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久万町誌

六 内ノ子騒動(寛延三年)

 これは寛三年(一七五○)大洲領浮穴郡・喜多郡の農民一万八〇〇〇人が年貢の過重と村役人に対する反感からいっせいに蜂起したものである。村々の庄屋・富農さては富商を襲撃して乱暴の限りをつくし、ついに内ノ子河原に屯集して一部は大洲城下を目ざして強訴し、一部は宇和島城下に逃散する形勢を示した。大洲藩としては手の施しようもなく、支藩新谷藩の調停によって解決をみたが、ほとんど無条件で農民の申し条を受け入れ、頭取の処分についても寺門の取りなしによって不問に付するという、全面的に農民側の勝利に終わった騒動である。
 さきにあげた久万山騒動と、九年後に起こった内ノ子騒動は、まず伊予国における江戸時代中期を代表する大規模な一揆と見られる。ともに高率年貢を課する藩庁に対する反抗であるが、久万山騒動は農民の商品生産を藩の収奪から守ろうとする側面をもっており、かつ消極的な逃散の形をとっているのに対して、内ノ子騒動は村役人の非違不正を激しく攻撃し、利害の対立する富農・富商に対しても凶暴性を帯びた実力行使を行った点に相違が見られる。
 寛延二年の暮れ、小田郷の農民らは願いの筋があって代官まで申し出たが取り上げられず、そのため小田郷小田・臼杵から二名・露峰の村々には不穏の空気がただよい、ひそかに廻状をまわして蜂起の気配にあった。かれらは臼杵村氏神天神宮に集合して相談し、一揆の成功を祈願して、成功の暁には社殿を建立すると誓い、大綱をもって宮を引き倒して気勢をあげている。たまたま翌三年正月一六日に小川寺村の清兵衛のところへ廻状がきたところを寺村庄屋栗田吉右衛門におさえられ、清兵衛は監視され、事の次第が飛脚便で大洲城下に注進されようとした。その夜小田郷百姓ら一五○○人ばかりが庄屋の宅を襲い、住居をさんざんに打ちこわして清兵衛を奪い返した。これが騒動の発端である。
 一七日となると一揆の人数は二〇〇〇人にふえた。周辺の村々へ人数の催促に別動隊を出すいっぽう、臼杵・中田渡の庄屋宅を襲い、家に綱をかけて引き倒そうとしたが、村役人の陳謝で中止した。一八日には喜多郡に入り、北表村(現在五十崎町)の庄屋宅を襲撃し、別動隊は伊予郡中山村(現在中山町)の美濃屋・玉屋を襲撃したが、どちらも陳謝されて一部を破壊しただけで中止した。
 一九日には喜多郡五百木村(現在内子町)の富農又吉の居宅へ押し寄せ、家に綱をかけて引き倒し、土蔵を破壊して楮・漆の実などを運んで川に流し、俵物をのこらず井戸に打ち込んで上から大石を重しとし、建具・畳など一枚のこらず切り破り、衣類などは肥しつぼに打ち込み、諸道具類すべてを打ち砕くなどの乱暴を働いた。このようにかれらは各村の庄屋・富農をめざして襲ったが、なかでも五十崎村庄屋新六の家は綱をかけて引き倒され、酒桶を打ち割って三〇〇石ほどの酒を流し捨てている。同村綿屋源六の家も同様に引き倒され、土蔵にしまってあった衣類・蒲団類・何百束という紙類・しのまきなどを肥しつぼに打ち込まれた。漆の実売買に対する恨みといわれている。
 こうして一揆は小田川筋の村々を中心にまとめ上げて二〇日に内ノ子河原に結集した。総数一万八〇〇〇人といわれ、竹木・むしろ・こも・縄などを内ノ子村から取り集めて村ごとに小屋掛けをして、ほど近い大洲城下に対するデモンストレーションを展開した。かれらに対する飯米・諸費用は内ノ子の五百木屋両家から提供されたか、一日に米九〇石、小遣銭一貫八、九〇〇目を要したといわれる。もちろんかれらの目ざすところは大洲城下にあったが、一部は宇和島城下へ逃散するという風許もあって宇和島藩をも恐れさせた。ここでかれらは二七日まで宿泊するのである。
 こうなって大洲藩役人のとりなしでは、かえってかれらを刺激するばかりでおさえきれない。そこで新谷藩が調停の役を買って出た。郡奉行津田八郎左衛門らを内ノ子河原に派遣して、大洲藩に願い筋を取り次ぐから願書をまとめ上げて差し出すように、と説得鎮撫につとめさせた。百姓たちも話合いのうえ、この調停に応ずることにして願い筋を二九条にまとめて一月二三日に新谷藩あてに提出した。その文面の末尾に、
  「右書付の趣、少々にても相違御座候はば是非に及ばず他国仕候覚悟に御座候」
とあって、逃散の決意を明らかにしている。
 二九条の願いの内容は細かく多岐にわたっているが、なかでも年貢が高率であるとして四公六民の定免制にしてほしいこと、水旱損などで不作の場合は実態に即して引き下げること、小物成や諸役の負担過重ないし納入方法の不合理を具体的にあげるほか、入会山の問題やこの地方に特異な事がらが多い。また悪庄屋・組頭を差し替えてほしいと具体的に村名・人名をあげ、帯刀その他庄屋の特権を取りあげることなど、村役人に対する不満が数多く記されている。
 新谷藩では早速にこの願書を大洲藩に示して折衝を重ね、二六日に内ノ子河原に赴いて回答をかれらに発表した。その中には、二、三の承認されないもの、条件つきで許可するというものもあった。年貢についても昨年までの定免高とするとあって四公六民とはなっていない。しかしそのほとんどが聞き届けられ、農民たちのまず完全な勝利となった。また案ぜられた頭取吟味のことについても、大洲の法華寺、内子の高昌寺願成寺の三住職の取りなしで、いっさい不問に付されて一人の犠牲者も出すこともなし済んだ。

内ノ子騒動

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