山内丹波守・明神清左衛門・梅木但馬守・渡辺左馬介・越智帯刀らと二〇〇余騎で奮戦、防禦につとめて、土佐勢を退けることができた。
 元亀三年(一五七二)七月に中国毛利氏に属する苫西・津高・神石・見嶋・高宮らの一族が河野に宿意あって八〇〇〇余騎を分けて攻め寄せて来た。河野方では、伊予国の総力を挙げて撃退することとなり、直昌は久万・小田両山の三〇〇余騎を率いて井門郷に打って出た。高井城主土居通利らの一族も手兵一五○余人を率いてこれに加わった。八月二日直昌らの軍は中川原の敵を討ち、三日に北河原で対戦してこれを破り、各所の伊予軍は勝利して遂に中国勢を敗走させた。
 その九月に土佐の長宗我部元親が宇和郡に攻め入ることがあり、この機に乗じて阿波国の三好氏が織田信長と結んで伊予に侵人した。九月一二日、直昌は先陣を承り敵と対戦し、大内信泰、中通言、重松豊後守らの側面からの援助を得て、寄手を堀江に撃退した。翌一三日敵は恵良城を奪い、これに立て籠ったので、直昌先陣となって風早郡に向かう途中、河野郷で伏兵に逢って敗れ、一たびは退いたが援軍を得て進み戦った。一六日直昌軍は先陣で敵陣に駈け入ったが、士卒共に疲れ果てて味方の軍と交代した。阿波勢は更に三〇〇余騎の兵船を加勢として北条浦に漕ぎ寄せて来たが、直昌、土居清良等は防戦につとめ、一七日遂に敵を浅海浦に追うことができた。
 翌天正元年(一五七三)のはじめ、直昌の弟で地蔵嶽城(後の大洲城)の城主大野直之が長宗我部元親の授けを得て河野氏に背いたので、三月一八日に河野通吉は、五〇〇〇余騎を率いて喜多郡に進発した。従う武将の中に直昌もいたが、折からの雷鳴豪雨にもかかわらず、喜多郡の曽根宣高の手勢と共に、全軍に先んじて地蔵嶽に急ぎ、肱川をへだてて矢戦を展開した。全軍その後に続き城兵と対峙して互いに矢戦を交える中、濁流とうとうとして流れる川中に直昌、宣高等決死の五○○余騎は馬を乗り入れ、敵前渡河して城中に突入して火を放った。このため直之はじめ城兵は防戦の術を失い、鴾森城(大洲市北只)に退いた。
 河野勢は進んで鴾森を攻め、直之方も防戦につとめる中へ、土佐から元親の妹聟波川玄蕃が八〇〇余騎を率いて加勢し、しかも近日中に元親自ら大車を率いて来援し、河野と雌雄を決しようといううわさがたった。そこで河野方は援けを中国の毛利に求め、まず鴾森城を陥れた後元親と決戦することに決し、早速安芸国に使を送った。
 これに応じた毛利方は早速宍戸隆家、吉川元春、小早川隆景に一万余騎をつけて来援させた。一方、鴾森城ではしきりに援軍を待ったが、元親はこの形勢を見て仮病をつかって動かず、進退きわまった直之は前非を悔い河野の軍門に降ったので、身柄を兄直昌に預けることにした。波川玄蕃も小早川の陣に、自分の死を条件として従兵の命乞いをしたが、隆景は、今後土佐が河野に攻め入るときは、毛利は大兵を挙げて土佐に討ち入る旨を元親に伝えるよう命じて、これを助けて土佐にかえした。この中国勢の来援に対し河野家では鞍馬三匹、砂金一〇〇両を贈って謝意を表した。以上は「予陽河野家譜」の語るところである。