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久万町誌

2 久万山騒動概況

 日之浦村小間物商山内才十は商売仲間での話は当時の情報機関でもあった。世相……。新政の不安があればあるほど藩政を恋い、藩公の免官と上京をとりやめてもらうためには再任の歎願による外はないと考えていた。才十はそう信じていた。たまたま八月の差入りであった。大味川に商いに行って話のついでに藤左衛門に歎願の話をした。同人ももっとものことと同心した。その後大洲の御配下の農民も城下に出訴歎願したという話を耳にした。当方も知事の上京後では間にあわぬとあせり始めた。八月一二日黒岩村に商いかたがた行く途中仕出組頭武八郎に出逢い、同人から久万山役所へ歎願したいとの話をきいて同人宅に参り話は進んだ。その末才十は先立も引き受けたのであった。それから八月一五日夕刻東川や七鳥の農民、長瀬まで出かけたのが行動の始めで久万郷全域の農民、久万町村法然寺に集まり、いろいろ役人より注意や取鎮めの話はあったが聞き入れなかった。不参の村々の督促に忙しかった。九月一七日未明途中窪野村の者共も加えて、久谷村井出口に到着久万役人より知事の通書も到来した旨の話もあったが、ますます猛りたった約二〇〇〇人で道を九谷川左岸添に二隊となり、高井村・久米村へと向かった。
 この時「久万山百姓歎願の筋があって城下に向かいつつあり」は浮穴、久米の近在に早くも伝わり、今まで動揺の折柄たちまち動き始めた。
 八月一八日に至り、行動は活発となった。
 久米郡北方村の農業田中藤作を首魁とする一団は、午前一一時ごろ松瀬川村庄屋に多数集まり、家財を破壊、諸道具、諸帳簿の焼払いを手始めとして逐次人数を増しつつ北方村・山口内村・樋口村・志津川村、西岡村の各庄屋西ノ岡の組頭宅、更に北梅ノ本庄屋も同様のことが起こった。丁度そのころ久米郡苅屋村農業相原喜助を中心として、(後同所農業重松為次も三時ごろ参加)一二時ごろ大野はずれの平井川集結を終わった一団と加わり、大酒をあおって、その勢とみにあがり、租税課に放火した。組頭宅庄屋宅と放火はつづけられ毀歌高らかに家財、諸道具、諸帳簿は焼却され、余煙のたなびく中を幟押立て竹槍鉄砲をもって南梅ノ本苅屋村の組頭窪川村庄屋と隣家五軒を焼き払い、上村の軍が森に野営を始めたのはたそがれのころであった。
 一方、高井・久米の民家に分宿の久万山勢は、一七日到着から藩家老の鎮定の使、知事の直書の伝達を受けながら、各村代表二、三名宛歎願の代表もきめたりした。(この村々損害は二〇〇〇貫を超える被害である。)
 一方、県においては鎮撫にその効なきのみか、暴徒の数は次第に増し放火乱暴の多くなるのをみて一八日軍隊の出動を要請した。
 こうして無気味な一夜は明け初めるころ、午前七時砲声四、五発、すはいよいよ軍隊の攻撃かと農民方ははね起き、狼狽の中にまた小銃の音がした。軍隊は日尾八幡附近から攻撃を開始したのである。
 その攻撃は迅速であり、とてもかなわぬとみた百姓一揆は、浮足だちくずれはじめた。そこで軍隊より命令がでて、各村ごとにまとめて帰村し始めたが、直ちに取調べが開始され首魁者久万山日之浦村百姓山内才十・久米郡苅屋村百姓相原喜助・久米郡北方村百姓田中藤作・重松為次は捕縛され連れ去られた。(後重松為次を除き三名入牢、外に越智郡野野江村百姓、越智源蔵・同村組頭越智喜代助・同村百姓藤原安左衛門・風早郡庄村西原藤次、いずれも入牢となっている。)他の農民には何分の沙汰があるまで帰村し農業に精出すよう命ぜられた。一応これで騒動は落ち着いたものの農民としては知事再任の歎願の目的は達しておらぬので、協議の結果各郡より二、三名代表をだし、上京陳情することになった。これが九月二日知事帰京の御別れの拝閲の日である。なおこの時御出発までに久万山が発起して各村より新米一、二俵宛知事に献じることにした。上京の割り当ては和気郡五名・温泉郡八名・伊予郡五名・久米郡八名・浮穴郡八名・風早郡五名(外二名)野間郡六名・越智郡二名・久万山は大庄屋久万町村庄屋鶴原太郎次・東川村庄屋梅木伝内・改庄屋直瀬村庄屋小倉宗衛の五名であった。一行は九月一五日三津浜を出航して二三日四時品川着、先着との連絡をとり、芝居町の和泉建蔵方に宿をきめ(その後数回宿を替えている)同二五日に三田御屋敷に三輪田綱一郎先生方へ鶴原太郎次・鷹の子村庄屋野宿精一郎の二人が訪問、歎願の実情を申し上げ内談して一同と計り行動を起こすことになった。一同が大蔵省に幾回となく行った歎願は、一三日目に御許しになった。その時の総勢四○名の代表を総代してことにあたったのは住吉文太・栗田与三・平岡文左衛門・河内安次郎・小倉宗衛・鶴原太郎次であり、追って何分の御沙汰があるとのことで終わった。東京見物をして一八日に一同三輪田先生に御礼言上して帰郷した。
 以上主要の部分のあらましを表わしたが詳細は別冊資料集にある。
 世に言う、久万山騒動は終わったのであるが、この騒動記の中で特に注意せねばならぬことをあげておこう。その一つは山内才十口述書の中にある。「前に申しました御願のことと一方御発途を御止め申したいと存じますが、この願いを御取り上げないようでしたら知事様を久万山まで迎え取り、百姓中で割米をもって御禄等も相納め致し以前の通り御支配御願い申上げ相叶いますならば、一山の者ども大変喜ぶことと存じます」という点と、その二は「八月一八日から久米郡租税課の焼打ちを始めとして水泥村・平井谷村・畑中村・窪田村・高井村各庄屋と諸道具諸帳簿を焼き、西岡村・苅屋村組頭等合計四軒、その外松瀬川村・北方村・山之内村・樋の口村・志津川村で五軒焼いたが、この焼打ちの暴動には久万山農民は加わっていない」こと。
 その三つは「九月一一日久万山農民の発起で餞別として新米を各村から一、二俵宛献納していること」である。調製された新米を菅伝吾・小倉門十郎が献納目録をもって久松邸を訪問している。四つ目は上京して歎願し、知事再任の目的を完遂せんとして代表者を出していることである。誠に久万山農民らしい純情さが表われているということである。
  ア 松山藩紀
 明治四年八月、浮穴郡久万山の頑民が暴動を起こした。初め藩庁から各郡に対し、神仏の混淆を正し淫祠を除くように布令を出したところ、頑民らの中には大変これを厭うて着手しない者が多かった。そこで庄屋に命じて該山の堂宇の一、二を焚毀させた。そこで頑民は不良の心を生じた。たまたま藩知事免官、帰京の公命があったので、一山の者知事再任の嘆願を旨とし、同郡七鳥村外二三ヵ村を煽動し、それぞれ鳥銃・竹槍を携え同月一五日の夜久万山町村に移動し始めた。どの村も風を聞いて応ずるもの多く、つぎつぎと蜂起した。県庁では早速使を遣わし、いろいろと諭したけれども、聴き入れず、それのみでなく、かえって村吏に抵抗し、掲示場を毀したり、あるいは出張官史の到るを拒むなどその暴威はますます甚だしくなった。そこで同一七日旧知事の直筆の書をもった家令某をはしらせ、諭鎮させようとしたがそれも聴かず、ついに浮穴・久米両郡に愚凌す。同一八日少属重松約(久万山在勤)と家令某等をしてその屯集の処に到り再び懇ろに諭した。この時重松約兇徒のため傷つけられた。家令某も説諭の道を得ないで帰った。
 暴徒は同夜久米郡鷹の子村に屯集した。久米・浮穴両郡これに応じて各村を煽動し、各村里正・組頭の家に闖入、家屋を毀ち、帳簿を焼き、はなはだしいのはこれに放火する有様、その乱暴狼藉は言いようがなかった。
 同一九日旧知事、温泉郡桑原村に行って首魁を呼んでこれを諭したので少しは鎮まる気配はあったが、他の兇徒等兇器を携えて各村に横行してついに同日午後久米郡官舎(久米・浮穴両郡を管し事務を扱う処)に火を放った。こうなると官も説諭では鎮めることができぬ事を知って同二〇日兵を出してこれを鷹の子村に迎えうった。兇徒数名が傷つき、みなはこれに驚いて逃げた。首魁山内才十ら数名を縛しここに、騒動は全く鎮定した。
  イ 石鉄県紀・首魁者口上書
  山内才十の口述書
 私は生まれは久万山、日ノ浦村の農業金十郎の三男で父が六年前病気で死にました。
 兄長助が相続しています。当時同人夫婦、甥一人、姪三人と自分で都合七人暮らしで御高一石ほど所持して百姓渡世でございましたが、私との仲は兎角折れ合か悪く不機嫌でありましたので、去歳八月ごろから兄の手元を離れ同村(沢渡村?)伯母婿市太郎方や、大味川村辺所々を宿として、小間物商売を致しましてその日を過ごしていました。そのころ久万山村の者どもが嘆願の筋がありまして、私を頭取と唱え村々に催促して村を出て強訴致しましたことに付きまして、去一九日久米郡南久米村で御召捕になりました。今日御吟味でありますので逐一申上げます。近ごろ御政治御改革のことにつきましては、当春神社仏堂御取調べの上取除の御沙汰がありましたが、当山は谷深く村々家並も離れ、殊更田畠作等も人家を隔て鬼所様と申します場所か所々にありますから作番やその外夜の便等の者は内心この社堂を頼みとして往還し、病気等の節は、祈願で凌ぎます向きもございます。右等の便を失いますので、何とぞそのまま置いて下さるようにと女子供に至るまで明暮相歎き、毎々寄合て評議を致し、一同出訴致しますように聞いております。その後も畑畝の竿入のこともありますとか……。又々心配しております内、藩知事様は御免職になられ近々御帰京遊ばされる御様子と承り、前条嘆願の次第かありますし、かたがた御発途を御止め申したいことを頼み、御取揚無い時は久万山まで迎え取り、百姓中割米をもって御禄等も納めます。前方の通御支配御願申上て相叶いますならば、一山の者共に大いに御ためになる事と存じます。八日差入ころ大味川へ往きました時、膳右衛方へ立寄り右の事荒々囃ました処、同人も尤の事と同心致しました。その後、大洲御配下百姓共が御城下ヘ出訴嘆願の様子御聞届なられたようにもききました。御当方も知事御発途後では何事も整いませぬと思い、早々出訴致し度くて、村々の心当之者へ相談のため、且つ外の用もありまして同一二日ごろ黒岩村へ往きました。途中仕出村組頭武八郎と申します者に出遭いました。同人久万へ嘆願致し度くと申しますに付きまして、同人宅に参りまして話ました内、同人より誰か先立の者は無いかと申しましたから、自分のこと先立で嘆願致します旨申聞かせ置きました。その後沢渡村の辨太・仕川村伝令・七鳥村久之右衛門・同長瀬組初三郎・同竹谷組利蔵・日浦村清右衛門・大味川村勝治郎様へ相談致し、いずれも同心致しました。もっとも前条村々でも毎日寄会畧出訴の話も有りまして、折柄だれ申すとも無く騒がしくなりましたので村々で談合落合の次第は、東川・七鳥の者共、七鳥村長瀬と申す辺に出合うよう談合、なお村々の印として有合せの幟・鍬の柄等持参するよう相定めました。私事は大味川村伊之助方に退留、同一五日夕刻東川・七鳥等の者長瀬まで出掛たる様子に付き自分儀も七鳥村氏神へ罷越しました。ところ最早多人数が集まり居りました。それより思い思いに立別れ・有枝黒岩の村々を催促して同夜久万町村へ罷越し同村法然寺へ屯集外の村々も出揃い次第嘆願の旨評定致すよう考え居りました。東川村彦右衛門・有枝村名前不存者呼寄せ村々揃わぬ内は騒ぎ立てぬよう取鎮め方をしてくれるよう申し聞かしました。自然自分は頭取の躰になりました。日浦・西谷・縮川・柳井川等へ督促の手紙を相認め差遣し、なお又知事様へ嘆願のあります事ゆえ、他郡よりも出ているので、その節混乱間違等がありましてはいかぬと思いまして、久万山の目印として久万町紺屋へ誂え幟を取揃え、浮穴郡久万山の文字を書き、法然寺に建てて置きました所、東川村高山組郷筒半右衛門と申す者より右の嘆願のことに付き幟等押立てては、不都合の趣申し取除けるよう申しました。一六日一二時ごろ久万町村高橋屋与兵衛と云う者、仕出村、梅木百太郎をもって郡役人中より屯集の者共へ用向きがあるから通りたいと申す処へ、未だ不参の村方がありますから一同か出揃いましたら久万町出張所へ嘆願致し、御城下も引纏めて貰いたいと存じ、もし評定決まらぬ前に御但分で御差押になっては不都合と考えまして、一同不揃では何事も御返答できませぬ旨御答えしました。その後久万町の会所結万右衛門と申す者から右百太郎をもって御役人様にも御登山なされますから、何用の事も御伺い申し上げますよう致すからと申しましたけれど、又前同様お答え致しました。なお又久万町村喜久屋厨太郎と申す者が来まして、一同嘆願の事についていかようとも取次ぎをするからと、知事様御登京御止申したい書面を認めこの通り承知致しておるから相鎮るよう申し聞かせ下書等持参して東風西風論しましたが、取合う者もありませず、私事も遅参の村方に催促致したいと存じておる時ですから、百太郎へ頼りまして出村の者に申し聞かせましたが、皆取合いませぬ。同夕刻一同の者より、私事大味川村・畑野川村の者、今もって来ない。兼ねて申合せておりますよう言うことは全く偽りであると厳重に申出て口々に面倒申しますゆえ、私事直ちに行って引連れ参りますよう申しますけれど一同より逃去るやら判らんとしていずれも同道せよと騒ぎ立てますから、私は窃かに身仕度を致しまして駈出ましたところ、多人数が追掛けましたが漸く駈、畑野川村まで参り同村の者多人数出掛て居りました。皆が申しますには奥分の者来なかったゆえ待っていた。と申し大味川の事は前文の清右衛門に庄屋より説得をうけ、村を出ることを留められましたゆえ遅くなった。右のような訳でありましたので当夜のことにはなりかねますし最早一同への申し訳も立ちます事ゆえ引返そうと思い久万町へ立戻りましたら、最早明神村辺へ押出ておるとききました。右途中追々畑野川の者共出掛同道明神村へ来ました。先途者共、入野村・久万町村・西明神村が加わり、東明神村蔵元に集まっておりました。上黒岩村栄蔵と申す者、私が出奔しました跡で一同離散致しかけましたものを纏め、これまで押立ててきたとのことでありました。いずれも竹槍鉄砲を所持し窪野村で者共を煽動し、一七日未明、久谷村井手口まで来ましたところ昨夜以来御直書が来ましたとの趣を久万町役人様より御披露がありました。
 有枝付桧垣内記・右百太郎・栄蔵・覚右衛門など取鎮めようとしていずれも御読聞かせられ一時は鎮まるかと見えましたところへ丁度騎馬の御方一人群集の中へ乗切られ一同驚いて押倒し怪我など致しました。これがため大いに混雑の時百姓等の内多数追駈け喧嘩など出来ました。
 またまた騒動となりました。その時、野尻・日ノ浦・柳井川・西谷・久主・蓿川の一群か押掛けて参りました。御直書の趣も存じませぬゆえ、今一応御読聞かせねばならぬこともありましたが、何分多人数の動揺の事でありますので手が届きませんでした。御役人様はやむを得ませず御引上げになりました。右総郡二〇〇〇余思い思いに押立て、又井手口に行きましてだれ差配ともなく分れ高井・久米村に進みました。私は久米村の方へ行きました。多人数の事、他所の郡の者も来ていますので混乱致しませぬよう考えまして、南久米村・鷹の子村・寺方・百姓家等へ宿を頼み配置致し休憩致し居りました。私事は南久米(名前不存)商屋に休憩致しました。同家二階には西谷村庄屋亀十郎・黒岩村又右衛門等居られました。内記栄蔵・覚右衛門等出合、同一七日夜分浮穴郡村方組頭の趣にて両人か来まして、同郡の者共高井村西林寺に屯しました所、久万人数の内二〇〇人借用致し、不参の村々へ催促したいのですがというのでした。承知の旨があったので両人引取りました。同日奥平様その外家中御隠居様方が御入込みになり、嘆願の筋については一村より両三人宛出て来るよう残りの人は速かに引取るようにと色々御説諭がありました。引取らなければならなくなったので、浮穴郡内約束の人数は御断りした方がよいと思いました。翌一八日朝宗蔵・覚右衛門相談致しまして上黒岩村梅太郎・沢渡村平三郎両人で西林寺まで御断り致しました。同日二時ごろより久米・浮穴両郡の動揺大変大きくなり、さいさい出火等もあるようになりました。殊に兵隊御繰出し右説諭に背きましたものは御討払いなさるよう御沙汰がありました。早々引取りたいと存じましたが、久米浮穴両郡乱暴をしたから、どうしてよいか当感致しました。内記覚右衛門等城下に参って居りますから、帰りますまでは引払い致しますまいと申しました。同一九日久米村八幡神託の境内で御召捕に相成りました。ところか右の一件のことで自分達の事は前条申し上げました通り初めての事であります。よりどころなく情愛も出ました。殊に大洲藩内でも一同嘆願のこと御聞届もありましたそうですし、なお久万町辺に乱暴に参りましたようにも聞きました。前件御相談致しました干内々考えておりましたよりも思い掛けない動揺となりましたような訳で御座います。そんなに深々しく申合せました者では一切ございませぬが旧知事様へ直々に嘆願申上げ以前の通り穏便の御政活に預り度く存じます。久万山へお越しになり右のような行違いになり何の評議も決まりませず動揺したのみとなりました。銘々ありのままの取計いのものでございます。ではありますが、強訴徒党のことは御大禁でありますので、御時柄も考えず嘆願申立てましたり、兵器を携え衆をあつめ、県庁を悔り旧知事を御迎えしたり等不敵の所業、不届至極の旨仰せ聞かされました。一言の申しようの筋もございません恐れ奉ります。
 右之通り相異なく申し上げます。
 明治四年八月日は未詳
                          同   人