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久万町誌

6 大正三年久松伯の登山

 久松藩侯と久万山住民との温かいつながりについては、さきに明治四年の久万山騒動、凶荒予備等をあげたが、いま一つ、大正三年に久松定謨伯爵(元知事久松定武氏の厳父)が夫人同伴で、上浮穴郡を訪れた時の部民歓迎の模様を記しておきたい。久松伯の来郡は次のような日程であった。
  四月三日 東京発
    四日 午後七時高浜上陸
    六日 朝松山発・星の岡古戦場・砥部村陶器業を視察し、三坂にて昼食、久万町谷亀旅館泊
    七日 朝六時久万町発、御三戸を経て岩屋寺にて昼食、同日帰松
  主賓八人、随行男子四人、婦人二人の見込み
 この通知をうけた郡長荒田読之助は凶荒予備組合の管理者として、直ちに関係町村長を郡役所に招集し協巌する所があった。その席で、旧藩主であり本組合創始の恩人というわけで、感謝の心をこめてできる限りの歓待をしたいと次のような具体案が作られた。
  一、出迎え
    松山まで 郡長 柳谷中津村長 郡書記一人
    三坂まで 町村長全部 郡書記二人 婦人三人
   ただし、右は歓迎者の主たる人々のみにて外に地方布志の多数参加ある見込み
  二、三坂の設備
   ○仮小屋を設けること、便所を設くること、アーチを作ること。
   ○御来着と同時に煙火二発を打ちあぐること。
   ○昼食、松山市港町亀乃井に注文のこと。
    八人分二円ずつ    角切折三重
    一〇人分一円ずつ   大寸折二重
    三五人分五〇銭ずつ  六寸折
    〆 五三人分四四円五〇銭
    右は四月六日午前一〇時まで、三坂峠まで、人足三人にて送付のこと献立を亀乃井に作らせ郡書記にて検討のこと。
   ○御食事の外。ビール・サイダー・菓子・みかん・茶・アメノウオの焼きたるものなど準備
  三、岩屋寺行のこと
    「久主下り」まで車・椅子準備のこと。
   〇郡長、郡書記二人仕七川・川瀬・菅生・杣川・各村長・婦人三人
   ○準備 岩屋寺構えの事、昼食の用意は旅館より取寄せのはず
   ○御三戸の準備、時間少なきに付き、小時間の御休息なるべく、依ってテーブル・椅子・茶の準備に止む。ここにも便所の設備をなす。
  四、学校生徒等送迎のこと
    沿道各村の学校生徒は最寄りの節所に集合、御通過の際「旧君萬歳」を三唱す。ただし特に車を降り歩行の場合は萬歳をやめ敬礼のこと。生徒は校旗を先頭に各自手旗を用意す。
   ○久万町御着の時、煙火を打ちあぐ。
   ○沿道は国旗掲揚のこと。
   ○有志者はなるべく多数送迎のこと。
   ○沿道以外の地方の生徒その他もなるべく出掛けるよう取計らわれたし。
  五、見送り
    松山まで  郡書記一人明神・仕七川・村長
    三坂まで  松山行の外全部、婦人三人
  六、土産物のこと
    アメノウオの焼きたるもの(一貫五、六〇〇匁)
   ○茶盆・椎茸五斤・深山山葵・真綿五、六〇〇匁
  七、総予算
    四一五円七三銭
    車賃等は実費を支出することに承知せられたきこと。
   以上につき熟議の結果同意を得、詳細にわたる事柄は郡の意見により取り計らうことに申し合わせたり、
とある。
 歓迎用の幔幕を松山西堀端「ワシヤ」に注文しているが、浅黄地色の中央に葵の紋と梅鉢の紋を大きく染抜き右に「歓迎」左に「旧松山藩久万山領民」の文字を入れている。歓迎用大提灯二張は久万町田中運一に注文している。
  欅盆三つ組(大尺二寸・中尺一寸・小尺)
  弘形村大島八助に注文
  山葵二貫目、参川村へ注文
 アメノウオ・イダ・焼上げ一貫五〇〇匁柳谷村・椎茸五斤、久万町山之内権四郎へと郡内それぞれの人を指定し、吟味して調達させている。歓迎委員として是沢郡視学・長尾・長賀部・篠崎・桑原の四郡書記が嘱託されているが、特に郡視学に対して『沿道の各学校生徒をして最も熱誠に歓迎せしむるよう特に注意を希望せり』とある。
 谷亀旅館の準備万端については『米の精撰のこと、飯のたき方注意、風呂場の修理のこと、中庭の装飾のこと、洗面器を備えること、枕を備うること、含漱椀を備うること、揚子一〇本ぐらい箱入りのこと、歯磨粉ライオン、盛砂及手桶、折箱購入のこと。軸物・茶盆・防臭液撒布のこと』誠に至れりつくせりの注意が払われている。
 久松伯の久万町おつきの時は、郡役所前の道路にむしろを敷き、老人たちは涙を流して旧藩主のお顔を排したという。
 これは久万山住民が心を合わせて精一ぱいの誠意を表したものであった。
 後日久松家より次のような挨拶状が届いている。
   拝啓時下益々御清康奉大賀候、陳者此程伯爵御始め御家族方御来松の節は御心入之品御差出相成御厚意忝く深謝致候、就ては甚だ乍軽微御挨拶左記之通御贈被成候間御受納被下度此段得貴意候 
                            敬 具    
    一金壱万疋
    〆
   大正三年五月一日
                  久松家別邸詰
   明神村外八ヶ村
   久万山凶荒予備組合
   荒田読之助 殿
   追而別封は小包便に依り御送付致し置候間 御落手可被下候也
 右に対し荒田郡長より、
    拝啓時下益々御多祥奉慶賀候。陳者先般本組合恩人久松伯爵御登山被為下候節は碌々御世話も出来不申遺憾の至に奉存居候処今般御丁寧に金子壱万疋御下賜被為下候誠に恐縮の至りに候、何卒伯爵様之謝辞可然御取計被為下度奉願候茲に感謝の意を表したく如斯に御座候
                   久万山凶荒予備組合管理者
                           荒田読之助
   久松家別邸
    御家令様
 この歓迎の費用は合計六九四銭一厘となっており、その内訳は、
  一四七円二八銭    旅費
  一〇二円五九銭    客車人力車代
   一二円六九銭    通信費
   六八円四一銭五厘  雑支出
  二四九円一四銭六厘  購入品宴会費
   二〇円八二銭    休憩所御三戸諸費
であった。これは全部、凶荒予備組合が負担している。久松家より送られた二五円也は組合収入として積立金に繰り入れられた。
 昭和初年、森岡牛五郎・新谷善三郎の正・副組合長は久松邸に定謨伯を訪問し、その後の組合の活動の模様を縷々申し上げ、改めて深甚の謝意を表したのであった。
 なお本組合は久松家先祖定勝公(松山初代藩主定行公の父君)をまつる東雲神社の燈明料を毎年の予算に組み入れている。これは久万山人民の感謝の微意を示すもので、終戦後の一〇年間は至上命令によって中絶を余儀なくされたが、昭和三一年より復活現在額二〇〇〇円となっている。