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久万町誌

1 戦国の久万山

 久万は、浮穴郡荏原郷久万の庄の東明神の里、菅生の里などと呼ばれていた。戦国のころ久万の庄には、小田方面に土居・安持・日野・林の四家があり、現在の久万郷には船草・明神・山之内・政岡・平岡・森・立林・菅・梅木・山下の一〇家その他河野家の給人や浪人を合わせて一八家があった。これは久万山の一八家といわれて合計一万石の知行であった。一八家が現久万町内のどこの地を知行していたかは明らかでない。当時の慣習として、これら一八家はそれぞれの知行地で独裁者として土地はもちろん住民から草木にいたるまで支配し、住民の私生活から生産物などのあらゆることがらについて指図することを常としていたにちがいない。住民もまた自分だもの主領と仰ぎ、親しみを持ってその指図を一命を捨てるようなことがあっても甘んじて受けていた。それは義務感というようなものではなく当然のことと考えていたのであろう。
 当時、久万山に出雲入道という者がいて、土佐の一条家に通じ、久万山を一条家のものにせんものとていろいろと策動した。これがために一八家も常に紛争がたえず、住民は常に難儀をしていた。そこで一八家が協力して話し合い、相談の結果「河野家の頭領河野殿若年にして、一家は申すに及ばず家中の者さえ乱りに罷なり納り兼ねると申す事にて頼り無き事である。然れば大将として頼るべき人は宇津の大野殿なり。家柄と言い人物と申せ申し分なき大将。」と決まり、大野直家その意を受け、久万に来て明神に大除城を築いてはいり、一八家も大野家の家人となった。
 しかし、大野直家も、伊予の総大将である河野家より知行所をもらい、その知行地の内からまた家臣に分かち与えている状態であったので、現久万町内が大野家の直轄であったか、またはその臣下のだれがどの土地を知行していたかもわからない。その後約五○年間この状態が続いたが豊臣秀吉の四国征伐にあって河野家が竹原に亡命するに及び、大野家の直昌及びその主な家臣も同行した。
 織田信長によって一応天下統一の機運が生まれ、続いて豊臣秀吉が天下を統一するにしたがい、世の中は戦国から脱皮し、平和のきざしが見えはじめてきた。
 秀吉が天下統一すると、次々に施策がうち立てられた。
 天正一六年(一五八八)に刀狩りか行われ、戦争を専門とする武士と、平和産業に従事する農民、町民等に分けられた。天正一七年には全国の検地を実施して、それまで各所各様であった田畑の反別を統一し、竿入れを行い、六尺三寸方をもって一歩とし、三〇歩を一畝、一〇畝を一反、一〇反を一町とした。
 また、天正一九年には全国戸口調査をして士・農・工・商の身分法を定めた結果、それらの諸施策が全国に及ぶにしたがって、農民も安定した生活ができるようになった。
 久万の農民もほぼ同じであったが、大野山城守直昌が主に従って竹原へ亡命し、出城、とりで、屋方等の城主やその家臣たちも敗車の常として仕官のすべもなく、刀狩りや身分法によって当然武器を捨てて帰農するのやむなきにいたったのである。
 以上のような豊臣秀吉による一連の施策や制度は、当伊予国にあっては中心地の大阪に比較的近距離であり、しかも、福島、加藤等の豊臣譜代の大名によって治められていたので、直ちに実施されたことに間違いないと思われる。
 「久万山手鑑」によると「天正二五丁亥年天下御一同の御竿入当国は浅野弾正殿御改の由夫より七年後文禄三年(一五九四)甲午年民部少殿御竿入れ」とあるところから見ると、一度にでき上がったのでなく長年かかっていることがわかる。