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久万町誌

11 直昌公位牌発見の経緯

 久万町大字菅生槻之沢部落には、古くから大除落城にまつわる数々の哀話が語り伝えられている。幼時よりこの地に育った大野憲は、長ずるに従い、それがあまりにも杜撰であって、史実とはかけ離れたものであることを知り、郷党の一人として、何とか史実をつきとめたいと願うようになったという。そして調査研究に手をつけたのが昭和二六年のことであった。
 調査とは言うものの、部落に伝わる記録が別にあるわけでなく、古木の生い茂る城趾と往時を偲ぶわずかばかりの地名と口碑がせめてもの拠り所で、すべては全く草にの根を分けるに等しいものであった。ところが、ほどなくかねて郷土文化進展に心血を注ぎ日夜挺身していた藤井周一、同潤二の激励と指導を受けて資料も次第に整い、昭和二九年夢想だにしなかった四〇〇年の謎を解くに到った。
 それは、昭和二八年の秋、筆写中の古文書「大野軍談」から、
  大野直昌病に有りて死去竹原奥山田東光山薬師寺に埋葬す永称院殿直真宗昌大居士と送りける。
の条に目がとまったがそもそものきっかけであった。
 言い伝えでは、直昌は天正二年(一五七四)閏八月二五日予土国境笹ヶ峠の一戦で、長曽我部元親に謀られ悲運の最期を遂げたことになっているが、これは後世の捏造であって何の論拠もないことは、既に史家の指摘する所である。西園寺源透も、このことについて「伊予史談」第六五号の大野山城守と大除城に
  通直開城後、隆景の扶助を得て道後の新館に居たが、天正一五年福島正則が湯月城主となりしにより、通直は芸州竹原に移り毛利家の厄介となった。直昌も従うて彼の地へ行ったのであるが、其の年七月一四日通直竹原で病没してからは、直昌の行く処が分らぬ。
と言っているが、事実は湯月開城二年後の天正一五年七月九日、姻戚関係にあたる小早川隆景の好意ある勧めによって、通直竹原落去の節随従して同じく竹原に落去し、その後幾ばくもなくして彼の地に歿している。
 しかし直昌歿後竹原の地に葬るとはいいながら、四〇〇年も経た今日、果たして当時の竹原に当たる地名が残っているであろうか。いわんや薬師寺と称する寺が残存しているかどうか、また、たとえ薬師寺が現存するとしても、彼の地では浪々の一落武者に過ぎぬ直昌の墓碑等が残存しているかどうかまことに覚束ないものであった。そこで、調査にとりかかるてだてとしてとりあえず広島県賀茂郡竹原町教育委員会及び竹原中学校宛照会したとろ、半年ほどたった昭和二九年二月第一報を受け取った。
  立春か来たかの様に暖くなって参りました。お元気でいらっしゃいますか、随分御返事か遅くなって申訳ありません。当史蹟研究会に広大の先生で西村先生がおいでになりますので、そのお手をわずらわして調査していただきました。同封中の様になっておりますので御通知申し上げます。然し古文書がないので、十分な御返事が出来ず残念ですが不悪御容赦の程
                   竹原中学校 佐 藤 一 正
  一、当時の竹原と申すのは御地でしょうか。
   そうです。長生寺現存、同寺に河野氏位牌あり、別に河野氏墓という古墓があります。しかし竹原は現在の竹原町の範囲に止らず、加茂川沿岸の旧五ヶ村ー現在の竹原、下野(竹原町)、東野(東野村)新庄、西野(荘野村)をいうと思います。
  二、記録にあります寺(東光山薬師寺)は現存していますか。
   現存しない。この附近で薬師寺というのは、竹原町の東隣大東村の内、高崎に薬師寺というのがありますがこれは海岸ですからどうもあてはまらないと思います。他に薬師寺というのはありません。荘野村新庄の善明寺がもと蕨山薬師寺といったということです。竹原奥山田というのが固有名詞でしたら該当するものはありませんが、荘野村新庄は奥山田という表現によく合った所ですから、蕨山薬師寺が本光山薬師寺である可能性はあります。現住職柄崎氏は何も記録がないから分らないが、上の可能性は認められているようです。尚、新庄、東野、下野には「南」という姓がかなりあります。
  三、墓、位牌らしきものはありましょうか。
   ありません。但し新庄附近には中世墓も二、三あるようですが、どれが何かわかりません。
  四、何か記録がありましょうか。
   全然なし。
  五、御地へ参りましたら、何か手がかりが得られましょうか。
   得られそうに思いません。
 それは、予想した通り全く雲をつかむにも等しいものであった。ところが、それから半年もたった例年になく残暑のきびしい九月五日、次のような第二報がとどいた。
  残暑か本年は割合にきびしく感ぜられます。其の後御壮健でいらっしゃいますか。お尋ねの大野直昌の件について、再調査の結果をお知らせいたします。本日学校の方に届きましたのでお送り申し上げます。
  郷土史がもし出来上っていましたら、一部か二部お送りしていただいたら好都合ですが、よろしくお願い致します。
  先般はお人形を送って頂いて誠に有難う存じました。
  お知らせまで、暑さの砌お大切に
     九月五日            竹 中 佐 藤 一 正
   先般お尋ねのありました大野直昌最期の地につき一応お答え致しましたが、甚だ杜撰な調べにて其の後ずっと気になっておりましたが、最近確実な事実を二、三調査し得ましたので、この前の回答に代えて新しく回答致します。貴校の郷土史編集に間に合わないかと存じますが、何れ御追補の時には御利用下さい。
  一、お尋ねの竹原奥山田薬師寺は現在の竹原町下野にあったことがわかりました。山田という地名は現在ありませんが、かつて山田という地名があったことは古記録で確実です。薬師寺は明治初年迄ありました。その位置も判明しています。現在は全く水田になっていますか、薬師寺の石を附近の民家が石垣に利用したということです。
  二、薬師寺にあった仏像類は現在約一粁離れた同じく大字下野の成井部落の観音堂に納められており、その中に大野直昌の位牌がありました。
   (表) 永称院殿直真宗昌大居土
   (裏) 天正一七己丑七月二七日
       予州浮穴郡久万山大除城主大野山城守大伴直昌
    施主 予州浮穴郡大田上川村
       大野和五郎直尚
       石塔ハ当寺裏杉垣ノ内二有
   以上の通りであります。石塔は薬師寺が前述のような状態なので探すこともできません。
   これ以外のことがもし判りましたら、又お知らせ致したいと思いますが、あまり見込みがありそうにもありません、現地を調在される場合には案内します。
   最後に御願いがあるのですが、貴校の郷土史ができ上がりましたならばお送り下さい。
 文字通り海で針を拾ったのであるが、先方へは一〇月中旬現地に渡り調在する旨連絡してその準備を急ぎ、とりあえず地元槻之沢部落に、直昌公奉賛会を結成し、大野伊藤太等熱心な賛同者の後援を得て、その態勢を整えた。
 この間、藤井潤二らは現地調査の実施についていろいろと教示を受け、また藤井周一は高齢であったが、竹原行きを快諾し、一〇月一二日現地調査の途に上った。
 最初に直昌の位牌を発見したのは、県立竹原高校の一生徒であった。西村助教授・佐藤教諭らは前述の第一報を送ったものの気がすまず、夏休みを利用して、徹底した調査を進めようと計画していた矢先、たまたま竹原高校より夏休みの課題として、郷土調査が課せられ、その結果、前記上成井部落の観音堂において天正年間の位牌が発見されたと聞き、ただちに現地にいって調在したところ、かねて照会中のものであることが判明したのである。
 一行は、町より徒歩で約二〇分の上成井部落を訪れた。かつては香煙も絶えなかったであろう薬師寺の境内も、今では一面の水田と化し、ただわずかにみすぼらしい一軒家が秋の日ざしを浴びて、置き忘れられたように佇んでいる。その家の前を当時の名残りか、俗称薬師寺道と称する農道が上成井に向けて一直線にぬけている。
 上成井はせいぜい二〇戸程度の小さな部落である。部落の一番上南斜面の山腹に観音堂がある。予想していたよりも立派な堂で、八幡様と称する小さな社殿と同じ境内にあった。堂内には、それにふさわしからぬ立派な厨子が安置され、その中には身の丈七、八〇㌢㍍程度かと思われる金仏と大きな木魚があり、一見して尋常の堂でなかったことがわかる。古老の話によると、薬師寺は明治初年まで現存していたが、当時の殺伐な世相から、住職が盗賊に殺され、寺もほどなく焼失し(明治七年)その後再建されないままに、焼け残った本尊や位牌等を観音堂と共に近くの部落に移し、今日に至ったそうで、由来上成井、下成井の両部落では、隔年交替でその維持供養に当たり二名宛の役員をとって年に一度のお祀りをやって来たとのことである。位牌は堂の一隅に歴代住職のものとともに安置され、俗に「浅野さんの位牌」と呼ばれて今日に至ったのである。堂の裏手には歴代住職の墓石と思われるものが五、六基並んでいる。堂の正面に近く五輪塔の一部と思われる石塔があり、そのそばに長さ一㍍程度の板石型の石碑が、真中から二つに折れて継ぎ合わさったまま残っている。碑文はほとんど読めないほどに古ぼけてはいるが、それでも「称院殿」までは判読され、おそらく直昌の墓碑であろうと思われたが、確認するまでには至らなかった。
 さて部落代表をはじめ観音堂役員に、来意を告げたが、事が位牌のことでもあり、一応部落へ相談してからとのことで、早速部落常会が招集された。
 部落側は長時間揉みに揉んだが、一行の熱意に打たれて遂に折れ、「位牌についての記録を残す」ことを条件に、この位牌の引き渡しを承知した。
 かくして昭和二九年一〇月一五日、公が再起を期して成らず、空しく異境に歿してより、実に三六五年ぶりにその御霊は故山に帰ることができたのである。
 そして、地元槻之沢はもとより、町当局、教育委員会等の尽力により、公生前の偉業を偲び、盛大な法要が槻之沢大除神社において行われた。公逝きてここに三六五年、またもって瞑すべきか。
 以上、直昌公位牌発見の経緯についていささか詳述したが、さらに位牌裏面にある「施主大野和五郎直尚」の直昌墓所参拝のことについて触れておく。
 彼は浮穴郡大田郷上川村の庄屋で増良とも号した。神仏への信仰厚く、あちこちの社寺を参拝する一方、近傍の社寺の修復を行うなど多くの仕事を残しているが、また筆まめで学識もあったらしく、その後裔である小田町上川の大野家には、彼の手になる数々の記録が現存している。
 ところで、この大野家所蔵の系図中、和五郎直尚の事蹟には、寛政九年(一七九七)八月二〇日彼が五五歳の時、出雲大社、厳島参詣の途次、竹原東光山薬師寺を訪れ、遠祖直昌の墓所を参拝して茶湯料を献じ、かつ当座の燈明料として金一分を寺僧に託して帰国した旨記されており、この点前記位牌の裏面に刻まれた彼の記録と完全に符合している。
 なお、大野和五郎直尚展墓の事に関して、先に伊藤義一が発見した久万町大野貞一郎所蔵の「直尚の手記」は、直昌歿後二〇〇年の当時を偲ぶ貴重な記録であり、参考までに記しておく。
  家譜に芸州竹原下山田村と言を尋ね候えば、山田薬師寺と申すは有之と雖も下山田村といふはなしとぞ、之により家系を取出し、東光山薬師寺の住僧に見せ侯えば、むかしは下山田村と申つれども、今は下野村と申し此寺地を山田と申す由物語也、石碑は板石境に甚だ粗相のものなり、文字も幽て見ゆるもあり消たるもあれども相違なく直昌の墓所なり、墓所先年は山田十左衛門と言者持来り掃除有し所、今は南庄三郎と言者墓地の主にて掃除いたし来りたりと聞也、直昌家来付に南甲斐之介と言者あり、直昌命終る迄も随身して、そ後彼地に止りたりと被存候、山田十左衛門は先年より其所の地主にて地名を称せし人、持来れる所、南氏其辺を買求めしより、庄三郎家より掃除致し来りしと被存候、むかしは竹原五ヶ村より念仏、墓所に毎七月入来りし処、一歳口論有て只今は七月一五日下野村よりのぼり五本、一六日大石浦よりのぼり五本、一七日下市村よりのぼり八本御して念仏入来り候由に御座候、下市村は則ち竹原町の事に御座候、其町の山に長生寺御座候、河野通直侯の墓所也、小早川侯より建給ふ寺也、通直候の御法名長生寺殿月渓宗円大居士と申候、その塚は大なる楠木印之由に御座候、右三ヶ村より長生寺にて念仏唱へ、それより山田薬師の裏手直昌の塚へ念仏入れ来り、微少の茶湯料残し置き帰国仕り候。