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久万町誌

9 大除城落城と大野氏の末路

 上総介直之は帰国の雄志を燃やしながら、なお元親に随身していたが、天正七年(一五七九)河野家が通吉の病死により若年の通直の世となった機会に郡内に帰り、地蔵嶽城に拠って近隣を攻略し、河野家よりの討伐軍をも撃退して、隠然たる勢力を確立した。
 天正一〇年(一五八二)には、黒瀬城主西園寺氏(今の宇和町)と争って河野氏の調停で和解し、一二年一二月二四日には、元親の手先となって梶谷氏の居城高森を攻めて抜けず、翌一三年、豊臣秀吉の四国征伐の将小早川隆景の郡内への進軍によって曽根宣高と共に捕えられた。と「予陽河野家譜」は記しているが、直之については異説も多い。
 さて、一条氏以来土佐勢の久万山侵攻は前後七回におよんでいるが、地の利、人の和をもってする久万山勢の猛反撃に業を煮やした元親は、遂に中央突破作戦を断念し、遠く四国山脈の東西を迂回する作戦に出た。すなわち、兵二万余騎をもって、阿波・讃岐の両国に進攻これらを切り従え、破竹の勢いをもって東予方面へ迫る一方、宇和方面へも攻め込んだ。この南予方面では相当激しい戦いが行われたが、中でも三滝城主北之川殿紀式部大輔親安の奮戦ぶりとその落城哀話は、今もこの地方の語り草となっている。こうして、宇和より喜多へ侵人した土佐勢は、その余力をかって浮穴郡に打ち入り太田、砥部を切り従えて、背後から遂に久万山に押し入り、あちこちの番城をかすめて大除に迫った。また、平地部へも乱人し、温泉、久米、野間の各地で河野の本隊と戦い、これを屈服させて、遂に宿願の四国全土をその手中におさめた。
 このようにして、元親が四国平定に手間どっている間に、一方、秀吉はいち早く畿内を掌握し、更に兵を進めて、天正一三年七月、小早川隆景を征将とし、三万余をもって四国征伐をはじめた。
 元親を中心とする四国勢はこれを迎え撃ったが、新居浜地方に上陸した小早川軍は、東予の諸城を次々と攻め落とし、破竹の勢いで進撃した。この要撃戦で勇名をはせたのは、金子城主の金子備後守元宅を中心とする高尾城守備車の奮戦振りで、全員壮烈な討ち死を遂げ、古戦場の西条市野々市には、今なお千人塚が残っている。
 さて、緒戦に敗れた元親は戦い利あらずといち早く征討軍に降ったが、河野を中心とする伊予勢はこれにこりず、全軍を本城の湯築城に集結して籠城決戦の構えをみせた。七月二九日怒濤のごとく押し寄せた小早川軍は湯築城を十重ニ十重にとり囲み、一ヵ月にわたってはげしい攻防戦を展開したが城はなかなか陥ちなかった。寄手の大将小早川降景は、河野通直の妻が毛利元就の孫娘であることから、無駄な戦いをやめさせようと九月六日城中に手紙を送って降伏をすすめた。城中では早速軍議を開いた結果、今や時勢の流れに抗すべくもなく、全軍涙を呑んで開城降伏と決定、ここに湯築を本城とする河野幕下の諸城は、ことごとく小早川の軍門に降った。
 ここにおいて、伊予は全く平定され、秀吉は隆景の功を賞し、伊予の内三五万石を彼に与えた。通直は所領を没収され、降景にあずけられたが、親類すじの関係もあって、降景は通直以下を客分として丁重に扱い、そのまま湯築館に住まわせるとともに、幕下の将兵に対しても、「願筋あらん者は申出すべし取次て得さすべし、他国を思う者は道を開いて通すべし、随ふ者は扶持すべし、居る者は下城して居るべし。」と異例の寛大な処置をもって臨んだ。隆景は、また河野、大野等の再興を秀吉にたびたび懇請したが、秀吉は、かつて中国攻めの時、その加勢を河野がけったことを理由に遂に承知しなかった。
 再起の望みを断たれた河野通直は、三年後の天正一五年(一五八七)隆景が筑前に移封されるや、そのすすめにより、同年七月九日降景の出身地である安芸国竹原に落去したが、ほどなく二四歳の若さで病歿し、数百年の伝統をもつ伊予随一の名家河野氏もここに完全に亡んだ。竹原市には、降景が通直の冥福を祈るために建収したという長生寺があり、その境内には悲運の中に若くして世を去った河野通直の墓が、今は訪ねる人もないままにさびしくたたずんでいる。
 さて、直昌は湯築落城後、通直と行動を共にし、通直竹原落去の節は、息子の熊王丸を連れて通直に従い竹原に落ちのびたが、通直がなくなった二年後の天正一七年七月二六日六二歳で彼の地に歿し、東光山薬師寺に葬られた。この前後の事情を「熊大代家城主大野家由来記」は次のように記している。
  天正一五丁亥年七月河野大野家無是非城を渡し牢々の身となり給ふ、河野・大野両家城為請取四国中の大名小名松前表より今治迄船揃有之城請取の面々浅野弾正大弼長政・増田右衛門尉、両家之領分受取の大名戸田民部少輔・福島左衛門大輔両人受取被申侯・両家の一家を始旗下家中悉く牢人と罷成、及迷惑旧知又は山中へ忍び申侯。
 大野本家はこうして久万山を離れ、直昌自身も彼の地に没したが、その一族ないし幕下の諸将の多くは久万、小田の地に帰農し、その子孫はやがて藩政時代の庄屋になったものが多い。