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久万町誌

三 久万山農民のくらし

 古い時代のことはわからないが、戦国のころともなると、河野氏は明神に大除城を築いて、宇津城主大野氏を迎えてこれを守らせ、土佐長宗我部氏の侵入に備え、永禄四年(一五六一)その孫直昌のころには重信川以南の山方を守り、四一の番城を構え旗下一族郎党をもって固めた。
 この時代は、いわゆる兵農分離はしていないころであるから、平素は農業を営み、一たん一大事という時は一族郎党武器を取って、天然の要害である山城に立籠り戦いに備えたものであろう。
 このころになると今の大字である小部落が順次にできて、自主的に相互に扶助しあったものであろうといわれている。山之内庄屋文書をみると当時の状況が大体わかる。
  一、知行百石を一領米と申し田畑上中下坪し六町六反六畝持ち来る侍を一領米と申す。
    三町三反四畝は御軍用米に御蔵入れこれあり、残り分知行に成る。之により一領米と申すは六町六反六畝也、古来より小田・久万・大洲・宇和我々持にて我儘に田畑持来り御軍用米不足に至り、田畑拾町の内にて三歩一の御定を以て知行の面々より御用高米御引差に付斯くの如し。
  一、天正一四丙戌年河野家没収の後給人知行所を立ち除き給地を其の儘所持、年貢上納相勤む。戸田殿御領地となる。同一七己丑年御領中一同庄屋御改め元給人に仰付けられ候。
  一、天正一四丙戌年上家と成り(上家とは明城せしをいう)天正一六年(一五八八)より小田・久万・荏原より大洲迄戸田民部少輔殿御知行処と相成り大洲御居城、それ以前伊予国主河野殿の時、宇和・大洲・小田・久万・荏原郷を限り大野直昌旗頭に候。
    天正一五年秀吉公御検地、当国は浅野長政殿御改めの由。
  一、久万山庄屋には諸小物成一切之無く、公儀軍事の節は松前表払撃つべき事昔よりの法也。
  一、加藤左馬助殿御領地の節は、久万は加藤御家老佃次郎兵衛殿知行処に候処、元和元乙卯年(一六一五)大坂夏御陣の節大川村庄屋殿土居三郎左衛門、日ノ浦村同船草治郎右衛門両人佃氏に属し出勢異儀なく帰国す。
  一、延宝八庚中年(一六八〇)久万山庄屋連印左ノ通り久松家御代官江歎願す。
     乍恐口上
  一、此の度村々庄屋地高、夫米諸小物成、御百姓並ニ仰付となされ其意を奉候。併し上家以前大野直昌旗下にて久万山中具足四八両分の軍役相勤めし私共先祖は、具足一両前、二両前、三四、両前の知行所持に御座候。
    上家より戸田民部少輔殿に相渡り其の時より知行の節いづれも御雇に付き庄屋役仰せつけられ御年貢上納仕来り申候、然れども上家の前の由緒を以て、久万山庄屋ども先祖より夫米、諸小物成民部小輔殿より御免となり、其の後左馬助様御代中務様御代にも前々の通り仰せ付けられ、御書とも庄屋持来り田地諸役仕向前に仰せ出され候う。
    勝山様は只今まで久万山分は、前の通り夫米諸小物成、庄屋は仰せ付けられす候。
    此の以前日野浦村御検地仰せ付けられ、庄屋地高大分に相成候後は、夫米、諸小物成右の子細を以て御赦免致しなされ候。
    然らば万一の御用も御座候時は、何れも相応の働き仕るべきとまかりあり候、御了簡を以て、夫米、諸小物成先祖の通りに仰せ付け下されば有難く存じ奉り候。先祖の御名をもにない難く存じ、本改めもかえりみず御恵の外他なく御座侯以上
                      久万山庄屋 連 判
     延宝八年申八月
      内藤加兵衛 様
 以上であるが延宝八年(一六八〇)に庄屋の連中による夫米、諸小物成免除の陳情書である。
 これで見ると庄屋連中の戦田時代における先祖たちの功績をたたえ、その由来を述べ、そのために庄屋を百姓並みにしないで特典を与えてもらいたいといっていることがわかる。
 これが江戸時代になり幕藩体制の完備とともに、士農工商の階級制度もきびしくなり、衣食の生活も原始的で素朴なものであったことであろう。
 食生活をとってみても、主食はとうもろこしと麦で、米を食べるのは、盆と正月、祭もみ輿の出る日一日だけであったという。
 平素でさえもこうであるから一たび飢饉にでもなれば、言語に絶する苦労があったであろうし、はては数知れぬ餓死者も出たことであろう。
 住居にしても屋根は萱ぶきで瓦ぶきはなかなか許されない。久万町の災害史を見ても火災が多く、そして大火が多い。
 文政八年(一八二五)久万町残らず焼失、たびたびの火災で類焼のため願い出て瓦萱きとなるとある。
 衣食住ともほとんど自給自足生活で、質素以上のくらしである。政治のことに対してもあきらめと忍従の姿がうかがえる。寛保元年(一七四一)の久万山騒動、池川、名野川の百姓の逃散にしても、よほど耐えた後の止むに止まれぬ反抗であるように思われる。こうしたくらしが江戸時代だけでも三〇〇年近くつづいたわけである。
 こうしたくらしも明治以後は、徐々によくなっていったが食生活の貧しさなどは大正時代にまで及んだのである。
  附 木地師の生活
 木地師というのは、ろくろを使って椀や盆などを作る工人のことで、ろくろ師・焼物師ともいう。日本で最も古い手工業の一つである。
 木地師にとっては全国の山々は入山勝手で、八合目以上、霞がかりと呼ばれる部分は自由に伐採してよいとされ、とち、けやきの良材を求めて山から山へと集団的な漂泊の生活をつづけてきたが、明治初年の山林所有権の確定で彼らの山わたりは終わり、最後の地に定住したものが多い。
 木地師の家系には小椋姓を名乗る者が多いのは、近江国小椋郷が全国木地師発祥の地といわれ、貞観(八六〇)のはじめ文徳天皇の第一皇子小野宮惟喬親王が小椋郷に入られろくろの業を教え、随従の藤原実秀に小椋太政大臣と名乗らせたという古い言い伝えに基づいており、木地師は小椋実秀及び小椋郷住民の子孫であるというのである。
 上浮穴郡にも木地師は、面河村・久万町直瀬・美川村大川・小田町・小田深山に分布しているが、中でも「きじや」と呼ばれる素封家には、菊花紋に御綸旨と記した小箱に、木地師渡世の免許状や惟喬親王を祖神とする縁起類をおさめている。
 さて木地師はどんなくらしをしていたのであろうか。
 ○木地師の技術伝承(面河村笠方字梅ヶ市・小椋亀吉からの聞き書き)
 梅ヶ市で木地師だった家は昭和二七年ごろには四戸であったが、明治年間までは、一〇軒以上の木地師がいて相当に盛んであった。
 しかし漸次、陶器の出まわりに押されるようになり、一般の需要が減少しだし、あまつさえ山林のほとんどが国有林となり、これまでのように自由に資材を得ることができなくなって、遂に昭和一〇年ごろを最後に衰退の一途をたどるようになった。
 それまでは越智郡の桜井漆器の木地請負いをやり、江戸時代には、大阪の木地問屋に搬出していたという。
 木地の搬出は椀類ならば一〇〇枚から一二〇枚を「一丸」といって、何丸も馬につけて出した。笠方から割石峠を越えて温泉郡川内を経て松山に運送した。
 いま、川内町に問尾という地名があるが、これは上浮穴郡の奥地から木炭や木材を運んで来た問屋の跡であり、昔は商家もあり、交通の要路だった。
 木地づくりの仕事は家族単位の家族労働でまかなわれた。女、子供に至るまでそれぞれ仕事があり工程を分担した。
 木地をくるロクロは明治末年までは、スエロクロで、ロクロの回転軸に牛皮のベルトを巻きつけて左右から交互に引張り廻転させた。このベルト引きが、女性の仕事だったのである。その後、現在の足踏みロクロが考案された。それはスエロクロに比して大変な技術革新でもあった。
 木地材料は、もとは全国いずれの山林でも八合目以上は自由に伐採ができるという入山権が許可されていて、好む材料をずいぶんぜいたくに使った。ケヤキ・ブナ・ミズメなどの細工し易い木質の部分だけを選択して使用した。この材料選択の技術は木地師特有のもので、立木に斧を打ち込み、たやすく縦に裂けるような木を選んだ。
 伐採方法、樹木の傾斜している側をウケというが、まずウケに斧を入れ、次にその反対のオイクチに斧を入れて倒木した。
 用材はやはり斧を入れてみて、縦にさけやすい柾目の筒所を良質として取った。
 これがいわゆるヨコキジ(横木地)である。ヨコキジに対してタテキジ(縦木地)があるが、この方が出来上がりは木目が美しく出てよいが、昔ながらのカンナではそれができなかったのでヨコキジだけをつくった。
 しかも、亀吉翁のいうにはヨコキジがほんとうの木地屋だという。
 木地屋は鋸は使わず、マサカリ一つで小割りをするので、どうしても加工し易い柾目の材質ばかりを選ぶようになったのである。
  (今でも上浮穴郡内のあちこちの山中の大木に、よく芹痕らしいものを見かけるのはこうした木地屋たちの選材の時にうちこんだ斧痕だということである)
 明治以降の資材の人手は、一応届け出てから入山するようになった。その購入は個人買いと仲間買いがあった。仲間買いで共同購入した際は、その分配は山を谷々で区分し、クジを引いて配分した。もし悪い谷に当たれば、次にはよい谷をまわすなどのあんばいもした。
 木地工程はまず材料の小割りだが、これは鎌型の道具で割った。これをアラグリという。次にマサカリで外形を整え、それを乾燥させておいて、いよいよカンナかけとなる。
 乾燥方法は、囲炉裡の上などにサナ(つり棚)を設けて、この上にのせて乾かしたりした。ほんとうは原木を自然乾燥させておくのがよかった。
 原木は切ってから約二〇年ばかりも放置しておき、後でヒビができたりすることのないようにしなければ一流の木地はできぬともいう。
 木地屋のカンナは、ノミ式のカンナで、これは自製する。材料は鋼鉄で各人各様に、それぞれ自分の力と体格に適応したものを鍛造する。しかしこれは大変むずかしい仕事だった。一流の木地師とはこのカンナの鍛造いかんによるもので、カンナづくりができなければ一人前ではないとされた。
 木地屋の技術中もっとも重要なのはこのカンナの鍛造であり、カンナガケ(木地ぐり)の仕事などは、一年もみっちりやれば会得できた。それで木地屋の作業場にはこのための鍛治場が設けてある。
 木地紙の道具は、カンナ一つである。それもいろいろあって、外道共と内道具がある。
 外道具 ビビラ・マルガンナ
 内道具 シヤカ・ウチシヤカ・エグリ・ダラツケ
 これらカンナ一つでもって、木地をつくるのであるが、もう一つロクロを使う時にカンナを持つ腕を支えるウマというのがある。
 ところで木地とはどんなものがあるだろうか、椀、盆などが主としたものであるが、盆などは直径二尺もあるようなものをつくった。しかし何といっても一番むずかしいのは碁石入れであるという。碁を打つ人が盤面をにらみながら碁石を指で押えたまま穴の内側に沿って出せるように作らねば、ほんとうの碁石入れとはいえないとか、また一対に必ず高低があって、低い方が黒石、高い方が白石入れというふうに違えて作るなどの奥義があるとかである。
 木地屋は木地屋仲間で縁組みし、一般民との婦姻はしなかった。特殊の技術を要する職人集団であるところにその理由はあるようだ。
 木地屋には年中行事らしいものはない。ただ木地師総本山である君之畑の金龍寺から出している、「木地師元祖、惟喬親王・称号大皇大明神略御縁起」にも記されているように、「正月三日・三月三日・四月九日・五月三日・六月一五日・九月七日・一一月九日」の七度の神事を行うことは欠かせぬ大事だったらしいが、多くは早くから廃されてしまい、ただ一一月八日を「フイゴマツリ」として、これを「御綸旨祭」といい、かなり盛大に祝っていた。この日はふだん交渉のあった人たちを招いて酒食を饗する風習であった。
 また木地屋には食習として納豆をつくって保存食とさせることもあるという。
 梅が市木地師は君ヶ畑系で、弥三左衛門という者が「文政一三年五月」付で金龍寺からの木地師のものを受領しており、また「弘化二年四月」付の「往来手形」を筒井公文所から受けている。