データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

久万町誌

1 備荒貯米の必要

 江戸時代に米穀を蓄えることは、為政者に課せられた重大な政策といわねばならぬ。
 鎖国のため食糧不足だといって外国から補うことができぬのはもとより、国内でも三〇〇諸侯は互いに嶮岨をたのんで割拠しているので、藩の間の交通運輸も不便で助け合うようには出来ていない。豊作であれば米価は下落して農家はもちろん、家禄によって生活する武士階級は生計困難となるので影響する所が極めて大きい。
 八代吉宗が米将軍といわれたのは、この米相場の下落から、いかにして武士階級を守るかに心を砕いたことを意味するものである。してみると貯蔵米制度は一は飢饉に備え、一は市場の米を減じて米相場の下落を防ぐ一石二鳥の良策というべきであった。吉宗将軍は享保一二年(一七二七)に米の価格の下落を防ぐため、年貢米は悉く貯蔵に耐える籾納めとし、諸大名にも石高に応じ籾の貯蓄を行わせた。翌一三年には幕府の代官に命じ年貢の中を引き去って各地の倉に納めさせ凶年に備え、一五年には天領(幕府直轄地)の米六〇万俵を蔵入せず、その村々で籾囲として米価との調節をはかりかつ凶年に備えさせた。これが一七年飢饉に餓民を救った功績は大きかった。このように備荒貯米の必要が叫ばれ、各地でそれが効果をあげ、幕府もその施策を命ずる傾向の中で、我が松山藩では先の享保飢饉から二〇年後の宝暦六年(一七五六)に蝗の害による小飢饉にあい、いよいよ凶荒救済策の樹立の必要に迫られた。宝暦の災害から二〇年おくれる安永四年(一七七五)に非常囲籾の制度をたて、藩主と人民の共同積み立てがなされることになった。
 久万山凶荒予備もここに起因するのであるが、後世これを「安永四年非常水旱災予備米」と呼んでいる。実に寛政元年(一七八九)の幕府囲米の指令に先だつこと一四年のことである。